第3章~第4章
お立ち寄りいただき、誠にありがとうございます。
物語はいよいよ、目に見える異変が現れ始める「第3章 封じられた報道」、そして不可逆な災厄が始動する「第4章 汚染」へと進みます。
ここからは、報道の壁、SNSの検閲、そして都市に忍び寄る“異変”が、静かに、しかし確実に読者の恐怖を掻き立てていく構成となっております。
カリュドウイルスという架空の病原体を通じて、本当に恐ろしいのは「病」ではなく、それを封じようとする“誰か”の意思なのだというテーマを濃く描きます。
どうぞ息を詰めるような緊張感とともに、登場人物たちの選択と葛藤を追っていただければ幸いです。
第三章 封じられた報道
第1節 拒絶される記事
深夜、須藤の部屋にはわずかな明かりだけが灯っていた。
ノートPCの画面に、文字の行が浮かび上がっては消える。その指はかつて、医療事故、薬害、汚職の真実を暴いてきた――だが、今書かれているのは、それらとは比べものにならないほど深く、そして暗い内容だった。
記事タイトルは決めていた。
《密閉都市:第七種隔離施設アトラス棟と“未発表病原体”の正体》
冒頭には、匿名資料提供者による内部文書の概要、続いて耐震等級の偽装、Karyudo Virusの封印情報、さらにGRAとの協定文書の存在。最後に、美鈴から託された地下構造図と、大学関係者による証言の断片――
すべて、公開されるべき事実だった。
“起きる前”に。
午前4時、原稿が完成した。
須藤は一度深く息を吸い、元いた東京の報道局へとメールを送信した。件名は「緊急:事前掲載依頼」。本文には、「検証が必要ならば直接対応する」と記してあった。
そのままソファに倒れ込み、目を閉じた。
そして数時間後――
返信は予想よりも早く届いた。
だが、須藤はその文面を読んで、凍りついた。
須藤様
ご連絡いただいた件について、弊社では現在、当該内容に関する取材方針を変更しております。
本件に関する記事掲載・協力・資料精査等はすべて見合わせとなっております。
今後のご連絡は控えていただけますよう、お願い申し上げます。
「……何だと?」
読み返しても、同じだった。
“方針変更”。“見合わせ”。“今後の連絡は控えてほしい”。
それは――完全な拒絶だった。
須藤はすぐに元同僚の記者数名に個別連絡を入れたが、誰も電話に出なかった。メッセージも既読がつかない。
沈黙。
あまりに不自然な沈黙が、音のように部屋を満たしていく。
「……先に動かれたか」
須藤は唇を噛んだ。
GRA、あるいは国衛庁。いずれにせよ、彼が動き出したことは、すでに相手に知られていた。
そして、報道の側もまた、沈黙する側へと“収束”していった。
須藤はPCを閉じ、立ち上がった。
まだ“手”はある。
紙媒体がだめでも、ノートリンクがある――政府の検閲が徐々に強化されているとはいえ、完全に沈黙させられるほどではない。
自分の匿名アカウントから記事を分割投稿する。
まずは資料の一部、次に構造図。第三弾でKaryudo Virusの情報。読者が関連性を自ら繋ぎ始めた時点で、まとめ記事を出す――そうすれば、誰かが動き出す。必ず。
須藤はノートリンクの投稿画面を開き、第一稿をアップロードした。
画面には「投稿成功」の文字。アクセスカウントも伸び始める。
数分後。
ページが更新された。
その瞬間――記事は、消えていた。
「……は?」
リロードしても、404エラー。
リンクをコピーして貼り直しても、削除済の表示。
さらにその下に、小さな赤字の通知が表示された。
※本投稿は「国家重要インフラ保安条項」に抵触する恐れがあるため、ノートリンク運営により自動削除されました。
須藤の背中に冷たい汗が流れた。
(もう、ネットも封じられてる……)
“自由な言論”を支えてきたプラットフォームが、知らぬ間に検閲対象となっていた。それも、明確な“誰か”の指示によって。
情報は、流せない。
ならば、次に必要なのは――“直接動くこと”だった。
第2節 消える投稿
須藤は、自分のノートリンクアカウントが“使えなくなった”ことを自覚するまでに、そう時間はかからなかった。
「投稿は削除されました」
「ガイドライン違反により一時的に制限されています」
「異議申し立ては受付中ですが、審査には数週間かかる可能性があります」
