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ディストピア系アイドルゲームの指揮官に転生したので、クズを演じながら推し活することにした  作者: 西嶽 冬司
2章【楽園、あるいは独裁国家】

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第16話【責任、あるいは懲罰の行方】


地下、通信室。

電子機器の排熱とカフェイン特有のケミカルな匂いが充満する、第九基地の深部。

無数のモニターが青白い光を放ち、その中心で一人の少女が世界と対峙していた。


「…………」


リリィは、目にも留まらぬ速度でキーボードを叩き続けている。

その目は充血し、その下には深い隈。

デスクの周囲には、空になったエナドリの缶が散乱。

カフェイン錠剤の空きシートが山を作っている。


「リリィちゃん、元気してる?」


美咲は気まずさを紛らわすように、明るい声で扉を開けた。


「……なんだ。 変態パパ(コンダクター)かと思えば、ただのパシリさんですか」


リリィは美咲に視線を向けることもなく、キーボードを叩く手を止めない。

相変わらず酷いルビ振りだ。

あと誰がパシリやねん。 広報兼記録係という立派な肩書きがあるんですけど。


「何か、掴めた?」


「……」


無言。

空調の低い駆動音と、リリィのヘッドホンから漏れ聞こえるジャカジャカという激しいロックサウンドだけが部屋を満たしている。

そこそこの付き合いだというのに、未だ美咲はこの天才ハッカーとの距離を詰めきれていなかった。


——間が持たねぇ……——


野良猫——それも気難しいアメリカンショートヘアのようなリリィの態度。

美咲は二人の間に、分厚いコンクリート壁があるような疎外感を感じ始めた。


沈黙に耐えかねて帰りたくなってきた頃、ようやくリリィが深いため息と共に口を開いた。


「——あの補佐官、プライベートな通信が一切ありません」


ぶっきらぼうなリリィの声には、珍しく困惑と焦燥の色が混じっている。


「……どういうこと?」


「文字通りの意味です。

 どんなに厳重なセキュリティでも、人間が生活していれば必ずデジタルの足跡が残ります。

 買い物履歴、SNSの閲覧ログ、位置情報……でもあの女にはそれがない。

 業務連絡以外の通信記録が、完全に『ゼロ』なんです」


リリィがモニターを指差す。

そこに表示されていたのは、真っ黒なノイズのようなデータ群だけだった。


「人間じゃないレベルで仕事人間だと、リリィは思います。

 あるいは——『人間』としての生活実態が存在しないか」


美咲は眉をひそめた。

総裁の孫娘ともなれば、交友関係は広いはず。

優雅なプライベートがあるはずだ。


それが——『ゼロ』。 明らかに異常だった。


「リリィの監視網をすり抜ける方法は、二つ考えられます。

 一つは、リリィの知らない暗号化通信技術を使っている場合」


「もう一つは?」


「……そもそも、電子通信を使っていない場合です。

 テレパシーのような生体通信とか、あるいはもっと原始的で、もっと根源的な何か」


「生体通信……?」


「あくまで仮説です。 でも、ただ者ではないとリリィのゴーストが囁いてます」


美咲は顎に手を当て、響の言葉を反芻した。


『あいつの心の音が聞こえない』


未だ十中八九で狂言としか思えない響の言葉。

彼の言っていたナギの値踏みするような目。

そして今回の通信記録の異常さが、奇妙に符合する。


点と点が、少しずつ不気味な線になりつつある。

だが、まだ決定的なピースが足りない。


「引き続き監視をお願い。 何か動きがあったら即座に篠崎さんへ報告して」


「言われなくてもそのつもりです。 リリィの(サーバー)を荒らす害虫は許しません。

 ……それで? 変態パパは何をやってるんですか?」


「あぁ、それはね……」


美咲は、先ほどまでの執務室——そしてその後の地獄絵図を思い出し、げっそりと頬を落とした。


「……今まさに、因果応報の裁きを受けているところよ」




***




時間は少し遡る。

場所は執務室。


湊の衝撃的な告白——『妊娠』という爆弾発言を受け、響が頭を抱えてデスクに突っ伏している。

