プロローグ~第2章
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本作『アトラス計画:震源の封印』は、完全フィクションでありながら、現代の社会情勢、感染症、災害、情報統制といった要素を織り交ぜた“静かな恐怖”の物語です。
物語の舞台は、架空の沿岸都市・鳴神市。
国家が建設した隔離研究施設「アトラス棟」に封じられた病原体と、それを追う元記者と市民活動家の物語は、やがて“誰も語らなくなった震源”の真相へと迫っていきます。
プロローグから第2章までは、静かに始まる不穏な空気、そして少しずつ姿を現す異常の兆しを描いています。
恐怖を煽るためではなく、「知ること」「考えること」の大切さを込めて、じっくりと綴りました。
どうぞ、最終章までお付き合いいただければ幸いです。
プロローグ ――目を逸らした国へ
静かな海だった。
波は穏やかに打ち寄せ、岸壁に砕け、また引いた。潮風に混じる潮の匂いは、どこまでも日常だった。
だが、それは幻影に過ぎなかった。
日本の西端に位置する嶺州県――。この温暖で風光明媚な沿岸地域は、古くから観光と漁業で生きる地方都市として知られていた。人口減少と高齢化に苦しみながらも、穏やかな暮らしだけは保たれていると、人々は信じていた。
そこに突如として現れたのが、「アトラス棟」と呼ばれる巨大建造物だった。
嶺州医科科学大学の敷地に接する形で建てられたその施設は、国家指定の「第七種隔離施設」として、感染症研究の最前線を担う――というのが表向きの説明だった。
しかしその構造は、まるで核シェルターのようだった。
施設を取り巻く高いフェンス。電波を遮断する鉛板構造。空調は全自動陽圧制御、地下には複数の「滅菌層」と呼ばれる領域が存在する。
地元住民の多くは当初、それを“希望”と受け止めていた。地方創生の起爆剤、大学と国が手を組んだ次世代医療の拠点――と。しかしその「中身」が語られることはなかった。
やがて、一部の者が警鐘を鳴らし始める。
「内部で扱っているウイルスは、ただの研究用ではない」
「この建物は、災害時の耐震等級を満たしていない」
「地下では、生物兵器にも等しい病原体が……」
だが、彼らの声は次々と消された。
新聞には載らず、ネット投稿は削除され、報道機関は“上”を見て沈黙した。
残されたのは、疑念と不安と、曖昧な“平穏”だけだった。
そして、ある夜。
小さな地震が続いた後、ついに大きな“揺れ”が鳴神市を襲った。
そのとき、アトラス棟の中で何が起きていたのか。誰も正確には語らない。ただ、後に衛星記録と断片的な映像データによって、わずかに明らかになった事実がある。
あの夜、「何か」が封印を破った。
それは自然災害の皮をかぶった“人災”であり、見過ごされ、隠蔽され、そして放置されたものだった。
そして、今も続いているかもしれない。
これは、その“始まり”の記録である。
第一章 静かな沿岸都市
第1節 潮の匂いと新施設
午前八時の鳴神湾は、まだ微睡んでいた。
漁港の沖合に広がる海は、まるで油を流したように滑らかで、遠くの水面を渡る光が波の皺に沿って反射している。カモメの鳴き声が港のクレーンにこだまし、潮の匂いが朝靄に混じって町を満たしていた。
須藤蓮は、コンビニの袋を手にぶら下げながら堤防の上を歩いていた。足元には猫が一匹、ぬるりとついてくる。
「今日もあいつら、動いてんのか……」
彼の視線の先、海から少し内陸に入った丘陵地帯。そこに忽然と姿を現したのが「アトラス棟」だった。
巨大な立方体のようなその建造物は、どこか無機質で、冷たい印象を与えた。窓はほとんどなく、表面は灰色の特殊コンクリートで覆われている。明らかに異質だった。まるでこの町の時間軸とは異なる場所から、無理やり移設されてきたような印象すらあった。
竣工は数ヶ月前だったが、完成前から地元ではさまざまな噂が流れていた。
感染症研究の最先端施設――国の威信をかけた国家プロジェクト――
