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【小説】ゲームBOYセンター At 座 三軒茶屋

掲載日:2025/12/15

 吉祥寺のドン・キホーテを焼いた帰り道だった。

 おれは疲れていた。

 掴まったプラスチックの丸い吊り革は夕方の態度でおれの手を笑う。

 電車はいつだって疲労と眠気でいっぱいだ。

 おれも同じように眠く疲れていた。

 急行電車の中で培養された疲労は瞼を引っ張る。

 あと少しで眠りに落ちそうだと思った時に電車は駅で止まり、各駅停車と待ち合わせる。

 おれは駅に充満した冷たく新鮮な灰色の空気をいっぱいに吸って眠気を追い払った。


 各駅停車は急行を見送る。

 そして先行する疲労と眠気を後追いする。

 おれは再びプラスチックの吊り革に捕まる。ベタりと手のひらに吸いつく。

 地表と並行移動する疲労。

 隣に立って同じように吊り革に掴まる中年の男を見た。

「なに見てんだよ」

 おれの視線に気づいた男は野太い声でそう言った。

 おれは素直に謝った。

 タグチ先輩に似ていたのだ。


 先輩と言っても子どもの頃に通っていた空手道場の先生だ。

 空手道場には先生と言う概念が無く、マス大山を頂点として彼以外のすべてが兄弟弟子であり、全員が先輩と後輩の関係にあった。

 そのタグチ先輩によく似た男がいたが、おれの勘違いかも知れない。

 だからおれは謝って視線を窓の外に移した。

 タグチ先輩に似た男は舌打ちをした。

 仮にタグチ先輩本人であったとしても、その態度におれが失望するだけの話だから確認しようとは思わなかった。


 おれは瞼を閉じた。

 いや、勝手に瞼が落ちたのかも知れない。


 煙草の煙と埃、オゾン、あとは洗っていない犬と消臭剤の下品な香り。

 それはゲームセンターの匂いだった。

 擦り切れたカーペットは元がどんな色だったかも想像できない。

 壁の色も同じようにどんな色をしていたのか分からない。

 暗い照明の部屋に並んだ筐体に向かって男たちが座り、ブラウン管の画面を凝視している。

 棘のある陰湿な空気が満ちていた。

 おれは空手道場の近くにあるゲームセンターに入り浸っていた。

 帰りに飲むジュース代の100円、それを両替して50円のゲームを2回遊んだらおしまいだ。

 あとは他人のゲームプレイを見て時間を潰す。カツアゲされないようにしながら。


 ガタン。

 電車が揺れる。

 おれは目を開ける。

 おれは疲れていたし、おれは三軒茶屋に立っていなかった。


 そうだ、いまはもうあの三軒茶屋は無い。

 三軒茶屋にはキャロットタワーが建ったし、駅前のアーケードは無くなった。

 野球帽を被った歯抜けのワンカップ爺い達は姿を消した。

 ゲームセンターは無くなり喫茶店のチェーンが入った。

 おれ通っていた空手道場は移転して、そこには見るからに怪しげなキャバクラが入った。

 246沿いのピンク映画館も無くなった。

 三軒茶屋は綺麗になった。

 もうあの三軒茶屋はない。



 世田谷線は小綺麗になった。

 バスの様なステップが無くなった。

 木の板でできた床も無いし緑色のスポンジ椅子も無くなった。

 天井で回っていた扇風機はエアコンになった。

 運賃回収箱も無くなりICカード対応になった。

 そうやっておれが知っている三軒茶屋も世田谷線も無くなった。



 おれは三軒茶屋の何を焼けば良いのかわからなかった。

 吉祥寺はドン・キホーテを焼けばよかった。

 だが三軒茶屋はわからない。

 マクドナルドも廃屋の様な銭湯も残っている。三軒茶屋は三軒茶屋であり続けている。

 世田谷通りは相変わらず狭く混んでいるし、早稲田アカデミーはいまも色褪せた看板のままだった。



 三軒茶屋とは何なのか。



 おれは三軒茶屋がオシャレな街では無い事を知っている。

 あの三軒茶屋を取り戻さねばならぬ。

 だが何を焼けば良いのか。

 キャロットタワーを焼いたところで概念としての三軒茶屋は帰ってくるはずもない。

 野球帽の歯抜けワンカップ爺い達も帰ってこないしゲームセンターも再建しない。

 三軒茶屋帝国を復興させるには希望と夢が必要だった。

 だがあの頃の三軒茶屋には夢も希望も無かった。

 野球帽の歯抜けワンカップ爺い達も全員死んでしまっただろう。

 あの頃の輝きを知る人間は少ないし、あのくすんだ鈍色の輝きを取り戻したいと願う人間はもっと少ないだろう。


