三
やはり天候は不安定で、右に吹雪いたかと思えば雨がそれらを左に攫い、穏やかに粉雪が笑う。そんな視界に帰り道は上手く映るはずもなく、小春はただ真っ赤な羽織を見つめていた。
歩けば歩くほどに震えが来て、カチカチと歯を鳴らす。あまりにも濡れた身体を外に置き過ぎたんだ。意識さえも霞んでいく。
彼はちらりと小春を見て、また前を向いた。小春もその視線につられてそちらに目をやると、辺りは既に暗いことに気が付いた。
夜、? と声に出せずに躓いた小春の肩を持つ人がいる。赤い羽織の男の人だろうか――と思ったが、未だに片手を小春の手に繋いでいる。
「冷たいわ……!! ちょっとアオイ!!」
「義務は果たした。……寒いなら寒いと言えばよかろうに」
「義務ってねぇ……!」
ずん、と肩が重くなる。どうやら投げる様に羽織を掛けられたらしく、小春の肩を支える女性はガミガミと目を吊り上げて青年――アオイを叱りつけていた。
アオイは下にかけて灰に、上に掛けて黒に近くなるグラデーションを施された着物を流しており、血よりも赤黒い帯を巻くだけ巻いて、余った布を左腰から垂れさせている。
対して目の前の女性は空気を含んだ髪房を両耳に掛けて揺らし、清水で造った氷のような青い着物を身に纏っていた。
御夫婦? と思い、挨拶をしなければと立ち上がりかけて小春は身体の異変に気付いた。あまりにも震えが止まらない。膝も笑う、視界も瞬く。そんな様子に気付いてか、女性は事もなげに小春を持ち上げると、
「ふぇ!?」
そのまま奥へ進んだ。
「大丈夫よ。まずは身体を暖めましょう」
と女性が笑うので、小春は小さく頷くしかなかった。
迎えられた屋敷も広大で立派、しかも綺麗で新しく――はないが古臭い印象は抱かせない。手入れがしっかりと施されているという証で、保存された資料館のようだと感じた。
不思議と入り口から暖かく、小春は安堵の息を吐く。客間に降ろされると、先程の震えは一切なく小春は慌てた様子で青い着物の女性に頭を下げた。
「お、奥様に失礼なことをしました! 本当にごめんなさい!!」
女性はきょとん、としてアオイに目をやった。アオイはそのまま目を細めて奥の部屋へと消えていく。女性は再び小春を見て、ぷは、と破顔した。
「ふふっふふふ、女性、あたしが? あはははは、あははは! そうよね、ややこしいわよね、ごめんなさい! 失礼しました。あたし――こう見えてね、男なのよ!」
「……はい? ……あ、オトコさんですか?」
「あはははは! 混乱しちゃってる! かわいい! え!? アオイー! なんでこんなに可愛い子かどわかしてきちゃったの!? 可愛いから!? あはははは!」
オトコさんは跳ねるように奥の座敷へ消えてしまった。小春がぽかん、と口を開けているとまだ奥できゃっきゃと声が聞こえる。
「オトコ……オトコ……男!?」
「あらやだ、理解が及んだようね」
「えー!? こんなことがあっていいんですか!? すっごいお綺麗です! アイドルです! あ、アイドルですか!?」
「えっ、やだやだ。もーやだー! あたしに何して欲しいの? あたしどうなっちゃうの!?」
推定男は頬を朱に染めると、むぎゅっと小春を抱き締めた。小春は「だだ駄目です! 濡れてしまいます!」と抵抗したが、推定男は幸せそうに小春を抱き締めている。
「……あ、そうよね、タオル。ごめんなさい、少し待っててくれるかしら」
濡れた小春の頬にかかる髪を撫でて、推定男は不意に思い至った。申し訳なさそうに眉を落して、ぱたぱたと駆けていく。戻って来たその手に載せたタオルを広げて、小春の身体を包みあげた。
「服が渇く間、これを着てくれる? 随分と昔ものだけれど着れると思うから……」
推定男は席を外そうと片足を後ろに擦ったが、その片手を小春が掴んだ。
「あの、……着物、着れなくて……」
小春は控えめに笑いながら推定男を見上げた。
あれよあれよと渡されたが、小春は一人で浴衣を着ることが出来ない。母親の着付けを一年一度見る機会はあったけれど、それを今思い出せる自信がない。
だからここは、どうしても引き留める必要があった。凄く凄く空気の読めないことだと自覚してはいたが、ここは引いてはいけない。
「……そうよね。いいわ、着せてあげる。いいのよね?」
小春は頷いた。アオイは近くに居ないようだし、こんなに女性に紛う風貌の男ならば湧き上がるだろう羞恥は要らないと腕を上げた。
七五三……と声に出さず、小春は満足げに鼻を鳴らした。その様子を見て推定男も嬉しそうに笑うので、さらに小春はぴょんぴょんと跳ねる。すると推定男も瞳を輝かせながら喜ぶので、小春はうんうんと頷いていた。
「あ、アオイ。お家にいつ送ってあげるの? 陽が昇り出したころ?」
「あ――! 羽織り、ありがとうございました!」
アオイが顔を出した瞬間、小春は素早く畳んだ羽織を差し出して頭を下げた。アオイは「ああ」と小さく反応して、受け取った羽織を半分開いて腕に掛ける。
「……この子に部屋を用意してやれ」
「……え、あ、ああ。泊めるのね? じゃあ、お家の人に連絡しないと……」
アオイは首を横に振った。推定男は不思議そうに首を傾げて、徐々に瞳を開いて行く。「嘘でしょ」と零れ出た言葉に間入れず「嘘でしょ嘘でしょ嘘よね!? もしかしてこの子、此処に住ませるつもり!? 人間よ!?」
推定男はアオイに詰め寄った。アオイは溜息を吐いて、小春を見下ろしている。
「存在を喰われている」
「……存在を、喰われた?」
言葉を返したのも、推定男だ。小春は何も語らず、ただ言葉を聞いている。
「見つけた頃には既に遅かった。辛うじて残る灯火を私に繋いだが、浮世に残ったのは精々身体と魂だけか」
「……え? それって……」
推定男は、動揺した眼差しで小春を見た。二人の視線を受け止めた小春は、口角を上げて明るい声でこう言った。
「私をここに、置いてもらえるんですか?」
「……お前は私に繋がれた。此処以外にお前の行き場など存在せぬ」
「わかりました! 私、ご迷惑にならないよう精いっぱいはたら……働きます!」
拳を握って何度も頷く。
その様子に推定男が近寄って、小春の肩を優しく抱いた。小春は右を向いて首を傾げたけれど、推定男は小さく笑って小春の顔を抱いている。
「それならご挨拶をしないとね。あたし、コウヤ……輝く夜って書いて、輝夜っていうの。元の生活に戻れる間、仲良く暮らしましょ。大丈夫……大丈夫よ。怖いことなんて、何も無いわ」
輝夜は強く優しく、小春を抱き寄せた。
小春は輝夜の瞳の中で笑って、何度も頷いた。
それから、小春は与えられた部屋の中で眠れずにいた。
敷いてもらった布団から出て、部屋の隅で膝を抱く。その顔に笑みはなく、瞳はただ畳の網目を見つめていた。
「笑って……」
呟いた言葉は硝子玉のように落ちて、ころころと部屋を転がった。寒くは無いのに、小春は一度自分の膝を引く。膝に当たる固い石――――するりと胸元から躍り出た首飾りを胸に入れて息を吐いた。そのまま膝に額を乗せて、日差しが昇るのを薄く開いた瞳で待っている。