そう広報された割に、内実は謎のままだった。
「見張りカメラ、増えてるな……」
須藤は思わず呟いた。
最初のころは、敷地外のフェンスも仮設で、周囲には報道関係者が自由に出入りしていた。だが今は違う。入り口の警備員は一様に無言で、目は笑っていない。上空には、時おりドローンが音もなく飛んでいる。
町の人々も、次第に話題にしなくなっていった。
最初は期待、次に不安、最後は無関心。
人間はどんな異常にも慣れる生き物だ。危険がどれだけ潜んでいようと、日常という皮膜で目隠しさえできれば、それで済んでしまう。
ただ須藤には、それがどうしても許せなかった。
彼は、都内の報道機関で医療専門の記者をしていた。
感染症、薬害、臨床試験の闇――幾つもの特集記事を書き、医療界に一石を投じてきた過去がある。だが数年前の“ある事件”で上層部と対立し、退職。今は母の故郷である鳴神市に身を寄せている。
海と山に囲まれた小さな町。もう争いとは縁のない、穏やかな暮らし――そう信じたかった。
だが、この巨大な施設は、それをあざ笑うように建った。
静かに、だが確実に、この町の「空気」を変えながら。
須藤はアトラス棟を一瞥したあと、海辺のベンチに腰を下ろした。
猫はすでにいなくなっていた。
空は、やけに青かった。
そして、静かすぎた。
第2節 元記者の眼差し
午後になると、鳴神の町はさらに静かになる。
国道の交通量は午前中よりも少なくなり、商店街ではシャッターの閉まる音だけがコツンと響く。観光地として名を売った時代は遠い昔で、今は高齢者と僅かな若者が緩やかに共存するだけの、どこにでもある地方都市の風景だった。
だが、須藤蓮の目には――それが「静かすぎる」と映った。
アトラス棟が完成して以来、町全体に奇妙な緊張感が漂っている。
誰もそれを言葉にしない。だが確かに、住民たちの目線は変わっていた。道ですれ違っても、会釈だけで言葉を交わす者が増えた。朝の漁港でさえ、話し声は以前よりも小さくなっていた。
(この感じ……覚えている)
須藤は喫茶店の窓際に座りながら、アイスコーヒーを一口すすった。
かつて、彼は“危機の現場”を何度も取材してきた。
都内の大学病院で発生した耐性菌クラスター。製薬企業による治験データの改ざん。地方病院のワクチン偽装接種事件――
あのときと同じだ。
人々は何かに気づいていながら、口を閉ざす。表情を硬くし、無関心を装い、沈黙のなかでただ時間が過ぎるのを待つ。
「正常性バイアス」と呼ばれる現象がある。
人間は、自分にとって都合の悪い情報を無意識に排除し、“いつも通り”であることにすがろうとする。
それが、最も危険な瞬間なのだ。
「また来てたんですか」
声がして顔を上げると、店主の三浦がいつの間にか横に立っていた。五十を過ぎたあたりだろう。朴訥な物腰で、口数は少ないが信用できる男だった。
「ええ。ちょっと気になって。……あの建物、やっぱり地元の人は気にしてる?」
「気にはしてますよ。でも……あれ、政府の施設でしょ?こっちが気にしたって、何も変わりません」
そう言って三浦は肩をすくめた。
「そりゃまあ、でかすぎますしね。最初は『病院ができる』って聞いてたんですよ。そしたら、蓋を開ければ“研究施設”だなんて」
「騒いだ人は?」
「いましたよ。でも今はもう……どこかに消えました」
須藤の目が細くなった。
「どういう意味で?」
「いや……ほんとに、“見なくなった”ってだけです。引っ越したのか、引っ越させられたのか……さあ」
三浦はそれ以上語らず、カウンターの奥に戻っていった。
店内のスピーカーからは、クラシックのチェロ曲が小さく流れていた。だが、その旋律さえも、どこか異様な静けさの中に吸い込まれていくようだった。
須藤は再び窓の外を見た。
遠く、丘の向こうにアトラス棟の上部が覗いている。その上空に、ドローンのような小さな黒い影が一つ浮かんでいた。
(俺は……また、嗅ぎ回ってるのか?)
