私の婚約者は、呪われているらしい。私に。
私の婚約者──ラーファエルは呪われているらしい。
緩いカーブの金髪に綺麗な碧眼。高身長の騎士であり、若いながらも周囲からの信頼は厚く、実力もある。
出世間違いなしと言われている、見目麗しいはずのラーファエルは、私の前でだけ、おかしな鳴き声を上げる。
「かかかかかかかかかかかかか……!」
私は目の前の惨状に困ったように眉を下げた。
顔を真っ赤にして、首やら胸やら押さえて鳴く姿は、女子人気が高い騎士には到底見えない。
初めのころはもちろん驚いて、人を呼んだり介抱したりしたものだが、医者の診断では、何の異常もなく病気でもないらしいのだ。
私以外とは普通に会話もできるし、紳士的であり、婚約者のいる身でありながらも女子人気は衰えを見せないほどで、普段の生活にはとんと影響がない。
とくに急を要するものではないと判断され、現在は様子見中。唯一影響があるのは私だが、顔を合わせるたびに鳴かれるので、今ではそこまで気にならなくなった。
会話ができないことは残念で仕方ないものの、犬や鳥を愛でていると思えば、可愛らしく思えなくもない。
噂によると、呪いをかけた人間はわかっているようなのだ。
ラーファエルに呪いをかけた人物──エステル・クラウダ―。私である。
ただ、身に覚えは全くないのだが。
◇◇◇
始まりは、婚約が成立してから初めての顔合わせだった。
私は浮かれていた。他の女の子たち同様、ラーファエルは憧れの騎士だったから。
この時ばかりは自分の家柄に感謝した。名を言えば、みんな笑顔を張り付けるクラウダー伯爵家。何不自由なく暮らしてきた。両親のどちらとも色が違う、一人だけ珍しい黒髪で、それだけがコンプレックスだったが、ラーファエルと婚約することになって気にならなくなった。
同じく伯爵家の三男であるラーファエルは、由緒ある貴族としては珍しく騎士を志した人間だった。昔から交流はあったが、彼は王城で開かれる大きな式典にだけ貴族として姿を現した。その姿を一目見たくて、父に連れていってほしいとお願いしたこともある。
自分とそう変わらない年齢のラーファエルが、大人に混ざって剣を握っているという話を聞くと、自分も頑張ろうと思えた。ラーファエルのそんな姿を見るたび、自分も彼のようになりたいと思えて、毎日の勉強も頑張れた。ずっと憧れの存在だった。
気を利かせてくれたのか、招待された屋敷の雰囲気が良いガセボで二人、挨拶を兼ねた談笑をするはずだった。
「かかかかかかかかかかかかかかかかか……!」
目を引くような美男子は今、全く違った意味で凝視するしかなかった。
美形の騎士が鳴いている。
これは現実なのかしら。
目の前の惨状に面食らいながら、ついに頬をつねった。痛い。
現実だと再確認して、心の中で嘆く。みんなが憧れる騎士はどこへ行ってしまったの。
こんなに戸惑ったことがあっただろうかと過去の自分を振り返った。伯爵家たる知性を養うため、勉強を欠かさない毎日。それが辛いと思ったこともあったけれど、どれもちゃんと正解があった。
「かかかかかかかかかかか……!」
目の前の奇行を眺めながら、こんなところで正解がある問題のありがたさを知る。
何が何だかわからないまま、しかし心配そうに声を掛けた。
「あのラーファエル様……?」
「すま、ない。あまりにか、かかかかかかかかかかかかか……!」
いつものキリリとした顔は見えない。どう見ても気が触れた人のようなその挙動。
慌てたように口や喉を押さえた彼の顔は真っ赤に染まっている。苦しいのかもしれない。その様子に、私はとうとう只事ではないと判断した。
渾身の助けを呼ぶ声に、使用人が駆けつけてくれた。あっという間に運ばれていき、すぐさま医者にも診せたのだという。異常はないとの診断だったが、それからもずっとこの調子だ。
婚約が発表されてから早三ヶ月。
噂好きな貴族によって、あっという間に身に覚えのない噂が飛び交うようになった。
どうやら伯爵家の令嬢エステルは魔女らしい、と。
私の前ではおかしな鳴き声を上げるラーファエルだが、それ以外では、これまでと何ら変わらない凛々しい姿なのだ。私のことも良い婚約者だと、周囲にはそう話しているらしい。
彼のそんな不自然な姿が、格好の餌食になった。私の前でだけ見せる凶行は術に抗っている証なのではないか、おかしな術を使ってたらし込んだのではないか、とそんな憶測が飛び交った。
ひどい言いがかりだが、珍しい漆黒の髪、日焼け一つない青白い肌、印象深い大きな紅い瞳が、有名な童話に出てくる魔女を彷彿とさせるようだった。
元々目立つことは自覚していたけれど、ラーファエルとの婚約が発表されてからは拍車がかかった。ラーファエルを慕う人間からの妬みも混ざっていた。
