第15話【乖離、あるいは裸の王様】
支援物資の無期限延期。
その通達から一夜明けた。
執務室の空気は昨日までと打って変わり、粘りつくような不快な湿度を帯びていた。
その発生源は上座——本来ならコンダクターが座るべき椅子にふんぞり返る男だ。
「ふん。 これで少しは身の程を理解したか?」
高宮 セイジは、朝のコーヒーを優雅に啜りながら響を見下ろしていた。
その手にあるカップは、響が私物として大切に保管していたアンティーク。
中身はもちろん、響が育てた豆を湊が淹れた最高の一杯。
「……良い香りだ。 だが、不純物が飲むには少しばかり品が良すぎるな」
高宮はわざとらしくカップを傾け、残りを床に捨てた。
茶色い液体が、コンクリートの床にシミを作る。
「あっ……!」
美咲が声を上げる。
それは、高宮の無茶振りに耐えて書類整理している響のために、モソモソと文句を言いながら湊が入れた一杯だった。
素直になれない彼女の、精一杯の気遣い。
そして響も、その一杯を飲むことをとても楽しみにしていたのに。
響は無言で、床に広がるシミを見つめていた。
表情は読み取れない。
ただ、書類を整理していた手が、ピタリと止まっている。
「どうした不純物。 いつもの減らず口はどこへ行った?」
嘲笑う高宮。 ぶん殴りてぇ顔だ。
兵糧攻めという圧倒的な暴力を手に入れた万能感が、彼を増長させていた。
「今更媚びても遅いが——泣いて詫びれば、三区への口利きをしてやらんでもないぞ」
高宮が靴の先で、床のシミをトントンと叩く。
「土下座して『監査官様、どうかお助けください』と言え。
そうすれば、貴様らのような劣等でも救ってやる度量が、私にはある」
その言葉が落ちた、瞬間。
美咲は、室内の気圧がガクンと下がったような錯覚を覚えた。
……最近冷えること多いな。 ガウンでも携帯しようかな?
「……へぇ。 劣等ねぇ」
響が、ゆっくりと顔を上げる。
高宮の喉が「ヒュッ」と鳴った。
いつもの軽薄なチャラ男の空気が剥がれ落ち——
深淵のように暗く、冷たい『獣』が顔を覗かせている。
美咲は、高宮に巨大な影が覆いかぶさったように思えた。
高宮は本能的な恐怖に突き動かされ、椅子ごと後ずさった。
「三区との繋がりが切れるなら、三区のルールに縛られる必要もないよな。
そうだろ? 監査官サマ」
響がニィッと笑う。
笑顔の形をした、捕食者の開口だった。
「き、貴様……何を考えている!」
「別に? ただの独り言だよ」
響がスッと表情を戻し、肩をすくめた。
瞬き一つで獣の気配は霧散し、いつもの雰囲気に戻っている。
「……ま、今のうちに楽しんどけよ、監査官サマ。
『勝者』でいられる時間は、そう長くないからな」
高宮は何か言い返そうとして——
震える指先を隠すように拳を握りしめ、逃げるように執務室を出ていった。
バタン、と扉が閉まる音が虚しく響く。
「……真凜」
響が虚空に向かって呼びかける。
「はい」
音もなく、書類棚の影から真凜が姿を現した。
その瞳には、いつも以上に冷徹な光を宿している。
いつからそこに潜んでいたんだろう。 やはり忍者。 ワザマエ。
「予定通り準備は順調です。
弥生さんからも『いつでも狼煙を上げられる』と報告が上がってます」
「そうか。 声真似上手だね」
「恐縮です」
響が窓の外を見つめた。 窓の外には、鉛色が重く垂れ込めている。
いつにも増してシリアスな雰囲気に、美咲は自然と息をのんだ。
「全員に伝えろ。 『撃鉄を起こせ』ってな」
***
「響さん、お待ちしてました」
元・マエストロ——多々良 弥生が、大型モニターの前で優雅に微笑む。
その横では、ひなたが眠そうな顔で回路図をチェックしていた。
「お疲れ、弥生さん。 ネットワークの再構築、進捗はどう?」
「三区のサーバーを経由しない、ローカルネットワークの設計は完了。
あとは各拠点への中継器の設置だけです」
弥生がモニターを指差す。
表示されていたのは、第九地区全域を網の目のようにカバーする、独自の通信網だった。
「私には、もうノイズとしての能力は使えません。
でも——設計図は、全部ここにありますから」
弥生は自分のこめかみをトントンと叩いた。
元・マエストロとしての膨大な知識と経験。
それが、今の彼女の武器。
「さすがだな。 頼りにしてるよ、弥生さん」
響が弥生の腰を抱き寄せ、その頬を優しく撫でた。
その手の感触に弥生が目を細め、甘える猫のように頬を寄せる。
「ふふ。 褒めても何も出ませんよ?