彼の胸の中に、かすかなためらいが生まれる。
過去の失敗。暴かれた真実が誰にも届かず、仲間を危険に晒し、彼自身も報道の世界から退く原因となったあの出来事。
それでも、蓮はペンを手放してはいなかった。
ノートPCを開き、簡易暗号で記録を残す。「観察者」としての本能が、すでに動き出していた。
第3節 旧友との再会
それは思いがけない再会だった。
須藤が再び嶺州医科科学大学を訪れたのは、数日後の曇り空の午後だった。用件は図書館の一般開放コーナーで古い感染症白書を閲覧すること――という名目だったが、実際にはアトラス棟との“地理的距離”を確認したかった。
大学とアトラス棟は、道路一本を挟んで隣接している。だが、その道には監視カメラと警備員が常駐しており、関係者証のない者は立ち入りができなかった。フェンスの奥に見える灰色の壁は、まるでどんな視線も跳ね返す冷たさを帯びていた。
そのときだった。
「……須藤、蓮?」
背後から声をかけられた。振り向くと、そこに立っていたのは谷口晋也――大学時代の同期で、かつて同じサークルで汗を流した旧友だった。
「谷口……?」
顔立ちは変わっていなかったが、どこか痩せ、目の奥に疲労が滲んでいた。
「久しぶりだな。こんなところで何してる?」
「そっちこそ、どうしてここに?」
「今は大学の感染症研究センターで助手してる。……ま、名ばかりだけどな」
谷口は小さく笑った。
二人はそのまま、キャンパス近くの喫茶店に入った。大学関係者がよく使うというその店は、古びた木製のテーブルと、壁に貼られた抗菌ポスターが奇妙な対比をなしていた。
「……で、記者はやめたって聞いてたけど?」
「ああ。いろいろあってな。今は鳴神に戻って、半分隠居生活みたいなもんだ」
「でも、まだ“嗅ぎ回ってる”顔してる」
「そっちは、“関わってる”顔してる」
谷口の笑みが、ふと消えた。
「……お前、どこまで知ってる?」
須藤は答えなかった。ただ目の奥に沈んだ光を向けたまま、黙っていた。
やがて、谷口はゆっくりとナプキンの端を折り曲げながら言った。
「警告しておく。深入りするな。お前の知ってる“医療報道”とは違う世界だ。……命がいくつあっても足りない」
「お前が今、そう言うなら――なおさらだ」
沈黙が二人の間に落ちた。
会話はそこで終わった。谷口はそれ以上何も語らず、会計を済ませ、静かに立ち去っていった。
その背中を見送りながら、須藤はひとつの確信を得ていた。
(あいつは、“中”に触れた。もう引き返せないところにいる)
手帳にメモを取りながら、須藤は自問した。
なぜあの谷口が、こんな地方大学の助手などしているのか。
なぜ、あの目をしていたのか。
そして――なぜ、この施設の建設に、大学が深く関わっているのか。
それは、表向きの“研究”では説明できない感触だった。
第4節 “第七種”の意味
翌朝、須藤の自宅ポストに一通の封筒が差し込まれていた。
差出人の記載はない。だが、裏面には見覚えのある文字が記されていた――「気をつけろ、谷口」。
須藤は封筒を手に取り、自室の机に静かに広げた。
中には数枚のコピーが入っていた。印刷は不鮮明で、ページの端には手書きの番号。どれも「国衛庁医療危機管理局」の文書であることを示していた。
一枚目には、こう記されていた。
施設種別:第七種隔離施設(特定高等封鎖型)
管轄部門:国衛庁/防疫機構・対生物災害部門
許可区分:GRA相互連携協定内(特定ウイルス)
主研究対象:Karyudo Virus(VHF-KY23亜型)
須藤の手が止まった。
(第七種?)