湊の投げつけた書類は、パウーザからの診断書だった。


月経不順。

ホルモンバランスの変化。

妊娠の可能性あり。

要経過観察。


そんな羅列が、『フェルマータ』のサインと共に記されていた。


「これも見なさいよ……!」


湊が震える手で差し出したのは、妊娠検査キット。

判定窓には、陽性を示すラインがくっきりと浮かんでいた。


「マジかよ……計画が狂った……」


響が、まるで世界の終わりを見たような絶望的な姿を晒す。

原因は100%身から出た錆だが。 ザマァ見ろ。


その後ろでは、先ほど響が威嚇射撃で壁に開けた大穴を、ひなたが黙々と修繕していた。

マエストロになんて雑用をさせているんだ。

でもハンダごてを持つ姿より、左官コテを持つ姿の方が様になっている気がするのは何故だろう。


「……計画って何よ」


湊が腕を組み、響を睨みつける。

まだ顔は赤い。 羞恥と怒りと、その他諸々の感情がないまぜになっているようだ。


「俺の青写真では、活動期間が長い順に除隊させるつもりだったんだ。

 最初はカレン、次が真凜、そして万里……。

 湊はプリンシパルだから最後のハズだったのに!」


響がバンバンと、机を叩いて嘆く。

毎回思うけど、それやられると書類が散らばるからやめてほしい。


「だったら何で手を出すのよ!」


パァン!!と、素晴らしい音が響き渡った。

湊の渾身のビンタが、響の頬を正確に捉えたのだ。

全くもってごもっとも。 ぐうの音も出ない正論パンチ。 いやビンタ。


「いってぇ!」


「自業自得でしょ。 この種馬」


美咲が冷ややかな目で見下ろす。

同情の余地などナノメートル単位でも存在しない。

もっとやれ。 いっそ埋めてしまえ。


響は痛みに顔を歪めながら、ブツブツと高速で独り言を漏らし始めた。


「だいたい計算外なんだよ!

 湊のキャラデザと設定なら、戦後はカフェのマスターと結ばれるのが『正史』だろ!?

 まだ『ツン』の段階で、デレる前に孕むとか原作崩壊もいいとこだろ!!

 コーヒーショップの常連だった彼氏はどうすんだよ!?」


「何言ってんのよこの男……」


湊がドン引きしている。 美咲もドン引きしている。

ナギに至っては、あまりのカオスに思考停止し、天井のシミを数え始めていた。

なぜ架空の男が二人も出てくるのか。 それに常連客の方は自分で処理済みでしょ。


「くそっ、『今日なら大丈夫』って言ったのに……!」


パァン!!と、湊のビンタのおかわりが飛んだ。

響の鼻からツーッと鮮血が滴り始める。


「「最低だこの男」」


湊と美咲、そしてナギの声が見事にハモる。 本当に最低だよ。

ひなたは見て見ぬふりをして、壁の穴埋めに集中している。

とても賢明な子だ。 彼女の処世術は見習うべきかもしれない。


「……で、どうするんですか? 篠崎さん」


美咲が深いため息と共に、ようやく本題を切り出す。


「カレンさんに続いて湊さんまで離脱。 レゾナントが、千紗さん一人になっちゃいます。

 戦力ダウンどころの話じゃありませんよ」


その言葉に、響の纏う空気が変わった。

クズの顔が消え、歴戦の指揮官の顔になる。

鼻血を出しながらキリッとしても締まらないが、目は本気だった。


「……ああ。 それが最大の問題だな。

 湊は換えの効かない大切な存在だ。 離脱は俺の頬くらい痛すぎる」


響が立ち上がり、窓の外を見つめる。 全部自業自得でしょ。

「大切な存在」という発言に、湊が少しニヨニヨしていた。

分かりやすく嬉しそうだ。 この女、チョロいな。


——湊ちゃん、騙されてるわよ——


確かに響の言葉に嘘はないだろう。

でも美咲は知っている。

この男は、第九のメンバー全員に対して「お前が必要だ」「お前が一番だ」と同じ熱量で語れる男なのだ。


そう美咲は思ったが、母体への影響を配慮し、あえて黙っておいた。

胎教に悪い事実は伏せるのが、大人の優しさなのよ。


「三区は間違いなく、『プリンシパル不在』を理由に、また面倒くさい補充要員を送り込むはずだ。

 最悪の場合、第九のメンバーはバラバラに解体されるぞ」


「また面倒くさい補充要員」って面と向かって言われ、ナギの頬がピクッとなってましたよ?