だから、もしかしたら婚約を気に入らない人間が、私を陥れようとしているのではないかと思ったのだ。
実は、おかしな術を使う存在というのは少数ながら実在する。
火のないところには何とやら。魔女の物語も、その存在がモチーフらしいとかつて習ったことがある。
「……もしかしたら、本当に呪い、なのかもしれないわ」
そう思うと居ても立ってもいられない。メイドに頼んですぐに情報を集めてもらった。
メイドネットワークは広範囲かつ緻密に張り巡らされていて、あっという間にラーファエルが近頃頻繁に会っているらしい女性を突き止めた。
いや、実際は知らなかったのは私だけ。私への批判的な噂話が出回り始めた時期と、ラーファエルと彼女が会うようになったとされる時期は一致していた。
その女性──子爵令嬢リリアは、黒みが強い茶髪で、私の格好を真似ている、という話もある。
好きなラーファエルと婚約した私が気に入らなくて、ラーファエルと私が会話できないように呪いをかけたのかもしれない。格好を真似ていることも、私に成り代わろうとして、と思えば辻褄も合う。
「よし。行ってみよう、かしら。少し会って話を聞いてくるだけ。本当に呪いなら、解いてもらわないといけないけれど」
意を決してリリアに会いにいくことにした。
どうか呪いであってほしいと心底願いながら。
◇◇◇
連絡を入れれば断られるかもしれないと思ったので、あえて連絡はしなかった。
リリアの知り合いだと告げたけれど、取り次いでもらえるかは分からない。直接リリアと話はできるだろうか。
しかしそんな心配は、あっさりと解決した。
「ごきげんよう! エステル様……!」
通された応接室で大して待つこともなく、早々に現れたリリアは大きく頭を下げたのだ。
「え、え? 顔を上げてください。一体どうなさいまして?」
「本当に、申し訳ありませんでした……!」
彼女の謝罪は嘘には見えず、面食らう。
想像していた女性とは随分と違っていた。確かに似ている髪色、それからエステルの好みと似通った服装ではあるが、彼女自身には軽薄さも嘘くささも狡猾さも見受けられなかった。
ラーファエルをたぶらかし、エステルを追い込もうとする人物には見えなかったのだ。
だからますます彼女の謝る理由が気になってしまう。
「……何の謝罪ですか?」
返答次第では罪人として突き出すことも考えつつ、静かに尋ねた。
「全てわかっててこられたんですよね。私だってやりたくてやったわけではないんです……! 私も無理やりやらされたようなもので!」
「言い訳は結構です。ラーファエル様がこちらに頻繁に通われているというのは事実でしょう?」
「え、ええ、それは、そうですが……」
もごもごと言い淀んだリリアに、畳み掛けた。
「──あなたが呪いをかけたんですか?」
そう言った時のリリアの顔は、それはもう見ていられないほどだった。
何を言われたのか理解できず固まり、次いで慌てて横に首を振った。手も同じ動きをする。
「呪い!? そんな物騒なこと、できるわけないじゃないですか! 違います違います! 私は何もしておりません!」
嘘には見えなかった。事実、嘘ではないのだろう。
私の心はきしりと音を立てた。
やはり、呪いではなかったのだ。
一つの希望だった。呪いであれば、どんなに良かっただろうか。
リリアの慌てた声をどこか遠くで聞きながら、どんよりと気は沈んでいく。
で、あれば、だ。
ずっと心の奥底にあった疑惑。あの鳴き声はラーファエルの演技なのではないだろうか。
もしかして私との婚約が嫌で、実は他に誰か想い人がいたりして。
話の流れのまま真面目に聞いてくれていたリリアだったが、話し終える頃には笑っていた。
「ふふ! なるほど。そうですね、全てラーファエル様が悪うございますね。ええ、全く」
「どういう?」
「大変心苦しいのですが、いま私が申し上げられることはございません。確かに、ラーファエル様はこの屋敷に時々いらっしゃいますわ。しかし、決して、エステル様に不義理をしようなどとは考えておりませんの。ああ、今日もそろそろラーファエル様がいらっしゃいます。どうです、お会いになりませんか?」
平謝りしていたリリアからは想像もできなかった。
にやりと笑った彼女を見て、第一印象は当てにならないなと思った。
彼女は本当に愉しそうで、したたかそうに見えた。
◇◇◇
「リリア嬢、いつもすまないな」
リリアの指示通り、扉を背にして立っていると、ラーファエルが入ってきた。
しかし絶対に振り向いてはいけないのだと教えられていたから、ラーファエルに背中を向けたまま無言で立つ。
何が始まるのだろうと思っていると、ラーファエルは、咳払いや「あー」と何回か声を出した。
「では始めるぞ。──エステル嬢、なんてかかかかかかかかかか!」
背後から聞こえた鳴き声に耳を疑った。
しかも今、私を呼ばなかった?