そんな区分、聞いたことがない。
彼の記者時代の記憶では、感染症の封じ込め区分は「第一種隔離病棟」や「特定感染症指定医療機関」などに分類され、BSLとしてはBSL-1からBSL-4までが国際的な基準だった。
第七種――それは、制度の裏側に隠された“別の仕組み”を示していた。
さらにめくると、「耐震性に関する試算表」と題された資料が現れた。数値が並び、難解な専門用語が並ぶ中に、ひときわ太字で赤く囲まれた一文が目に飛び込んできた。
「当該施設は、耐震等級1相当以下。地下フロアの加重構造により、基礎スラブへの圧力限界が早期に到達する見込み」
言い換えれば――地震が来たら、崩れる。
その下には手書きのメモが残されていた。
“あれは上からの命令だった。予算のため、審査基準は形式上で済まされた。地下は想定以上に掘られている”
(地下……やはり何かある)
須藤は急いでスマートフォンを手に取った。メモと資料の写真を撮影し、かつての報道仲間の一人、外信記者・稲垣に暗号付きで送信する。
だが、画面には“送信失敗”の表示が繰り返された。
「……電波が妨害されてる?」
直感だった。まさかと思い窓を開けてみると、家の裏手上空に、小型の黒いドローンが低空でホバリングしていた。
それは一瞬、須藤の方へレンズを向けたかのように動き、やがて音もなく上昇していった。
(もう監視されてる……)
汗が背中を伝った。
その夜、須藤は鳴神市の市民ホールに向かった。ある講演会が開かれると知ったからだ。テーマは「市民から見た感染症対策の在り方」――演者の名を見て、彼は動揺した。
日向美鈴。
地域でも“少し過激な市民活動家”として知られていたが、その言葉の芯には、いつも本物の危機感があった。
ホールは思いのほか空いていた。講演は平易な言葉で語られていたが、途中から、美鈴の目つきが変わった。
「……本来、私たち市民は、行政に“監視される側”ではありません。“監視する側”であるべきです。
今、鳴神で起きていることは、危険です。目に見えることだけが真実ではありません。もし“震災”が来たとき、この町の何が最初に壊れるのか……私たちは知らされていない」
須藤はその声に息を呑んだ。
その瞬間、彼は確信していた。
――この女は、“核心”に近づいている。
第二章 裏口の警告
第1節 封筒の中身
その封筒は、思いがけない場所から届いた。
ポストではなかった。
須藤が昼前に買い物を終え、アパートの階段を上がる途中、玄関のドアノブに引っかけるようにして、白い封筒が挟まれていた。
表面には何の記載もなく、無地の紙質。だが、指で触れた瞬間に分かった。中に紙の束が入っている――それも、ただの印刷物ではない。重みと、薄いインクのにおいが、かつての記者の勘を刺激した。
部屋に入り、鍵をかけ、カーテンを閉めると、須藤はテーブルの上にその封筒を置き、しばらく眺めていた。
無言のまま、呼吸を整え、静かに中身を取り出す。
十数枚の資料が無造作に折り重なっていた。どれも端に大学の研究印、あるいは「国衛庁医療危機管理局」の透かしが入っている。そして、紙の中央に太字で刻まれていたのは――
《Karyudo Virus(VHF-KY23亜型)封じ込め試験計画/嶺州拠点・深度階層B3以降》
須藤の手が止まった。
Karyudo Virus――正式名称カリュドウイルス。感染症に詳しい者でなければ聞いたことのない名だ。だが、それは明確に、エボラ出血熱をモデルとしたウイルス群の変異体であり、過去に数度、アフリカと中東で局地的流行が報告されていた“消された病”である。
(なぜ、それがここに……?)
