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六之一


 薄く開いた視界に映る母に、ああ……これは夢だ……と小春は思う。

 何も聞こえない。動けない。ただ微睡んだまま、あの家の自分の部屋で眠っているんだと感じている。

 母が部屋を出ていく。私も行かなくちゃ、と動いているか動いていないか定かではないまま、視界だけが変わっている。

 お腹が空いている……待って……待って……。


「おかあさん……」








 目を開けた。猫の鳴き声が聞こえるので、手をついて起き上がってあたりを見る。

 小春は、骨董屋の屋敷にいなかった。

 酷くぼやけた風景だ。多分……元の家。小春の家族で住む家。

 そして、振り返ることもなかった自分の部屋。


「かーくん……」


 呼べば、足元にすり寄ってくる猫がいた。持ち上げる。金色の瞳がきれいな飼い猫……かがせおだ。名前の意味は知らない。お父さんが興奮しながら付けてたってだけ。

 小春によくなついていた猫だ。今はどうしているんだろう。きっと、かーくんも小春を忘れているに違いない。

 ただここでは、いつものように小春の胸に抱かれている。

 部屋を出て、階段を下りて、父とはすれ違わずにリビングに入る。

 そこには母がいた。目を何度か瞬かせて、小春は立ち尽くした。

 母が何か言っている。


「お母さん……?」


 ぼやぼやの世界では、母が何を言っているか、どんな表情をしているかわからない。

 父に助けを求めようとも、父が何をしているかわからない。

 ぼやぼや。ぼやぼや……意識も、ぼやぼや。

 

「かーくん……」


 猫もぼやぼや。世界がぼやぼや。

 夢だ。なら、仕方ない。

 ぜんぶぜんぶ、しかたない……。







 ――目を開けた。

 今ではいつも通りに様変わりした骨董屋の自分の部屋で、小春はゆっくりと起き上がる。

 開けていた窓の外は、どんよりとした空模様。雪は降っていないみたいだ。

 今日は、……いつも通りには遠いかもしれない。昨日の今日だ。輝夜達はまだ……起き上がれないかも。

 そうだ……それなら――朝の準備を小春がこなしたら、喜んでもらえるかも?


「そうだ……そうだよね!」


 ピン! とひらめいた頭上、小春は急いで着替えて軋む床を静かに早く走っていく。そろりそろり、たったった! 朝ごはんも多分……作れると思う!


「んえ、輝夜……さん!?」


「あら、おはようー小春ちゃん。そんなに急いでどうしたの? お腹減ったー?」


 にへらと笑って振り返ったのは、割烹着姿の輝夜だった。

 何も変わらない。何も変わらず美しい着物に、髪に、瞳に……全てに、昨日のあの痛々しい泣き声をあげていた面影はどこにもない。


「あの……まだ、寝ていても……」


 小春が恐る恐る尋ねると、輝夜は微笑みを崩さないままに包丁のリズムを再開させる。


「大丈夫。もう平気。……それにしてもどうしてこんなに早く? 本当にお腹減っちゃった? 何か食べる?」


「いえ! あの……私が代わりに朝の準備……しようかな、って」


「……――まあ! そうなの!? ふふ、嬉しいわぁ。そうなのそうなの! ふふふ……」


 輝夜は頬を染めて笑うと、つい、と右の鍋を指さす。


「それなら、お味噌汁の準備をお願いできるかしら。……あ、先にご飯の準備のほうがいいな。うん、お米研いで、炊飯器に入れてくれる?」


「わかりました!」


 えーっと、お味噌汁はしなくていい。お米を研ごう。

 ひのひかり、と書いてある袋を取り出して、ざらざらと研ぎ用のボウルに4合分入れていく。魚を焼いている輝夜の横で、水道水を出しお米を何度か研いだ。ぐーるぐる。実家にいた頃、すごく小さい時にお手伝いをした僅かな記憶を思い出す。