管理画面に表示される文言はすべて機械的で、どこか不自然だった。違反理由の詳細も示されないまま、ログインすら断続的に弾かれるようになっていく。
アカウントを再登録しても、同じ結果だった。IPアドレス、MACアドレス、端末シリアル、すべてがマークされているのか――記事を投稿するたびに、自動で非公開処理がかかる。
(完全に……“監視下”だ)
須藤は苛立ちを抑えながら、旧いノートPCを起動させた。まだ登録していなかったルーターと使い捨てSIMを使って、フリーWi-Fiから再アクセスを試みる。
新アカウント名は「ReNor」。完全匿名、メール認証なし。
第一投稿:
> 「鳴神市・嶺州医科科学大学付属施設で、Karyudo Virusという未認可の出血熱ウイルスが封印されています。政府は隠しています。地下構造は震災に弱く、いつか事故が起きます」
第二投稿:
> 「#アトラス棟 #第七種隔離施設 #隠された構造 #封印 #KaryudoVirus」
第三投稿:添付資料1枚。地下構造図の断片画像。
数分間、投稿は“残った”。
いいねが一つ、コメントが一件。内容は「詳細を」とだけ。
だが、10分後、投稿ごとアカウントが凍結された。
「スパム行為」「偽情報の拡散」「国家機関に対する扇動的表現」などといったタグが自動で付けられ、アクセスが遮断される。
(AIによる自動検閲か?)
それにしては、速すぎる。人力の監視が入っている可能性もあった。
須藤は一瞬だけ手を止め、部屋の周囲を見回した。窓の外は薄暗く、人影はない。だが、ここまでの情報封鎖が一地方都市レベルで行われるとは、にわかには信じがたかった。
――否。地方だからこそ、可能なのかもしれない。
この町は、首都圏のように報道の目がない。大学も、行政も、研究施設も、そしてネットも。すべてが一枚岩のように沈黙し、“異物”を吐き出していく。
そのとき、美鈴からメッセージが届いた。
「今、私の端末も規制がかかり始めた。投稿は全削除された。アカウントも停止。外部SNSにもミラーが通じない」
「しかも……玄関に、警告文があった。“これ以上の拡散は公益性に反する行為として対応する”。差出人は“地方監察部”。聞いたこともない部署よ」
須藤は、携帯を持つ手に力が入った。
「……始まったな」
それは、情報戦だった。
火器も装甲車もいらない。
ただ“誰にも届かないようにする”だけで、真実はこの世界から消えていく。
すべてが“削除される”。
投稿も、言葉も、声も、やがて“存在そのもの”さえも。
須藤は椅子に背を預け、息を吐いた。
(ならば、次は――“生身”で伝えるしかない)
第3節 GRAの影
GRA――Global Research Agency。
表向きは、国際的な研究支援・災害対策援助を行う機関。かつてアフリカや東南アジアで感染症対策プロジェクトを支援し、メディアにもたびたび登場していた。
だが、その実態を正確に知る者は少ない。
須藤は、記者時代に一度だけGRAの名前に接したことがある。2017年、中央アジアの小国で起きたバイオテロ未遂事件。その背後に“民間研究支援機関”の名で資金を提供していた団体がGRAだった。
だが、その情報は数日で各メディアから消えた。削除された記事、改ざんされた公式発表、そして証言者の行方不明――それらが示すのは、GRAが単なるNGOではないという冷厳な事実だった。
今、その名が、アトラス棟の資金提供者として浮かび上がっていた。
美鈴から渡された書類の中に、資金移動記録の一部が含まれていた。そこにはこう記されていた。
・2022年8月 嶺州医科科学大学研究振興費枠外支給(出所:GRA国際医療研究基金)
・2023年3月 アトラス棟建設準備費(GRA特別協力事業)
・同年6月 GRA技術参与(Dr. R.C. Davis)来日、施設設計に技術監修参加
日本国内の感染症研究機関の建設に、なぜ外国の諜報機関まがいの組織が深く関与しているのか。
その理由を、誰も公に説明していない。
「GRAは、実質的に米国防省の衛星組織だ」
その言葉を、美鈴は静かに口にした。
郊外の喫茶店、ブラインドを半分下ろした窓の向こうには、どこかに盗聴機器が潜んでいるかのような沈黙が流れていた。