振り向きかけたが、ぐっと耐える。
その後も、ラーファエルは何度も何度も鳴いていた。
「すまない、もう一度。……かかかかかかかかわ! いや、うううつくくくくくくくっし! いや駄目だ。やはり、かわわわわわわ!」
「エステル嬢、いつも、かかかかわ、かわい……んんっ! 待ってくれ。もう一度、最初から」
「かかかかかかかわ、かっかかかかかか!!」
相変わらずの鳴き声だが、この時点ですでに顔は緩んでいた。
どうしてこの人はリリアさんに向かって鳴いているの? 私の名前を呼びながら。
「かかかかかかっ! うぅん、上手くいかないな。ああ、そういえば、リリア嬢は先日、言えそうなところから話してみればと言っていたな? 今から試してみようと思う。聞いてくれ」
律儀に、リリアに扮する私に向かって声を掛けて、ラーファエルは何か葛藤があるのだろう、唸り声を上げながら、話し始めた。
「……エステル嬢、僕と婚約してくれてありがとう。本当に嬉しい。いつも不恰好な僕を見せてしまって、申し訳なく思っている。その、あまりに、君が、かか、かかかかかわっ、かわい、いいいいいいい、くて。言葉にしないとと思うんだが、上手く言えないことばかりで。情けなくて、嫌われてしまわないかと不安でならない」
鳴き声の下でこんなことを思ってくれていたとは知らなかった。
驚きはするものの嬉しすぎた。これが本心でなかったら、なんだと言うの。
「もっと早く言わなくてはと思っていた。遅くなってすまない。あああああああああいし、ててててててて……る!」
呪いではなかった。
演技でもなかった。
私の前でだけ鳴く彼は、私のせいで鳴いていた。
そう、私が彼の特別だった。にやけてしまうのも仕方ないでしょう?
「おお、今日は割といい感じだった気がする! 君の先日のアドバイスが良かったようだ。ありがとう。話しやすい内容から話すというのは大事なようだな。今日はどうだった? リリア嬢」
笑い声を殺して振り向けば、ラーファエルが笑顔のまま固まった。
「エエエエエエステルじょ……! ここここれは、かわ、かかかかかかかかかか!」
いつもの鳴き声が、愛の言葉に聞こえるものだから、不思議だ。
心が温かくなるのを感じながら、視界に入らないように隣に並ぶ。少しでも会話ができればいいと思った。
「……ありがとうございます。私もラーファエル様と婚約できて、とても嬉しいです。実はそのおかしな鳴き声は私との婚約が嫌で、わざとされているのかも、なんて思っていたんです。もしかしたら本当はリリアさんと婚約したかったのではと。だから今日は確認のためにこちらへお邪魔していて」
「それは違う!」
すぐさま否定してくれるラーファエルに、たったそれだけのことにさえ、愛を感じて。
不安なんて吹き飛んでしまった。
「杞憂だったんだと、わかりました。思っていた以上に私のことを好きでいてくださっていて、言葉でちゃんと伝えようとしてくださっていたことがわかって、すごくほっとしました」
私は今、満面の笑みを向けている。
「──私もずっと、ラーファエル様が素敵だと思っていましたので」
耳まで真っ赤な彼は、憧れの騎士の姿からは程遠かった。
ただ可愛い。
「だから嫌いになんてなりません。どうか私で練習してくださいね」
「……それはもう、本番なんだが……」
「駄目ですか?」
「うう、いや、どうせリリア嬢にも褒美をやると言って無理やり練習に付き合ってもらっていたんだ。君がそれでいいと言うのなら」
その答えを聞いて、私はパンと手を鳴らした。
「──では、はい、どうぞ」
「いいい今か!??」
そう言って開かれたラーファエルの口からは。
案の定、おかしな鳴き声が響き渡ったのだった。
「かかっかかかかかかかかかわ……!」
おしまい
もはや呪い…(´-ω-`*)