 つまりおれは三軒茶屋を知らないのだ。



 おれは三軒茶屋の駅前に突っ立ったままだった。

 おれは目を開けたまま夢を見ていた。

 電車で乗り合わせたタグチ先輩によく似た男は白い道着に黒い帯を締めていた。

 やはり似ているなと思った。

 すると「さっきから何なんだ、ひとの事をジロジロと見て。失礼だろう」と怒声を上げた。

 あぁ、上げたらよいのだ。

 俺は卑屈な笑みですみません、と返した。


 そうだ。これは世田谷線じゃない。

 おれはタグチ先輩がどこに棲んでいるかは知らない。

 そもそもタグチ先輩の普段着を知らない。

 おれは道着を着ていない。

 学ランだ。

 タグチ先輩も学ランの俺を知るはずもない。


 ガタン

 反対方面の電車がすれ違いドアや窓ガラスが激しく揺れる。

 タグチ先輩によく似た男は怒声を上げ続けている。

 窓ガラスが揺れる。

 おれの視界も揺れる。

 歯を食いしばる。

 タグチ先輩によく似た男は怒声を上げ続けて喉から血を噴き出す。

 その唇が裂けていく。

 おれの鼓膜が破れる。

 電車の窓ガラスが割れてドアが外れる。

 凄まじい風が吹き込んでくる。


 道場訓!!

 ひとつ我々は心身を錬磨し確固不抜の心技を究ること。

 タグチ先輩によく似た男は怒声を上げ続ける。

 ひとつ我々は武の神髄を極め機に発し感に敏なること。

 おれは目を開ける。

 ひとつ我々は質実剛健を以て克己の精神を涵養すること。

 タグチ先輩によく似た男は血を吐き出し続ける。

 ひとつ我々は礼節を重んじ長上を敬し粗暴の振舞を慎むこと。

 小田急線は血を撒き散らしながら走る。

 ひとつ我々は神仏を尊び謙譲の美徳を忘れざること。

 電車は小田急線豪徳寺駅にに滑り込む。

 ひとつ我々は知性と体力とを向上させ事に臨んで過たざること。

 タグチ先輩によく似た男が吐いた血が全てを沈めていく。

 ひとつ我々は生涯の道を三軒茶屋に通じ世田谷の道を全うすること。



 ついに世田谷線がタグチ先輩によく似た男の血で埋まり、三軒茶屋はキャロットタワーのてっぺんを残してその血の海に沈んだ。

 三軒茶屋の駅前に突っ立ったままのおれは死体となって浮かび上がり、手にしたポリタンクは血の海との境界を無くした。

 野球帽の歯抜けワンカップ爺い達はタグチ先輩によく似た男の血で増殖して、ひとりの巨大な野球帽歯抜けワンカップ爺いになろうとしていた。

 そいつが開ける巨大な口に生えた黄色い歯には一面のピンク映画ポスターが貼られており、少年だった俺の怒張によってその全てがフルハイビジョンで上映されることが閣議決定された。


 おれはポケットに残った50円玉を運賃回収箱に入れる。

 ガキだった頃のおれの頭を殴りつけて電車を降りた。



 インサートコイン。

 プッシュスタートボタン。

 隠しコマンドを入力してくだちい。

 地下にある便所のラクガキは全裸の女だった。

 野性のバンクシー、または売れない漫画家。

 または空手道場の受付に座っていた帽子の男。

 今日からおれがタグチ先輩だ。

 血を吐く。全てを沈める。

 焼くんじゃない。沈めるんだ。



 ガタンゴトンガタンゴトン


 電車が発するさまざまな音を再現する障碍者のマネをしていた日々。

 おれはガキだった。

 世田谷線に乗っていた彼らはどこに消えたのか。

 おれは疲れている。

 次は松陰神社前。

 長い踏切。長い信号。

 遮断機は存在しない。

 曖昧な境界線。血とポリタンク。

 縦と横。電車と自動車。

 昨日と今日。サイドミラーに写る現在。

 触ると感染る病気。鍛錬。

 タグチ先輩の抱擁。接吻。

 道場のバックヤードにある階段を下るとゲームセンターだ。


 ネクロマンサー、ラストダンサー、おれのパンチもキックもダンスみたいなものだ。

 回し蹴り。輪姦し下痢。

 おれの道着はすずらん通りに転がった。

 さようなら三軒茶屋。

 もう会う事はないでしょう。


 おれは下高井戸に行く。

 そしてあの急なカーブに飲み込まれて死ぬ。タグチ先輩によく似た男もそこにはいない。

 正拳中段突きが虚しく中を切る。

 正面に礼。先輩に礼。お互いに礼。

 三軒茶屋に礼。

 

 ラウンドワン、ファイ。

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