 まあこのくらいかな、と研ぎ汁の濁りを見て釜の中へ移し、合分の水を入れてセット。一時間後の朝ごはんの時間にはちょうど良く炊き上がるだろう。

 次はお味噌汁をー……と小春が振り返ると、すでに輝夜が鍋をくるくる回していた。


「もう大丈夫よ」


 輝夜の言葉に頷いて、小春はすることがなくなってしまった。


「……骨董屋に行ってもいいですか?」


「え? ええ、かまわないけれど……」


「時間があるので、朝のお掃除でもしようかなって! じゃあ、一時間後に~」


 小春はぱたぱたと駆け出した。

 輝夜はお味噌汁をくるくると回しながら、物陰に隠れていた男に声をかける。


「葵、顔」


「……三善の分もあるな」


「当たり前じゃない」


 無言の間。葵を振り返ろうとも、ちょうど陰に立つ葵の表情はただの一瞥じゃ見て取れるようなものではなかった。

 くるくる、くるくるとお味噌汁を混ぜる。味を見る。足し引きはゼロ。完璧だ。


「……小春ちゃんね、お米研いでくれたの。こんな真冬の朝に、あたし、ひどいことしちゃった。気づいて……ゴム手袋をね、出したんだけど……ただ一生懸命に研いでくれてて……。……味覚、痛覚……小春ちゃん……小春ちゃんは……」


 輝夜は何を言おうにも自分が本当に言いたいことなのかわからなくなって、次の言葉を紡げなくなってしまった。


「小春は――贄の果実だ」


「……え?」


「薄々気づいていただろう? 何度も本能を揺さぶられたくせに」


 輝夜の手が、震える。理性で封じた己の中の獣性を、気合で再び封じた。


「贄の果実って……あの!? だったら、だったら……!! 葵、お前は……!!」


 輝夜は葵を見た。葵の表情のない顔を見て、詰め寄る。


「贄の娘だとわかっていて、外に出したの!? 自殺行為だわ!! 閉じ込め――」


「閉じ込める? そんなことはしない」


 食いかかったのは葵だ。一歩葵が近づけば、輝夜はその歩数分退いてしまう。


「あのような始末、繰り返すものか。この、私が……私が……!!」


 葵は数回肩で息をすると、落ち着きを取り戻すように額に手を当てた。そのまま輝夜の横を通り過ぎ、廊下の軋みを響かせて骨董屋へ向かう。

 輝夜は口に手を当てて、落ち着く結論を探している。贄の果実……贄の一族の……娘……。そしてあの芳香……あんな瑞々しい果実が実るなんて、何百年ぶりだろう……。







 小春は埃を落とすために片手にはたきを持ち、ぱたぱたと澄まし顔の骨董品たちの頬を撫でてている。


「おはようございます! みなさん!」


 小春があいさつをすると、彼女達あるいは彼らは小さく頭を下げた。


「今日もとても寒いんですよ。私はわからないけど、皆さんはわかるのかな? 今日も沢山、お客様来るといいですねー」


 そうだね、と声を聞いて小春は心地よく掃除をしている。


「小春」


 そう声をかけたのは葵だ。

 自分が血だらけで転がっていた痕跡はすでになく、花になった小春の血の花びらも残ってはいない。


「葵さん! おはようございます!」


「……おはよう、小春」


 葵は奥の扉を開けたくせに、こちらに入ろうとはしないようだ。

 小春は駆け寄って顔を見上げた。まるで青ざめたような、体調の悪そうな顔だ。


「葵さん」


 葵は小春を見下ろしたまま、言葉を待っている。


「少し屈んでくれますか?」


 葵は静かに言葉に従った。なんだろう、と思う暇もないまま小春の手が額に当てられていることに気づくのに数秒遅れ――硬直するはめになる。


「うーん……わからないなあ。体調悪いならちゃんと言うんですよ!」


 小春が腰に手を当てて、まるでどこかの母親のように口をとがらせている。

 葵は少し目の力が抜けて、小さく頷いて背を伸ばした。


「小春、昨日のことだが……その……」


 小春は歯切れの悪い葵の言葉に首をかしげて、うーんとうなり、


「……何かありましたっけ?」


 と微笑んだ。


新章です!

いや~秋が久しぶりすぎてもはや寒いんですが。冬? もう冬?

寒い、秋服がない!! だって3年くらい秋なかったんだもん!!

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