「建前は“グローバル研究の支援”よ。でも中身は違う。バイオ監視、各国のウイルス資源の収集、研究者のリクルート、施設整備への『技術支援』。すべてが“名目”であり、“監視網”なの」
「つまり……嶺州のアトラス棟も、監視下にある?」
「それどころか、設計段階から関与してる。施設の地下構造はGRAが持ち込んだ“耐震計画”に基づいて設計されたもの。国産の構造設計基準は排除された。つまり――地震に耐えなくても、問題ないと考えている」
須藤は拳を握った。
「それで……もし、事故が起きたら?」
「“事故”じゃない。発生を観察するのよ。どれだけ早く感染が拡がるか。どの層が最初に倒れるか。封じ込めにかかる時間。
彼らは、この町を“観察箱”にしてる」
「人間を……?」
「“データ”としてしか見てない。GRAは各国に同じような箱庭を持ってる。でも、日本は“優等生”だからね。国も大学も、黙って協力する」
須藤の脳裏に浮かんだのは、沈黙した大学、拒絶された記事、削除された投稿。そしてあの夜、谷口の目に宿った“あきらめ”の光だった。
全てが、繋がっている。
「GRAの関係者って……この町に来てる?」
「ええ。名前は、ロナルド・C・デイヴィス。アメリカ出身、元CDC(アメリカ疾病予防管理センター)技術官。今はGRAの“技術監”という肩書きで、日本政府の裏契約下にある。すでに数回、アトラス棟に“入ってる”。私、顔写真も持ってるわ」
美鈴がスマートフォンを差し出す。
そこには、スーツ姿の長身白人男性が、関係者証をぶら下げ、嶺州医科科学大学の構内を歩く姿が写っていた。
目が笑っていなかった。
須藤はその顔を見つめながら、呟いた。
「これが、“現場の監視者”か」
そう、アトラス棟の中には、もはや“日本の誰も知らない場所”が存在している。
そしてそこでは――今も、何かが“動いている”。
第4節 尾行
午後八時。鳴神市の商店街は、通行人もまばらだった。
飲食店のネオンが点滅する中、美鈴は足早に歩いていた。バッグを前に抱え、時折、振り返る。視線は鋭いが、不安が拭えない様子が背中に滲んでいた。
須藤は、数メートル後方からそれを見ていた。
「……やっぱり」
美鈴が呟いた。
彼女の背後には、遠巻きに付かず離れずついてくる人物がいた。
黒いジャンパーにマスク、帽子。見るからに怪しいわけではないが、3つ先の信号でも、角を曲がっても、その影は同じ距離で姿を現した。
「そっちにも見えてる?」
「見えてる。……確認したのは今日で三日目だ」
美鈴の部屋には、数日前から“違和感”があったという。
ドアノブの位置が微妙にズレていた。ポストに宛先不明の無地の紙。自転車のタイヤに小さな穴。どれも単体では“事故”に見える。だが、続くと“警告”になる。
「こうやってじわじわと、“お前は見られている”って伝えてくるのよ。……黙れって」
「警察には?」
「証拠がない。言っても、“気のせい”で済まされる。そもそも、あの施設の背後に誰がいるかを話したら、今度は私が“危険人物”扱いされるわ」
彼女の声には、怒りよりも諦めに近いものがあった。
須藤は一歩踏み出し、決意を込めて言った。
「今夜、証拠を取ろう。尾行者の写真を撮る。万が一に備えて、外部にも保存する。何かあった時の“保険”だ」
「……あなた、巻き込まれるわよ?」
「もうとっくに巻き込まれてる」
須藤はバッグから小型カメラを取り出し、遠回りしながら位置を調整した。尾行者は、慎重に距離を取っている。プロの仕事だ。民間の探偵か、もっと別の“部署”か――判断はつかない。
だが、写真に収めることはできた。三度目の角を曲がった瞬間、街灯の下で一瞬だけ姿が開けた。シャッター音は鳴らさず、データは即座にクラウドにバックアップされた。
美鈴はその画面を確認して、静かに言った。
「この顔……見たことある。大学の外注警備にいた人間。昨年までは“名札”つけてた。でも今は……何の所属にもなってない」
つまり、名前も所属も消されているということだった。
「匿名の実行者」――正体不明のまま、命令だけを受けて動く影。
その夜、美鈴は須藤の部屋に泊まることになった。
「安全のため」と彼が言い、美鈴も躊躇いながら了承した。
外の闇が、少しずつ音を失っていく。
テレビのニュースは、相変わらず他人事のように明るい話題を流していた。