ページをめくると、次に「想定シナリオ別拡散リスク評価」という表が現れた。
A~Dまでのケースに分かれ、それぞれに“漏洩までの時間”“想定感染範囲”“封じ込め可能時間”が記されている。
ケースC:基礎構造部損傷時
漏洩までの時間:約6時間
感染拡散速度:都市部初期症例到達2時間以内
封じ込め可能時間:36時間以内(以後、抑制困難)
(……完全に、生物兵器だ)
震えが指先にまで伝わった。
そのとき、別紙のコピーが目に入った。
「耐震試験・内部覚書」と題されたメモ書きのような文書。その余白に、小さく鉛筆で走り書きされた一文があった。
“この施設は、構造上、震源近傍における免震性が確保されていない。建設予算のため、安全基準が骨抜きにされた。”
須藤は目を閉じた。
繋がった――。
建物の巨大さ、異様な警備体制。大学の沈黙。谷口の言葉。そして、町の誰もが感じていた正体不明の「空気」。
それは、言葉にならない恐怖の正体だった。
須藤は椅子に深く腰を下ろし、封筒を見つめた。
(誰が……これを?)
その時、スマートフォンに通知が届いた。差出人は不明。本文はたった一文だった。
「19時、旧中央図書館裏口。来なければ、次はない」
警察か? 内部告発か?
だが、須藤の中で疑念より先に、ある名前がよぎっていた。
――日向美鈴。
第2節 日向美鈴という女
旧中央図書館の裏口は、今や誰も使わない。
駅前再開発で移転したため、建物は半ば廃墟のような扱いになっていた。だが、夜になると、不思議とその周囲には人の気配が消える。監視カメラも回っておらず、携帯の電波も入りづらい。情報の“死角”――そんな場所だった。
午後七時ちょうど。
須藤はフードをかぶり、足音を殺して裏口に向かった。
そこにはすでに一人の女が立っていた。
細身の黒いジャケット。髪は首元でまとめられ、足元は擦り切れたスニーカー。右手には手帳、左手には録音用の古いICレコーダー。目だけが、異様なほど鋭く光っていた。
「来たのね」
その声は低く、確信に満ちていた。
「……日向美鈴か?」
「そう呼ばれてるけど、本名じゃない」
彼女は口元にかすかな笑みを浮かべた。だがその瞳は、冗談を許さない何かをたたえていた。
「あなた、記者でしょ? 元、か。谷口からも聞いてる」
「彼が?」
「ええ。彼は私の情報提供者だった。でも、もう限界みたい。……内側の人間が壊れるのは、いつも外より早い」
須藤は無言で彼女の言葉を受け止めた。
日向美鈴――
鳴神市内では“危険な女”として知られていた。市議会への抗議、SNSでの政府批判、環境運動との連携、市民署名活動。敵も味方も多い。だが彼女の発言にはいつも、どこか事実の匂いがあった。
「さっきの封筒、あなたに送ったのは私。というか、送ったことにしておくわ。誰が送ったかは、あなたが知らない方がいい」
「……なぜ、俺に?」
「あなたは“見る目”を持ってる。……そして、もう巻き込まれた」
その言葉に、須藤の心が小さく動いた。
「あなたに渡した資料、あれはごく一部。アトラス棟が何を目的としているのか、まだあなたは知らない。Karyudo Virusは“きっかけ”に過ぎない」
「じゃあ……本当の目的は?」
美鈴は一歩、須藤に近づいた。
その瞳は、もはや活動家のものではなかった。
「制御不能の封印を“管理可能”と見せかけることで、予算と権限を集中させる――それが、国衛庁とGRAの合意内容よ。要するに、“安全保障”の名を借りた人体実験の舞台」
「証拠は?」
「ある。ただし、それを出すには……人が死ぬかもしれない」
須藤は息を飲んだ。
「あなたが信じないなら、それでも構わない。でも――あの施設が震源域の真上に建っているのは、偶然じゃない」
「何があるんだ?」