「中央以外はプリンシパルの性別で統一ですからね……。

 どうするんですか?」


美咲の言葉に、響が振り返る。

その瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。


「——千紗を、プリンシパルに昇格させる」


「……え?」


「篠崎 千紗もまた、Aランク災害を鎮めた英雄だ。

 そんなヒロインをお舐めでないよ、狸親父ども」


響が不敵に笑う。


「補充は不要。 第九は第九のやり方でやる。

 ……それが、俺の答えだ」


「でも……!」


美咲が反論しようとした時、作戦室のドアが開いた。


「——任せてください」


そこに立っていたのは、千紗だった。

いつから聞いていたのだろう。

普段の儚げな表情は消え、凛とした強さを湛えている。


……ごめんなさい、真面目な雰囲気だけど私の恐怖を解きほぐしてほしい。

湊の妊娠の話は? そこから聞いてたの?

ねぇ、その笑顔の裏で何を考えてるの? ねぇ!


「千紗……」


「義兄さんがそう言うなら——私がみんなを守ります」


美咲の疑問と恐怖を他所に、話はどんどん進んでいく。

ブラコン全開の言葉だが、そこには兄のためだけではない、仲間を守ろうとする強い意志があった。


「……千紗。 負担は大きくなるぞ」


「覚悟の上です。 それに——義兄さんが、私一人に背負わせないってことくらい、分かってますから」


千紗が全幅の信頼に満ちた目で響を見る。

さすがお義兄さん全肯定BOTだ。 信仰心が強すぎる。


「……そういうことだ。 頼めるか、弥生」


「ええ、任せてください」


苦笑する響に、弥生が力強く頷く。 待って待って、どんどん出てくる。

このタイミングで勢揃い? まさかドラミングが始まっちゃうの!?


「ネットワークの再構築が完了すれば、千紗さんの負担を分散させる体制は構築可能です。

 かつて私が果たせなかった役割……今度こそ、全うしてみせます」


弥生の目にも、決意の炎が灯る。

待って、話に集中できない。 耳を滑ってる。

弥生さんの笑顔が、なんでか般若の面に見えてくるのは私の心が汚れているから?


おろおろする美咲の精神状態を無視し、会議は滞りなく進み続ける。


「……お前の意思を尊重する。 どうしたい?」


響が湊に向き直る。

湊は少し驚いたように目を見開き——


無意識に、まだ平らなお腹にそっと手を当てた。


「……ギリギリまで戦うわ。 私の音楽は、まだ終わってないもの」


「そうか。 なら体調を見ながら、徐々に下げていく方針で進めよう」


響が優しく微笑んだ。

それは嘘偽りのない、慈愛に満ちた表情だった。


「絶対に、俺が守る。 お前も。 お腹の子も」


「……バカ。 当たり前でしょ」


響の両腕が湊の背中へと回され、しっかりとその華奢な身体を抱きしめた。

湊が頬を微かに赤く染め、恐る恐る響を抱き返す。

その表情は、いつものツンケンしたものではない。


どこか、安らいだものだった。


——あ、デレた——


美咲は天を仰いだ。 本っ当にチョロいな〜。

それにこの種馬、なんだかんだでやっぱりモテる。 クズなのに。

四股——いや五股かけてるのに。 腹立たしい。

末長く爆発しろ。 何なら今すぐ爆発しろ——







「——へぇ」


美咲の背後で、冷凍気化爆弾が起爆した。

絶対零度の冷気が、作戦室の温度を一瞬で奪い去る。



響の肩がビクンッ!!と、これ以上ないほど大きく跳ねた。

美咲の心臓も止まりかけた。 なんなら何秒かマジで止まった。


確かに爆発しろとは思ったけど、せめて私が退出してからにして!

巻き添えはごめんだわ!


——ここは、ナギさんを盾にして凌ぐしかない!——


出世のチャンス? バカタレ、そんなものは生命あっての物種だ!