「本日、GRAとの国際連携協定を締結――防疫分野での共同研究がさらに進む見通しです!」
美鈴は、リモコンを投げ捨てた。
「……笑えるわね。“防疫”って、あれは“実験”って意味よ」
「おそらく、連携協定の裏に、感染症兵器転用可能な知見が含まれてる。……お前が言っていた“制御可能に見せかけた封印”ってやつだな」
「そう。
でも今、現実に制御できてないものがある。尾行されてる私自身が、その証明よ」
須藤は立ち上がり、窓を閉め、鍵を二重にかけた。
この部屋はもう、取材部屋でも、仮住まいでもなかった。
ここは――戦場の前線だ。
第四章 汚染
第1節 「事故」が起きた日
その日は、あまりにも静かだった。
鳴神湾には風ひとつ吹かず、空は鈍く曇り、海面は鉛色の膜に覆われていた。気象庁の速報では「前線の停滞により風速ゼロ」、つまり、大気の流れがほぼ完全に止まっている状態だった。
そして――午後3時18分。
アトラス棟の構内で、警報が一斉に鳴った。
記録では「電力供給装置の異常により自動制御系統が作動」「一部フロアにおける陽圧維持が不安定化」とだけ報告されている。
だが、実際に何が起きたのかを知る者は、数えるほどしかいない。
外部には「一時的な停電トラブル」として通達された。市役所から出されたFAXは、たった1枚のA4用紙。
【鳴神市防災課】
本日午後、嶺州医科科学大学付属施設アトラス棟にて、一時的な電力系統の不具合が発生しました。
外部への影響はなく、現在は復旧済み。
なお、研究用高圧設備の点検に伴い、今後数日は周辺区域に立ち入り制限がございます。
それだけだった。
テレビのローカルニュースでは、数秒の映像とともに「冷却機器のトラブル」「外部には影響なし」とアナウンスされた。
だが、須藤と美鈴には、その“言葉の薄さ”が逆に異常に思えた。
「停電って言うわりには、変電所も病院もまったく異常なし。商業施設も通常営業。電圧低下の記録すらない」
美鈴は、独自のルートで市内の設備保守業者に連絡を取っていた。
「そもそも“陽圧制御”がトラブルを起こしたってことは、施設内で陰圧状態が崩れた可能性があるってことよ。もし、病原体が外に出るとしたら……まさにその瞬間よ」
翌日、市内の一部病院に“原因不明の高熱患者”が搬送された。
記録上は「重度のインフルエンザ様症状」となっていたが、症状を見た看護師の一人が、こっそりと須藤にLINEでメッセージを送ってきた。
「患者、目から出血ありました。あと、胸に内出血。呼吸が荒くて泡を吐いてました。……これ、インフルじゃないですよ」
その夜、須藤と美鈴は、病院へ“侵入”することを決めた。
第2節 赤いベッドの男
鳴神市立総合医療センター。
午後11時過ぎ。病院の夜間出入口には、警備員が一人立っていたが、警戒は甘かった。須藤と美鈴は裏手の職員通用口から入り込んだ。美鈴の知人が臨時職員として勤めており、カードキーの使用記録を残さずに開錠する方法を教えてくれていた。
「監視カメラは角の天井。ここをくぐれば映らない」
美鈴はまるで慣れた動作のように低く身を沈め、須藤もそれに続いた。
二人が目指したのは、感染症対策病棟の一角――本来は結核やノロなどの隔離患者が収容される場所だが、今はその一室だけが“特別に”封鎖されているという噂が立っていた。
病棟の廊下は薄暗く、足音が床にじんわりと響く。
照明は常夜灯モードで、天井には微かな機械音だけが鳴っていた。
304号室。
ドアの前には何の表示もなかったが、通常は掲げられている「感染症注意」「接触防護具着用」の張り紙が、逆に剥がされていた。
「ここだ」
ドアの覗き窓から、中の様子をそっと伺う。
その部屋の中央には、隔離ベッドがひとつ置かれていた。
その上に横たわるのは、全身を毛布で覆われた一人の男。
だが、毛布の隙間から覗いた顔――そこには血の痕があった。
鼻孔から、耳の穴から、赤黒い液体が滲み、乾く前にまた滲んでいた。
目はうっすらと開かれており、強い光が当たっているにもかかわらず、まったく反応を示していなかった。
「……目が、動いてない」
「昏睡状態か、それとも脳症……」
部屋の隅には、装着されていない人工呼吸器が置かれていた。
