第二話
建物の中に入ると、応接間であろう座椅子とテーブルの置かれた部屋に通され、ここでしばらく待つように言われた。
私は言われるままに腰を下ろし、ぼんやりと部屋の中を眺めていた。
──なぜ壁はログを積み上げた北欧風なのに、床は畳なのか。
妙な違和感が、じわじわと脳の奥を刺激する。
そんなことを考えていると、しばらくして襖が開いた。
現れたのは、背の高い、がっしりとした体格の男だった。年齢は五十を超えているように見えるが、背筋はまっすぐに伸びており、精悍な印象が残る。
男はにかっと笑うと、私に向かって軽く会釈した。
「鞍馬玄翁じゃ。……お主が新任の者か?」
「はい。葛城奏人と申します」
「うむ、よろしく頼む。まあ、そんなに緊張せんでもええ」
そう言って鞍馬玄翁は私の向かいに腰を下ろす。
まもなく、襖の向こうから盆を抱えた若い女性が現れた。
長い黒髪をひとつに束ねた彼女は、静かな所作でお茶を差し出す。
楓は静かに部屋を後にし、襖が再び閉じられる。
──まるで能の舞台のように、丁寧で決まった動きだった。
鞍馬玄翁が小さく頷き、お茶に口をつける。
「さて……お主がなぜこの基地へ送られることになったのか。こちらにも一通りの報告は来ておるが……一度、お主の口からも聞いておきたいのう」
私はふと視線を落とし、湯気の向こうに遠ざかっていく日々を思い出した。
「ええ。……あれは、二週間ほど前のことになります──」
私はそう言いながら、遠ざかる記憶をなぞるように言葉をつないでいった。
* * *
薄暗い雨雲が、山の空を低く這っていた。
その日の私は、哨戒任務の最中だった。
この山は、妖が集まることで知られている。
中でも天狗は、太古からこの地に群れをなし、人の子に畏れられ、他の妖と争いながら生き延びてきた。
だが──時代が変わった。
人間の技術が飛躍的に進化し、山は切り拓かれ、自然は後退した。
動物たちと同様に、妖たちの居場所も狭まっていった。
我々は、人間に近すぎても、遠すぎてもいけない。
距離感を誤れば、存在そのものが脅かされる。
しかも近頃は、他の妖が我々の領域に迫り、いざこざも絶えない。
中には天狗に匹敵する技術を持つ一派も現れ、状況はますます不穏になっていた。
それを憂いたお上が命じたのが──
私たちによる哨戒任務だった。
勤務は三交代制で、昼夜を問わず持ち場に立ち、異常を監視する。
夏は炎天下、冬は吹雪。動けず、ただそこに立ち続ける。
報酬は驚くほど少なく、自由もない。
それでも、暮らしが安定するのなら、と私はその任を受けた。
……だが、あの日。
秋の終わり、冷たい雨の降る中。
私は、葉の残る木を選んで枝に身を預け、周囲を見張っていた。
変化のない景色。湿気を含んだ風。
雨粒が視界を曇らせる中、ふと──視界の端に、何かが動いた。
(……枝でも落ちたか?)
そう思ったが、妙な違和感が残る。
ゆっくりと視線を向けると、そこには──
人影が、あった。
距離があるせいで、はっきりとは見えなかったが、どうやら人間らしい。
しかも、肩に何か長いものを担いでいる。
「……マタギ、か?」
そう呟きつつ、様子を観察していたが──
その人影は、いつまでも同じ場所で動かない。
ただしゃがみ込んだまま、身じろぎひとつしない。
(妙だな……)
規則では、持ち場を離れる場合、必ず連絡し、他の者に監視を引き継ぐことになっている。
……が、そのときの私は、面倒を省こうと考え、独断で現場に向かった。
木陰に身を隠しながら近づいていくと、徐々にその人物の姿が明瞭になる。
くすんだ色の服に身を包み、肩にはやはりライフルのようなものを背負っている。
間違いない、マタギだ。
だが──彼は突然、がくりとその場に倒れこんだ。
私は慌てて駆け寄り、状態を確かめる。
脱水症状の末期。
意識は朦朧としており、このままでは命が危うい。
私は周囲を確認し、思い出す。
(……西に、人里の集落があったはずだ)
彼を担ぎ上げると、超低空飛行で急いでその方向へと向かった。
できるだけ他の天狗に見つからぬように。
一時間後、舗装された道路が見えてきた。
車の通る音も聞こえる。
道端に彼をそっと下ろし、見える位置の木の上に身を潜める。
