3 瓦礫の新市街
夜明け前の空には半分夢の中に浸かっているような月がまだぼんやりと残っていた。仕事を終えたイルネスは荒廃した瓦礫交じりの町を歩いた。
今夜の客は男娼のイルネスを真っ当な人間として扱ってくれる良心的な人であった。病身を痛め付けるようなこともしなければ凌辱的なこともしない。そうした客は極たまに現れるが、そんな人ほど一度限りの関係で終わることが多く、綺麗な思い出として胸の奥に仕舞われ、時折思い返しては今更届かない過ぎ去った時間を愛しく感じて切なかった。あの客も二度とイルネスを買わないと宣言した。こんな病身ではいつ心臓が止まるかも分からない。あの客とも今生の別れかもしれない。名前すら訊ねなかったことをイルネスは今になって気が付き、シャツに残った煙草の匂いを寂しく感じた。
イルネスの歩くサーチブレスの新市街は悲しいほど傷付いている。二十年前、絶大な権力を持っていたゴーベールの父がサーチブレスにおける事業を息子に任せるようになった。父の存命中はゴーベールも比較的穏健を装っていたが、十年前に父が亡くなってからは本来の強硬さを剥き出しにし、人命すら軽視する商売方針であらゆる方面から恨みを買った。邪魔者は暗殺する。懐柔できる人間は金で釣る。そうして権力を固めていく中で、サーチブレスの新市街は度々大規模攻撃を受けるようになった。町が荒廃してもゴーベールは強硬な態度を崩さず、住民を盾にして今もこの町を支配している。
国も王も警察も議会も、誰も彼もがこの町を見捨てた。権力を持つ者はみんなゴーベールの手先だった。誰も逃げられない大きな監獄だった。
イルネスはサーチブレスの東に聳える旧市街の丘を眺めた。西に広がる低地の新市街からは見えないが、あの丘の向こうには海峡が広がっていて、旧市街の丘は海峡に沿って三日月の形をしていた。何もかも壊された新市街とは違い、旧市街の丘は攻撃を免れ、歴史を重ねた美しい町並みを一片も欠かすことなく維持していた。
あの丘のてっぺんにはカネア婦人が住んでいる。素性の知れない移住者ながら絶大な威厳を持ち、ゴーベールや町外勢力すら彼女の住む旧市街の丘には手を出せなかった。薬学に造詣が深く、傷付いた人々に自分の集めた薬を分け与えている。ゴーベールとは真逆の振る舞いで町民から密かに支持を得ていた。
ふと遠くに視線をやると、爆撃を受けて半壊した低層ビルの向こうに朝日の光がうっすら見えた。何度も攻撃を受けて傷付いた町は痩せ細った病体と似ているように思えた。