誰かが使うのを“避けている”のか、それとも“意味がない”のか。いずれにせよ、そこには医療の原則が不自然に排除されていた。
そのとき――
ガラスの向こう側で、男の体がピクンと跳ねた。
反射か、痙攣か。
だが、その動きはあまりにも不自然で、次の瞬間にはベッドのシーツの上に鮮紅の吐瀉物が噴き出された。
「出た……っ」
美鈴が思わず声を漏らしそうになり、須藤がすばやく口を押さえた。
部屋の隅のモニターに、心拍と体温、呼吸数が表示されていた。
呼吸は1分間に9回まで低下。体温は39.8度。
そして、血圧は測定不能の表示。
「これ……完全に、出血性ショックの兆候だ」
須藤はかつて取材したエボラ隔離病棟での記憶を思い出していた。あのとき、同じような症状の患者が出ていた。
目、耳、口、肛門、そして皮膚――体中のあらゆる出口から出血し、内臓が崩れ、最後は脳の圧迫で“人格”が壊れる。
突然、ナースステーションの方から足音が近づいてきた。
「くる、戻るわよ」
美鈴がささやき、二人は廊下の曲がり角へ身を隠した。
白衣の職員が2人、警備員らしき人物とともに病室へと入っていく。
「陽圧は維持できてますか?」
「一応。……でも、もうB3に近い。隔壁も古いし、流れ出したら止められない」
「GRAの指示は?」
「“様子を見てよい”と……。まるで、人間じゃないみたいな言い方でしたよ」
「もう患者って扱いじゃない。彼は“症例1”だからな」
ドアが閉まる。
須藤は、美鈴と目を合わせた。
「……これが、“封印の綻び”だ」
美鈴はただ、小さく頷いた。
第3節 禁じられた記録
「ここ……技師控室?」
須藤たちが侵入したのは、感染症病棟のさらに奥――病院関係者以外はまず入ることのない、情報管理室だった。
病院の構造を熟知する美鈴の知人が、ドアのパスコードをこっそり教えてくれていた。
「この部屋には、病棟内カメラの映像サーバがある。記録自体はクラウドに同期されてるけど、ローカルには削除履歴も残ってる」
美鈴は端末を操作し、特定の時間帯を検索した。
“2024年 10月 4日 15:00~16:00”
――事故が起きたとされる時刻。
須藤の心拍が高鳴る。
何が映っているのか、何を見てしまうのか。
だが、もう引き返す選択肢はなかった。
画面が切り替わる。
映し出されたのは、アトラス棟地下フロアの一室――陰圧対応室B4。
そこに立っていたのは、三人の職員と、一人の防護服を着た男だった。全身を覆う陽圧式バイオスーツ、透明な面越しに見える顔は不明瞭だったが、身振りからして何らかの命令をしているようだった。
次の瞬間、異変が起きた。
部屋の一角にある“耐圧コンテナ”の一つ――赤い危険マークと「K.V.-Zeta」のラベルが貼られた冷却ボックスが、突然揺れ始めたのだ。
防護服の男が慌てて指示を出す。
だが、すでに遅かった。
カシャン――
乾いた音を最後に、冷却装置が完全に停止。
コンテナの内部で、何かが「気泡」のように膨らみ、次の瞬間――中から何かが吹き出した。
それは液体か、気体か。
画面越しでも正体は判然としなかった。ただ、噴出の直後、室内のセンサー表示が黄色から赤に切り替わる。
「警告:陽圧喪失」
「警告:粒子反応レベル上昇」
「警告:内部吸入限界到達」
職員たちは逃げようとした。だが、出口の隔壁はすでに閉鎖されていた。自動封鎖だったのだ。
次の映像は――
地獄だった。
一人の職員が床に倒れ、痙攣を始める。口から泡を吹き、顔面の毛細血管が一斉に破裂する。
別の一人は呼吸器を外そうとして失敗し、絶叫のような動作を繰り返すが、声は聞こえない。防護スーツ内での“死に方”を、ただ画面が無音で映し続けていた。
防護服の男だけが、最後まで立っていた。
だが、彼もやがて膝を折り、マスクの内側から赤い液体が広がっていくのが、曇ったフェイスシールド越しに見えた。
映像はそこで途切れた。
画面の隅に「再生禁止:コードΔ-21」という赤い帯が表示された。
それは、国の緊急統制命令がかけられていることを示していた。
「……これが、起きてたのか」
須藤の声は震えていた。
「この映像、職員たちにも知らされてない。……この記録は、ただ“削除”されて終わりになる」
美鈴の目も、言葉も、凍っていた。
須藤はすぐさま映像のキャプチャとログファイルを複製し、持参したストレージと端末に分割保存した。