「“揺らせば、開くもの”が、あるのよ」
美鈴はそれだけ言い残し、懐から紙の切れ端を取り出して須藤に手渡した。
【地下構造図断片】
B3:高圧陽圧層
B4:試料封印区画(K-Vault)
B5:未記載
紙の端に、小さく記されていた。
“この階層図を外に出せば、職を失う。だが、出さなければ、町が死ぬ。”
風が吹いた。冷たく、生臭い風だった。
須藤はその切れ端を握りしめながら思った。
この女は、理想に酔っているわけではない。
ただ、“誰も語らないこと”を語ろうとしている。
――自分と同じように。
第3節 沈黙する大学
嶺州医科科学大学――
九州でも有数の医療研究機関であり、感染症の拠点として名を馳せていた大学。その敷地の南端に“例の建物”――アトラス棟が接続されている。
須藤は、正面ゲートから堂々と入り、かつて取材で訪れたときの名刺を差し出した。
「国衛庁の発表資料に誤記があって、現地確認のつもりです。以前、医療危機管理センターの先生に話を伺ったこともありまして」
受付の若い職員は迷いながらも、名刺の肩書きが“元”であることに気づいていたようだった。だが、慎重な態度のまま、「確認いたします」と奥へ引っ込んだ。
10分後――戻ってきた職員の表情は固かった。
「申し訳ありません。すべての研究棟、ならびに付属施設は現在、国の監査対象期間中でして……事前申請のない取材や訪問は、原則お断りしております」
「では、どなたか教員の方とだけでもお話できませんか? 私、感染症分野の報道経験もあるので」
「……大変申し訳ありません」
彼の語尾には、迷いがなかった。
それはマニュアルの通りではなく、“何かを守っている”者の声だった。
須藤は黙って一礼し、キャンパス内を歩いた。表面上は穏やかな大学風景――だが、空気が違う。
学生の数が妙に少ない。キャンパスのあちこちで警備員が立っており、裏手の研究棟には関係者以外立入禁止の貼り紙が増えていた。
そこへ、後ろから足音が近づいた。
「……須藤さん」
声をかけてきたのは、谷口晋也だった。
数日前の再会以来、連絡はなかった。彼は周囲を一瞥し、人気のない中庭へと須藤を促した。
「来たな……とは思ってたよ。でも、ここはもう何も話せる場所じゃない」
「何があった。研究室の雰囲気が変わってる。学生も妙に減ってる。何かが進行してるんだろう?」
谷口は少し俯き、そしてゆっくりと首を振った。
「“沈黙”っていうのはな、最初から決まってるわけじゃないんだ。気づかないうちに、誰もが少しずつ口を閉ざしていくんだ。見て見ぬふりをする。それが積もり積もって、今みたいになる。もう誰も……声を上げようとしない」
「じゃあ、お前は?」
「……俺はもう限界だ」
谷口は小さな紙切れを須藤の胸ポケットに押し込んだ。
そして、最後に目を合わせることなく去っていった。
須藤はその場でメモを開いた。
“構内B棟の地下、旧PC実験室。週に一度、外部者が来る。出入り記録は削除されている。
入館者名簿に『GRA事務官(技術監)』の記載を確認。日付は、事故の翌週。”
GRA。
国際的な研究支援機関を名乗るが、実態は各国の情報機関と密接な関係を持つ“灰色組織”――須藤の記者時代にも、幾度となくその名を目にしていた。
(大学は……すでに、外の力に“組み込まれている”)
誰もが口をつぐみ、誰もが従い、誰もが「知らない」ことにされる。
ここにあるのは、教育機関ではなかった。
それは、ある種の「装置」。情報を遮断し、真実を溶かし、命令だけが通る密室。
須藤は背筋を伸ばした。
この沈黙を壊すには、“外”の力が必要だった。
……その時、大学構内の非常放送が流れた。内容は何でもない火災報知器の誤作動だったが、須藤には、それがあまりにも唐突に響いた。