……あ、でも肩揉みくらいならしてあげましょうか?」
弥生が悪戯っぽく微笑み、見つめ合ったまま響の肩に手を置く。
響も満更でもない顔で力を抜いていた。
『蜜月』と呼ぶに相応しい甘やかな空気が、二人の間を満たす。
——あまぁい……砂糖を直接舐めてるみたい——
その光景を見ていた美咲は、思わず顔をしかめた。
二人の隣で作業しているひなたは、気に留めた様子もない。 心が強い。
外では兵糧攻めだの戦争だのと騒いでいるのに。
ここだけ新婚家庭のような甘い空気が流れている。
独り身の美咲には、この精神的ダメージは計り知れない。
死にたくなってきた。
切実に、彼氏が欲しい。 今度の合コンも参加しよ。
「師匠、ここのバイパス回路なんですけど……」
「ああ、そこはねひなたちゃん——」
技術的な議論を交わす二人を、響が満足げに眺めていた。
——いや家族やん。 どう見ても家族やん——
子供の工作を見守る夫婦やん。
美咲は、甘やかさに爛れそうな胃をさすった。
***
定期ライブ演奏日。
しかし、あいにく湊が朝から体調を崩してしまっていた。
「体調管理もできないとは情けない。 地方のレベルが知れるというものだ」
『トランポ』の車内。
高宮の嫌味な声が、重苦しい空気をさらに澱ませていく。
その声を右に左に流しながら、美咲は湊を案じた。
実際、湊の顔色は本当に悪かった。
朝から吐き気が止まらず、食事も喉を通らなかったらしい。
「仕方がない。 地方の実態を監査するためにも、この私が特別に参加してやろう」
高宮はケースから、自身の『愛機』を恭しく取り出した。
真っ白なボディの中央に埋め込まれた、無骨なスピーカー。
弦は張られておらず、ネック部分にはボタンがずらりと並んでいる。
一見すると、まるでおもちゃのギターのようなデバイスだ。
——久しぶりに見たな。 向こうじゃ最新モデルがステータスだったけど——
見間違えるはずもない。 『ロジック・アンプ』だ。
美咲も中央にいた頃は、これを抱えたアイドルたちが、笑顔でボタンを連打する姿を毎日のように見ていた。
「私の足を引っ張るなよ。 この私が弾き出す最適解に、貴様らが合わせろ」
高宮はサングラス型のバイザーを装着し、虚空を見つめてニヤリと笑った。
その姿は、流行りのゲーム機を買ってもらって喜ぶ子供のようにしか見えない。
——うわぁ……なんか、見てて恥ずかしい……——
美咲は痛々しいものを見る目で彼を見た。
かつての美咲も、高宮のスタイルが『洗練された最先端のスタイル』だと思っていた。
けれど、泥臭くて、熱くて、魂を削るような生演奏を知ってしまった今の美咲にとって——
それはただの、『高価なオモチャ』にしか見えなくなっていた。
三区の常識が九区では非常識。 それをこの男はまだ気づいていない。
車内の空気は最悪だ。 カレン不在に加え、湊もダウン。
残された千紗、リリィ、真凜、万里の表情は、「仕事だから仕方なくやる」という諦めの色で塗りつぶされている。
永遠とも思える沈黙を経て、トランポが現場へ到着。 タラップが降りる。
「行くぞ、劣等ども。 中央の『本物』のエンターテイメントを見せてやる!」
高宮がロジック・アンプを抱え、意気揚々とシェルターのステージへと向かった。
殴りてぇ。 心底そう思いながら、美咲もその後を追った。
***
会場となったのは、地下シェルターの広場。
薄暗い空間に、多くの避難民たちが集まっている。
彼らは皆、日々の不安に疲れ、第九部隊の演奏に癒しと希望を求めていた。
「——ワン、ツー……」
万里が静かにスティックを叩き、リズムを刻み始める。
それに合わせて、リリィがキーボードで優しい旋律を奏で出した。
真凜のギターに合わせ、千紗が優しく語りかけるような歌詞を歌う。
怯える子供たちや、疲弊した大人たちに寄り添うような、温かくスローなバラード。
それが、今日のリクエスト曲だった。
だが——その繊細な空気は、無慈悲に破壊された。
「ぬるいぞ貴様ら! もっとBPMを上げろ!」
高宮が叫び、ロジック・アンプのボタンを叩いた。
スピーカーが場違い極まりない、耳をつんざくような超高速のギターソロが吐き出す。
それは中央で流行している、煌びやかで騒々しいアイドルソングのイントロ。
確かに音程もリズムも完璧な『プロの演奏データ』。
美咲も聞き覚えのある、中央のヒットチャート常連の曲だ。
だがこの静かなシェルターの空気とは、何もかもが噛み合っていない。
最前列にいた子供が、あまりの爆音に耳を塞いで泣き出した。
避難民たちが眉をひそめ、ざわめき始める。
「なんだコイツ?」
万里が驚いてテンポを乱す。
リリィのメロディがかき消される。
真凜のリズムを無視した不協和音。
千紗が顔を顰め、たまらず歌うのを止めてしまった。
「何をしている! 観客が退屈しているじゃないか!