そう思い、美咲がナギの座るソファへ救いを求めて目を向けると——




彼女は忽然と姿を消していた。


——逃げられたぁぁぁ!——


あの女、気配を消すのが上手すぎる!


カツン、カツン、カツン。


死神の足音が響く。 しかも二人分。

ステレオサラウンドでお届けされる、絶望の行進曲。


「響さん。 『ママ』に詳しく話してくれますよね?」


甘く優しい弥生の言葉。 でもなんかこう、水飴くらいねっとりしてる。

まるで深い深い海底へと、逃げ場のない深淵へと引き摺り落とすような声だ。


「義兄さん……言ってましたよね? 湊さんと私には手を出さないって——」


鈴を転がすような、可憐な声が脳を揺さぶる。

天から届く慈愛と慈悲に満ちた福音。

それが——




「——どういうことなんですか?」


——切っ先鋭い刃となって、首筋を撫でた。


「あっ、あっ、あ……」


恐怖で震える響の喉から、脳に電極でもブッ刺さったような情けない声が漏れる。

美咲は恐怖で鳥肌の立った自分の腕を抱きしめた。

響も恐怖から、反射的に湊を強く抱きしめた。


ギュウゥゥ……。


耳まで赤くした湊が「もぅ……甘えん坊なんだから」と勘違いして響を抱き返し、その胸に頬を擦り寄せた。

空気を読みなさいバカタレが!

今、あんたの彼ピは甘えてるんじゃない、怯えてるのよ!


「じっくりと、今後について話しをしましょう? 義兄さん」


伸びてきた氷点下のような白さの指が、するりと滑るように流れ——


響の首を、正確に掴んだ。


白魚のような細く長い指だが、その爪が万力のようにぎっちりと肌に食い込んでいる。

頸動脈をいつでも引きちぎれる位置だ。


「そうですね。 みんなでお話ししましょうね?

 隠し事はナシですよ? 『家族』なんですから」


聖母や菩薩もかくやの微笑みを浮かべた弥生の手が、静かに響の肩に置かれた。

ただ「お前、逃げられると思うなよ?」と言わんばかりに、ギチィィ……と骨が軋む音がしそうな重力を放っているけど。


カタカタと顔面蒼白で震えながら、響は一縷の望みをかけて、腕の中の湊を見つめた。


最初はチラチラと左右へ視線を彷徨わせていた湊。

やがて目尻をとろっとさせながら、響を見上げた。

急激にデレデレしすぎじゃない? IQが3くらいまで下がってない?


「……今だったら、もしかして双子になるのかしら」


なるわけねぇだろ、この脳内どピンク!




***




「——なるほど。 相変わらずの種馬のクズですね」


リリィは吐き捨てるように呟いた。

金髪ロリの心底蔑んだ目って、見てるだけで精神をごっそり削られるわね。


「把握しました。 今頃、変態パパは収穫(意味深)されてるわけですね。

 自業自得です。 南無、南無」


リリィが手を合わせて拝む。


——情操教育に悪いなぁ——


やはりあの男は隔離するべきなのでは?

もしくは畑仕事だけやらせれば良いのでは?

種を撒くのは畑だけで十分だ。


「そういうわけで、私は千紗さんのプリンシパル任命のメールを三区へ送り、ここへ来たの」


美咲はどっと疲れが出たように椅子に座り込んだ。


「ふっ、やはりアナタは変態パパの立派なパシリだと、リリィは思います」


ウルセェよ。

自分でもちょっと思い始めていたため、美咲は反論できずに押し黙った。




——その時だった。


唐突に、通信室の照明が消えた。

PCの駆動音、サーバーの冷却ファンの音、空調の音。

それら全てが一斉に止まり、完全なる静寂が訪れる。


「……え?」


暗闇の中、非常灯の赤い光だけが、不気味に明滅を始めた。


赤、黒、赤、黒。


視界が点滅するたびに、影が伸び縮みする。


「緊急事態です」


「ぎょわぁぁぁ!?」


突如、美咲の背後、耳元で声がした。

振り返ると、赤い非常灯に照らされた真凜の顔が浮かんでいた。

瞳の奥が、無機質に光っている。


どうしてここにいるって分かったの? なぜ? Why?


