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五之一


 私の記憶には、こんな風にお父さんとお母さんと歩いた記憶はありません。

 両手を繋いでぶらぶらと、自然と笑ったこともありません。

 ――それが、辛いと思ったこともないんです。

 でも……今は……もしかしたら……この手を伸ばしたら……輝夜さんと葵さんは、きっと握り――――。





 がさりと音を立てて掴まれたのは、小春の胴体だ。荒々しく掴みあげられた胴はそのまま四肢を連れて上空に打ちあがり、黒い羽が茜色の空を小春と共に舞っている。

 葵と輝夜の表情も見ることが出来ずに傍の男は一人に入れ替わった。覚えがある。この男は、そう、店に来ていた――葵の客人だ。


「おう。荒々しくしてすまねぇが、ちょいとばかし取引材料になってくれ」


「あの――」


「無理に話そうとするな。死ぬほど苦しいぜ、空ってのは」


「あのう! えっと、お仕事のお話ですか? それならお店でお話したほうが、なんというか、お仕事っぽいと思うんですけど、違いますか!?」


 小春は抱き留められていて空に打ち上げられていることに怖がる素振りも無く、なんなら食いつかん勢いで男に迫った。男は一瞬顎を引くも、ぷっ、と小さく噴き出してその動かなそうな頬を緩めている。


「おいおい勘弁しろよ。葵も輝夜も、何をトチ狂ってこんな面白い人間を――」


 世の中の理を一つ、ここで示しておこう、と絶対なる世界が言うように。

 打ち上げられたものは皆、落ち行く定めを自覚する。

 男の眉間を掠めた何かは、一線の鮮血を代わりに引いて男の言葉を消した。ぐらりと傾き地球の表の理を取り戻す二人の身体は、冷気の冷たさを伴って落下していく。

 空を飛べるはずの男は血に滲む目を見開きながら、小春をしかと抱き留めて地を睨みつけていた――そうして落ち、ぶつかる二人の身体。

 一つの大きな身体を犠牲にして、小春は身体を起こした。

 血に塗れた少女の身体に近づく、軽い足音。

 夕暮れ――いや、もはや、夜の刻。

 その少年は、寒さに頬を隠さないままに、制服を身にまとった姿で、口元だけに笑みを作った。


「カラス、不躾な鴉めが。このまま粉々に刻んでやろうか――――?」


 少年は昏い瞳で、血に伏せた男を見下ろしていた。小春は咄嗟に男を庇うように、少年の視線上に立つ。少年は瞳を小春に映すと、嫌そうに目を細めた。


「怪我をしているね。危ない、……危ないよ」


 少年が近づき膝を付く。小春の片足を持ち上げて、その膝に触れた。


「あ……」


 そう、落下の衝撃を完全に殺せずに、擦りむいて血が流れている。

 少年が血に触れる。――何かが、小春を取り巻く何かが、世界が、鼓動のように、ひび割れが入るように、揺れている。


「君は僕の妻なのだから、僕以外を見てはいけないと、何度も何度も言っていたよね」


 優しい手つきでハンカチを巻く行為とは裏腹に、冷たい音が吐き出されていく。


「何度も探したよ。もしかして、遅くなった僕を責めてる? それでもいい、……いいんだ。何があってもずっと愛しているから……」


 黒い瞳の中にうごめく何かが、無数の手に見える。

 小春は身体が震え――違う、身に着けていた"約束"が震えているのを感じていた。

 髪ゴムが千切れた。首飾りが音を立てている。崩れていく、絶対の約束が、無くなってしまう。それはいいことだろうか? それは、約束なのだから、破ることは――。

 悪いことだ。


「あ、あの! ……やめて、ください」


 否定を、拒絶を嫌ってきた小春にとって、この言葉は人生で一番勇気がいる言葉だった。その後に振り掛かる悲しみが、小春だけのものではないと知っていたから。


「……家に帰ろう? 君がいない家は、寂しくて、嫌いだ」


 男は手を差し出した。小春が取るはずもない、手を。


「……あの!」


 嫌だった。――誰かを、何かを、否定するに近い言葉は、嫌いだ。


「……どちら様、ですか?」


 ほら、こうなる。

 その言葉を聞いた男の目が、見開かれて、揺れている。世界を掌の圧でぐちゃぐちゃにし得るほどに、激しい負の感情が生まれていく。

 男は間をおいて、やはり微笑んだ。


「さあ、帰ろう」


「――待ちなよ、少年」


 そこに凛と差し込んだ、光のような声がある。それは柔らかいのに鋼のような芯を持つ声で、確かな固い足取りと瞳で、小春の背後に立っていた。


「そこの少女は、我が父の預かりモノだ。幽明境に籍を置く命が、よもや少年……キミのような禍々しい者の妻なわけがない。故に、ボクが連れて行く」


「……ははは。はァ?」


「少年。キミは一体――何だ?」


「――見つけたッ!! 燈夜とうや! 小春ちゃんを掴んでッ!!」


 今小春の傍にいる二人は、小春と歳が大きく離れているようには見えない。そんな背後の少年が、小春の肩に手を置いた――それに眉を顰める、片方が舌打ちをしながら、背後を見やる。

 こちらに走ってくる二つの影――、小春しか見ていない二人の男――。


「……もう誰にも、奪わせはしない。これは……僕の、僕だけの、女だ」


 防衛の為に引きずられた胸元は、浮かない腰は、小春の目の前に迫る手は、彼方から取り戻そうと伸ばされる手は――――。

 暗い昏い、夜の底に。

 輝く月が顔を出す。景色が嘲笑の寒冷の温度をもって、この場を塗り替える。 

 吹雪く夜に、凍て付く手足。赤子の鳴き声、倒れた身体、血が流れ続ける大地に、その少女はいない。

 時計を戻し、月を戻し、今この場に、忘れ難き憧憬を描き出そう。

 そうして壊すのだ、粉々に。

 誰かもそうして壊されたと、学習している痛みを繰り返すため。

 そうして命を殺すのだ。――何度も、何度も。


「……小春ちゃん!? 燈夜!? 葵ッ!? どこに行ったの……みんな、何処に!!」


「あ――あなた! 見つけた、……もう、何処に行ってらしたの? 今日は早くお戻りになると言っていたからあたし、張り切ってたのに。あなた、帰ってこないんだもの! あたし、怒ってますから!!」


 そうして殺すのだ。――月が笑う。

 輝夜の鼓膜に鳴り響く柔らかい音色、……愛しい声色が、失って久しい面影が、なぜ、どうして、今此処に、鳴り響いて。


「……あなた? どうされたの……?」


「……姫……」


「まあ、姫ですか」


 傍に駆け寄って、笑う女の形がある。

 失った色を取り戻して――嗚呼、そう、輝夜も、そう。

 遥か昔に失った男の姿で、その女と対峙している。


「ええ! 貴方の……照夜姫てるやひめ、ですよ?」


 会いたくない――心の声は、本心が消す。

 逢ってはならない――心に棲む責め苦は、本心が殺す。

 会いたかった――、本当に、ずっと、ずっと……!!


「照夜……!!」


 強く、強く、抱きしめた。

 頬を濡らす、忘れられた想いが溢れ出した。

 形がある――温もりがある。

 ならば、本当に――……本当の?


「まあ、まあ……! わたくしのあなた……どうしたのかしら……?」


 姫、と呼べば僅かに演技じみた瞳で言葉を正す、その唇……。

 本当の――俺の、妻だ……!!


新章突入~!

鴉さん、今んとこ出落ちですみません……ははは……

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