私の『正解』に合わせてテンションを上げろ!」
高宮はバイザーに流れる指示に従い、恍惚とした表情でステージ中央へ躍り出た。
指先ひとつ動かさず、ただボタンを押しているだけ。
なのに、まるで自分がロックスターであるかのように激しく頭を振る。
完全なるエアギター。 直視ができない。
——いたたた! あまりの痛々しさに皮膚が剥がれ落ちそう!——
美咲は頭を抱えつつ、身を捩った。
目の前で家を失い、家族を失った人々を前にしての無神経さ。
慰問ではなく暴力だ。 正気の沙汰ではない。
「っ、無茶苦茶すぎだと、リリィは思います!」
リリィが悲鳴を上げた。 私の心も共感性羞恥で、悲鳴と軋みを上げていた。
彼女たちの音楽は対話だ。 聴衆の心に寄り添い、呼吸を合わせる。
だが高宮の音には心がない。
あるのは「この曲が正解だ!」という傲慢な押し付けだけ。
「ええい、ノリの悪い奴らめ! なぜオーグリーのデータ通りに演奏できない!
お前たちのレイテンシーのせいで、会場のヒートアップ率が下がったではないか!」
泣き叫ぶ子供、呆れ返って席を立つ老人。
お通夜のような空気の中で、高宮だけがボタンをポチポチと押しながら、ズレまくったな演奏を垂れ流していた。
「……最悪だ」
舞台袖で見ていた美咲は顔を覆った。
それは、第九部隊が築き上げてきた信頼を一瞬で瓦礫にする行為。
一緒に袖で見守っていたナギも、「マジか……」と言う表情で呆然としている。
美咲は、恐る恐る響の顔色を伺った。
いつも通りの軽薄さを張り付けた笑み。
だがその目にとてつもない怒りが渦巻いている事は、心が読めない美咲にも理解できた。
***
「なんだ今日の客層は! あんなノリの悪い観客は生まれて初めてだ!」
帰投後の執務室。
高宮の罵声が、ガラスをビリビリと震わせる。
ライブの結果は、言うまでもなく大失敗。
アンコールどころか、途中でブーイングが起き、演奏中止に追い込まれたのだ。
「足を引っ張るなと言っただろ! 私の選曲は完璧だった!
貴様らが無能なせいで、私の完璧なステージングが台無しだ!」
そう言いながら、高宮がデスクの書類を薙ぎ払った。
バサバサと紙吹雪のように舞う報告書。
この野郎。 その書類を誰が片付けると思っているのだろうか。
美咲は額に青筋を浮かべた。 今すぐこいつの頭にアンプを叩きつけてやりたい。
ナギがいれば諌めてくれていただろうが、あいにく今は席を外している。
彼もそれを分かっていて、ここぞとばかりに鬱憤を晴らしているのだ。
控えめに言ってクソである。
「オーグリーのトレンド数値を理解できない脳みそなら、前頭葉ごと取り替えてこい!
まったく、これだから地方の野良犬は……!」
高宮は響を指差し、唾を飛ばした。
「おい不純物! コンダクターなら部下の教育くらいしっかりしろ!
そもそも、お前が愛人を重用し、無能なノイザーどもを飼っているのが諸悪の根源なんだよ!