一寸の暗闇の中、美咲は心臓が口から飛び出るほどの衝撃を受けた。

バクバクと暴れる心臓を押さえ、必死に呼吸を整える。

さっきから心臓に悪い事が起きすぎでは? そろそろマジで止まるよ?


「基地の主電源が全てダウンし、オーグリーのシステムが緊急停止しました」


真凜が淡々と報告する。


「恐らく、三区からの追加制裁でしょう」


つまるところ、首輪の締め付けか。

歯向かう飼い犬には、電気も情報も与えない。 そういう意思表示なのだろう。

高宮の、あの歪んだ笑みが脳裏に浮かぶ。


「あっ……あっ……」


暗闇の中、リリィの震える声が漏れた。


「……リリィちゃん?」


美咲が振り返る。

非常灯の赤い光に照らされたリリィは、ガタガタと小刻みに震え、瞳孔が開いている。


やはりまだ幼い彼女にとって、この閉鎖空間での真っ暗闇は怖いのだろう。

可哀想に。


「リリィちゃん、大丈夫? 怖くないよ」


美咲が安心させようと手を伸ばした、その時——




「にゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」


リリィが絶叫した。 反響してめっちゃうるさい。

それは恐怖の叫びではない。

もっと根源的な、魂の慟哭だった。


「リリィのデータが! リリィの大切なデータがぁぁぁ!!

 何年もかけて収集したデータベース!!!

 画像や動画も! 秘蔵の音声ファイルも!

 全部アクセス不能に!? バックアップサーバーも死んでるぅぅ!?」


リリィは頭を抱え、暗闇の中で激しくのたうち回った。


「あっあっあっ……ほっ……ほあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」


「そっちかよ!!」


美咲のツッコミは、発狂した天才ハッカーの絶叫にかき消された。




だが——次の瞬間、美咲の脳裏を、別の恐怖が駆け抜けた。


電気が止まった。

それが意味することを、美咲は今ようやく理解し始めていた。


——待って。 待って待って待って——


美咲の手が、無意識に壁を探った。


冷たいコンクリート。

もちろん、スイッチを押しても何も起きない。


電気がないということは️️——


照明がない。

空調がない。

冷蔵庫が動かない。


オーグリーのシステムが使えない。

ノイズの接近を感知するセンサーも。


通信機器も。

浄水設備も。


——全部、止まってる——


美咲の背筋を、氷のような冷気が這い上がった。


「真凜さん……備蓄は?」


声が震えた。


自分でも驚くほど、情けない声だった。


「食料は約二週間分。 水は浄水設備が停止したため、備蓄タンクの分のみ。

 ……五日が限界かと」


真凜の声は、相変わらず平坦だった。


だがその無感情さが、逆に現実の重さを突きつけてくる。


五日。


たった五日で、水が尽きる。


「カレンさんと湊さんは……妊婦なのに……」


美咲の声は、自分の耳にすら届かないほど小さかった。


妊婦には水分が必要だ。 栄養が必要だ。

脱水は、母体にも胎児にも致命的なダメージを与える。


それなのに——五日。


「……っ」


美咲は、自分の膝が震えていることに気づいた。


立っていられない。

壁に背中を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。


暗闇が、四方から押し寄せてくる。

赤い非常灯だけが、ぼんやりと空間を照らしている。


その光の中で、美咲は自分の手を見つめた。


震えている。 ガタガタと、止まらない。


——私、三区を裏切ったんだ——


その事実が、今更のように重くのしかかってきた。

嘘の報告書を送った。

響を『無害なクズ』として報告し、第九に残る口実を作った。

あの時は、正しいことをしたと思っていた。

この場所を守りたいと、本気で思っていた。


でも——


——もし、このまま全員死んだら?——


美咲の脳裏に、最悪のシナリオが浮かんだ。

水が尽きる。

食料が尽きる。

妊婦たちの体調が悪化する。


衰弱した隊員たちが、ノイズに襲われる。


そして——誰も助けに来ない。


だって私が、『脅威度は低い』と報告したから——

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