「このデータを――外に出す。
どんな手を使ってでも、“誰か”に見せる」
その言葉は、すでに“記者”の言葉ではなかった。
それは、証人としての覚悟だった。
第4節 決断の夜
夜は深かった。
鳴神市の上空には月がない。街灯の光もどこか弱々しく、夜の闇がゆっくりと、しかし確実に人々の意識を包み込んでいく。
須藤と美鈴は、再びアパートの一室に身を潜めていた。
窓には遮光カーテン、スマートフォンの通信は完全にオフ。外部との連絡は封鎖し、PCは物理的にネットから切断されていた。
ここはもう、安全な場所ではない。ただ、“次の一手”を打つための、最後の“猶予の空間”だった。
「これが最後になるかもしれない」
須藤は、USBメモリを机の上に置いた。
その中には、例の映像記録の断片、患者の病状写真、地下構造図、GRA関係者の入館記録、そして内部から得た会議ログのキャプチャがすべて詰め込まれていた。
「ネットは完全に封じられた。メディアも沈黙してる。
……つまり、今この町で起きてることを知っているのは、俺たちだけだ」
「でも、それは同時に、“沈黙させなきゃいけない対象”が私たちだけになったってことよ」
美鈴の声にはもう恐れはなかった。
目の奥にあるのは、どこか透明な“静かな怒り”だった。
「私は、ずっと“何もできなかった”人間だったのよ。
大学では浮いて、就職は続かず、ただ街を歩いて、声を上げて、そして煙たがられて。
でも……やっと見つけたの。“これだけは、絶対に誰かに伝えなきゃいけない”って思えることを」
「お前の声は、俺よりずっと届いてた。
俺は記者を名乗っておきながら……真実を届けるって口で言いながら……最後はいつも、何かに負けてきた。
でも今度は、最後までやる」
二人は無言で頷き合った。
「……明日、鳴神山に登る。旧の測候所がある。今は無人だけど、気象研究者向けの衛星通信設備が残ってる。
防災のデータ送信用だけど、ハード改造すれば“画像・映像ファイルの外部送信”が可能なはず」
「つまり、日本国内のネットや報道を迂回して、直接“世界”へ飛ばす」
須藤はPCのバックアップを何重にも取り、SDカードにも分割保存した。
美鈴はデータ入りの封筒を三部複製し、服の裏地に縫い込んだ。
「私は逃げ道を確保しておく。
万が一、あんたが途中で捕まっても、別ルートから送れるように」
「万が一じゃない。“必ず邪魔される”と思った方がいい」
そう言った瞬間――
カツン。
窓の外、金属が何かに当たったような乾いた音が聞こえた。
須藤と美鈴は即座に電灯を落とし、身を伏せた。
暗闇の中、視線だけが交錯する。
「……尾行、戻ってきたかも」
「いや……“始まった”のかもしれない」
数分後、音は消えた。
だが、それはあまりにも“不自然に”静かだった。
「時間がない。今夜のうちに移動する」
須藤はバックパックに機材と食料、簡易寝袋、そして予備のバッテリーを詰め込んだ。
美鈴は登山用の靴に履き替え、リュックの底に水のパックを忍ばせた。
「こんなふうに山へ逃げるのって、いつ以来かな……大学時代以来か」
「俺は中学の林間学校以来だ。……方向音痴だが、今回は頼む」
「じゃあ、後ろだけは見てて。前は私が切り開く」
そう言って美鈴は笑った。
小さな、けれど確かに“生きている”人間の笑みだった。
午前2時14分。
二人は闇に紛れ、町を抜けた。
彼らの手にあるのは、たった一つの記録媒体と、消されるかもしれない命と、そして――
“この国でいま、何が起きているか”を誰かに伝えたいという、たった一つの意志だけだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第3章では報道の沈黙とネット検閲、第4章では“事故”とされながらも何かが確かに起きた異変を描きました。
表向きは「停電トラブル」――しかし病院に運び込まれる“出血する患者”、GRAの渡航記録、削除される投稿。
恐怖とは、叫び声ではなく、「沈黙」から始まるものです。
そして、読者の皆様には、登場人物たちが感じる“違和感”を通して、現代社会のリアルと重ね合わせていただけたらと思っております。
次章では、地盤の揺れが物語と都市そのものを揺さぶっていきます。
ぜひ引き続きご注目ください。