あんなゴミども、さっさと処分しろ!!」
——このっ! 恥知らずのクソ野郎!——
美咲の中で何かが切れた。
確かに美咲はまだ九区に来て日が浅い。
それでもこの基地のみんなのことを、不器用だけど温かい『家族』だと思っていた。
あの日のファイルの写真が脳裏をよぎる。
見ているようで、何も見ていない虚な瞳の写真が、『家族』の顔へと変わっていく。
そして今日のステージで、泣き出した子供を見て傷ついていた『家族』の顔。
怒りで視界が赤く染まる。 視界が滲んでいく。
美咲は思わず立ち上がり、何かを叫ぼうとし——
自分以上に『家族』を大事にしている男が、目に映った。
執務室の空気を、腹に重く響く爆音がズタズタに引き裂いた。
美咲の目の前で、『カーテンコール』から発射された弾丸。
それが高宮の耳を掠め、壁へと喰らい付く。
そしてガラスを擦るような不快な音と共に、壁が大きく抉り取られた。
「——アンタの言う通り、確かに俺は無能のクズさ。
職務倫理もなく、部下に手を出すくらいだからな」
中折れ動作により、カーテンコールの薬室が解放される。
排莢された空薬莢が床を転がり、カランカランと乾いた金属音が虚しく木霊した。
「だから別に何を言われても、俺についてはその通りだから構わないが——」
空になった薬室へ、新たな『コーダ弾』を滑り込ませて再閉鎖。
響は再装填させたカーテンコールを、高宮の胸に突きつけた。
「俺は過激ファンの中でもトップティアなんだよ。
——ぶち殺してやる」
ガキンという無機質な音と共に、撃鉄が引き起こされた。
美咲の目が、高宮にかかる死神の鎌を捉え——
「——何の騒ぎですか?」
執務室の扉を開け、ナギが現れた。
その声にハッとした高宮が、散らばった書類の上を滑り、這うように響の前から逃げ出した。
「この凶賊どもが! 今回の件は上層部へ報告するからな!」
そう言い残しながら、執務室を後にする高宮。
——まずいことになるかもなぁ——
十中八九そうだろう。 監査官を殺しかけてるわけだし。
今後の展開に憂鬱になりながら、それでも美咲は胸がすく思いだった。 ザマァ。
「……本当に何があったんですか?」
まだあどけなさの残る表情に戸惑いを浮かべ、ナギがこてんと首を傾ける。
美咲は何と説明するべきか戸惑いつつも、散らばった書類を片付け始めた。
「な〜んでもありませんよ。 ちょっとした音楽性の違いって奴です。
アーティストにはよくある事ですよ」
抜弾したカーテンコールを仕舞うと、響は肩をすくめながらそう嘯いた。
相変わらず口先から生まれてきたような男だ。
美咲は感心半分、呆れ半分で響を見つめた後、ナギへと愛想笑いを向ける。
「そういう訳です。 うちのコンダクターは軽い性格なので、真面目な高宮 監査官は気に食わないんでしょう」
「……そうですか」
これ以上の追求は無意味だと思ったのだろう。
ナギは美咲へそう答え、ソファへと腰掛けた。
非常に優雅な所作だ。 でも散らばってる書類を踏むのは止めてほしいデス。
何とも言えない沈黙が執務室を満たし——
ドアが乱暴に開いた。
「コンダクター!」
飛び込んできたのは、久遠 湊だった。 蝶番が千切れかけてますが?
いつもの不機嫌さがなく、顔色は青ざめ、肩で息をしている。
ドアノブを握っていた手が、カタカタと震えていた。 壊れますが?
「——どうした湊。 顔色が悪いぞ。 また徹夜でギターのメンテか?」
響が軽い調子で声をかける。 先ほどまでの剣呑な雰囲気は存在しない。
湊は一瞬言葉を詰まらせ——
唇を噛み締め、何かを堪えるように俯いた。
その手には、クシャクシャになった一枚の紙が握りしめられている。
書類は大切にしないと困ることになりますよ。 私が。
「……できた、みたい」
蚊の鳴くような声。
「何が? 新曲?」
「違う!」
湊が顔を上げた。
その瞳には、動揺と、怒りと——
隠しきれない不安が涙となって滲んでいた。
「……アンタの子よ」
——時が、止まった。
作戦室の空気が凍りつく。
響の表情から、笑みが抜け落ちていく。
美咲の口が、あんぐりと開く。
ナギも衝撃で目を見開いていた。
「責任取りなさいよ。 このバカ!」
湊が叫ぶ。 診断書を響の顔面に叩きつけた。
ペチリと響の顔に当たった書類が、ヒラヒラと床の上に落ちる。
なるほど、子供か。 つまり妊娠ってことね。
OK、把握し——
「「はぁぁぁぁぁぁ!?」」
作戦室に、絶叫が木霊した。