――音ではない。
――沈黙の裂け目だった。
第4節 “第七種”の意味
「“第七種”って言葉……知ってた?」
午後の光が傾き始めた頃、須藤は再び美鈴と落ち合っていた。場所は市内の旧倉庫街――観光地開発に失敗して放置されたコンクリートの建物。その屋上に立ち、遠くアトラス棟を望む。
「……初めて聞いた」
「当然よ。国の法令にも感染症法にも、“第七種”なんて区分は存在しない。正式に定められているのは第一種から三種感染症、特定感染症、新感染症……それだけ」
「でも、資料には確かに書いてあった。“第七種隔離施設(特定高等封鎖型)”って」
美鈴は頷き、バッグからファイルを取り出した。古びたバインダー。ページの端は擦り切れ、印刷された文字の多くは褪せかけている。
「これは、私が手に入れた未公開の行政訓練用資料。十年前、某省庁が感染症拡散シナリオに基づいて作った“仮想訓練”の記録よ」
「訓練……?」
「ええ。もし未知の高致死性ウイルスが国内に侵入したら――どう隔離し、どう隠蔽し、どう世論を操作するか。それを想定したもの」
須藤はファイルをのぞき込んだ。
そこにはこう記されていた。
【想定施設ランク:第七種】
・一般の隔離病棟とは異なり、実験・制御・兵器転用までの“応用段階”を含む施設。
・設置場所は都市外縁部、山間部、または人口密集域下層構造に限定。
・表向きの区分は「研究施設」または「感染症学術機関」に偽装する。
・設置・運用には国際研究連携(GRA等)との協定を要する。国会審議不要。
・想定病原体:致死率70%以上、エアロゾル感染、接触拡大型ウイルス。
「……こんなものが、実在するなんて」
「これはあくまで“訓練想定”よ。でも、想定は時に現実を先取りする。現にアトラス棟は、この条件にすべて合致してる」
「つまり、最初から“事故が起きる可能性”を含めて建てられている……?」
「いいえ。事故じゃない。“いつか起こす”ことが前提なのよ」
須藤の心拍が、はっきりと早まったのが自分でも分かった。
「つまり……制御実験? 故意の?」
「国の内部では“震災”という言葉が別の意味を持つのよ。自然現象に“見せかけた災害”が、どれほど制度を変え、予算を生み、統制を強化してきたか。」
美鈴は低く呟いた。
「もしこの町で“偶然”地震が起きて、施設の一部が破損し、未知のウイルスが漏れたら……それは想定内であり、“演出”でもある」
「狂ってる……」
「だから止める。今、止めなきゃ、もう二度と公にされない」
沈黙の中、アトラス棟の灰色の壁が夕日に照らされていた。
だがその反射は、どこか“光”とは別の何か――無機質で、体温を奪うような鈍い輝きに見えた。
「須藤さん。これから、あなたは後戻りできなくなるわ。
“事実を知っていたのに沈黙した記者”になるか、それとも“語って消えた記者”になるか――選んで」
須藤は、風に吹かれる髪を無意識にかき上げ、ゆっくりと頷いた。
「もう、選んだよ。俺たちは――開けてはいけないものに、手をかけてしまったんだな」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第2章では、物語が少しずつ“見えない圧力”に飲み込まれていく様子を描きました。
ネット投稿の削除、新聞社の沈黙、そして匿名で忍び寄る影。
これらはすべて、現実の社会でも起こり得る「静かな検閲」「無言の圧力」をモデルにしています。
次章からは、事態が急速に展開していきます。
目に見えない“感染”と、“情報の封鎖”という二重の閉鎖空間の中で、登場人物たちは何を選び、何を捨てていくのか――。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。