やがて一台の車が通りかかり、マタギに気づいて止まった。
私はそれを確認すると、音を立てずに枝を離れ、持ち場へと引き返した。
気づかれずに戻れるか、正直なところ確信はなかった。
ただ──そのときの私は、ただ静かに、任務に戻ればよいのだと、そう思っていた。
再び持ち場へと戻ると、辺りには誰の気配もなかった。
安堵と少しの罪悪感が交錯する中で、私は何食わぬ顔で業務を続けた。
だが、全てが終わったその帰り際。
隊舎の玄関を出ようとしたとき──背後から声が飛んできた。
「葛城、ちょっと時間あるか?」
哨戒部隊の隊長だった。
目元は笑っていたが、声には微かな硬さがあった。
「ええ、大丈夫です」
そう応じると、隊長は無言でくるりと背を向け、そのまま隊長室へと歩き出す。
部屋に通され、戸が閉まった瞬間。
空気が、わずかに冷たくなった。
「単刀直入に聞こう。今日、持ち場を離れていたな?」
「……はい。日報を忘れてしまって、一度自宅に──」
「連絡もなく、か?」
目を逸らす間もなく、言葉が重なった。
その目は、もう笑っていない。
「申し訳ありません……」
「……それだけなら、まだよかった」
隊長は机に肘をつき、組んだ指の先で唇をなぞった。
「別の持ち場の哨戒から報告があった。低空を飛行するお前の姿と──肩に担がれていた“人間”の姿が、な」
沈黙。
どれほど言い訳を並べようと、もはや意味はない。
私は、ゆっくりと頭を下げた。
「すべて……事実です」
「……ふぅ」
深く、長い溜息。
「気持ちは、わからんでもない。だが──」
立ち上がった隊長は、ゆっくりと窓の外に目を向けた。
その背中越しに、言葉が落ちてくる。
「我々天狗は、人間にとって“境界”にある存在だ。
あまりに近づけば、我々の存在が“現実”として扱われ、均衡が崩れる。
……一歩間違えれば、お前は、我々の存続そのものに火種を投じていたかもしれん」
静かだった。
怒りではない。
ただ、冷ややかな現実を噛みしめるような、声だった。
「ここには……置いておけん。すまんが、お前には相応の処分を受けてもらう」
その言葉が、淡々と下された結論だった。
それから私は──
飛行する力を封じられ、しばらくの間、幽閉された。
そしてその後、辞令一枚で、この“山奥の基地”へと送られたのだった。
私はその後、正式に哨戒隊を離れる処分を受けた。
飛行の能力は封じられ、居住地を制限されたうえで、事実上の“幽閉”という扱いになった。
とはいえ、牢に入れられたわけではない。日々の生活はできたし、監視もそれほど厳しくはなかった。ただし、一定範囲の外に出ることは許されず、力の回復を伴うような修行や訓練も制限された。
──静かで、どこまでも退屈な日々だった。
初めのうちは、それでも気楽さに救われる面もあった。だが次第に、何もしないまま日が過ぎていくことに、言い知れぬ焦燥と虚しさが積もっていった。
(……これが、罰か)
飛ぶことすらできない空虚な時間は、ある意味で、かつての哨戒任務よりも重く感じられた。
そして──
ある日、呼び出された管理棟の一室で、封をされた文書を手渡された。
「辞令──?」
中を開くと、そこには異動の通達が書かれていた。
任地は深星。
山深い地にある、天狗たちの中でも特異な経歴を持つ者ばかりが集められた「防衛部隊」への配属だった。
(……まるで、島流しの先にある駐屯地だな)
そう思わずにはいられなかったが、それでも、私はその命令に従った。
指示された通りの電車に乗り、乗り継ぎを経て──
そして、終点・深星駅。
──今に至る。
* * *
私は静かに湯呑みに口をつけ、冷めかけた茶の渋みを感じながら、目の前の男に視線を戻す。
鞍馬玄翁は頷きながら、お茶をすする音だけを響かせていた。
「なるほど。……よく話してくれた。お主がここへ来た経緯、よく分かった」
その口調には、責めるような色はなかった。ただ、静かな肯定があった。
「ここにはな、似たような“過去”を背負った者が多い。わしも含めてな。……だからこそ、頼らせてもらうぞ。葛城奏人」
私は無言で、軽く頭を下げた。
──翼を失って、墜ちた者たちが集まる場所。
その意味が、少しずつ輪郭を帯びていくのを感じていた。