四之五
懐かしい匂いが運ばれた。
太ももを濡らすということは、指先を海が濡らすということだ。
小春は立つ位置は、右側なのか? そんなに海に浸かっているということは、ひまりは、小春は、既に中央より――。
「生を反するのは容易く、死を反するは難し。……殺すのは簡単だ。しかし、死した者はもう生かせない」
その手を取る、ぬくもりがあった。
右手を、――葵の左手が掴んだのだ。
小春は驚いて、葵を見上げた。葵はただ、ひまり達を見つめていた。
「困ったものだ。持って帰って良いと許可を出したのは、あの珠だけ。……小春には、出していない」
「……ごめんなさい……」
「良い――。どこへ行こうとも、見つけ出そう」
強く握られた手は、ひどく冷たかった。
それでも、そこから流れて来た温もりがあった。それが確かに、小春に答えを与えた。
「葵さん……助けるのは、いいことですか?」
葵は小春を見た。
「……死んだ者を生き返らせることが、救いになると小春は言うのか」
「……わかりません。でも、あんなに、泣いているのは……可哀想で……」
小春が左手を伸ばした先に、泣き叫んでいるひまりがいる。この小さな左手で抱けそうなほどの距離の錯覚で、その小さな女の子は母親を――弟を……死んだ者を連れ戻そうと必死だ。
「生き返って……ひまりちゃんが笑うなら……それはきっと、幸せなことだと思うんです」
「そう、かもしれない。されど、小春よ。世の中のルールを守らぬ幸せは、一方的に心を満たすためだけの幸せは、違う誰かを踏みにじることになる」
わかりません――そういう小春の目の中で、ひまりを引き留める違う人影が現れた。
「ひまり、――ひまり!!」
「お姉ちゃん……!!」
吹雪が強くなってきた。
生死を司る振り子玉が、猶予を告げている。
「これは、駄目だ!! よみがえりの玉は、使っちゃいけなかったんだ!!」
「お姉ちゃん、お母さんが、そこにいるの!! このままじゃ死んじゃう、おかあさん!!」
痛いほどの心の声で、引き裂かれる運命を否定している。
たとえどんなことであろうとも、親と子が死に別れることは、悲劇と言うには余りある。
小春はただ、見つめていた。何かを得るように、その音を聞いていた。そして心の中で反芻する。――いつでも、思い出せるように。
「行かないで、それならわたしも連れて行ってよ!! 辛いのは嫌だ、痛い、耐えられない!! お母さん、お母さんばっかり、ひどい!! 離してよあかねッ!!」
「ひまり――」
「あの子が、弟が、お母さんを連れて行くんだ!! あの子が、わたしから、私達からお母さんを――」
「ひまりッ!!」
打つ音を聞こえないが、打たれた少女は水面に倒れ込む。
その涙は、この海の量には及ばない。
「まずいな、あのままだと……死ぬか。輝夜、小春を頼めるか」
「いいえ――、その必要はないわ。あたしが行きましょう」
葵の背後から、輝夜の声がした。
小春がふと我に返り振り向くと、輝夜が手に持つ小春のコートを手渡してくる。小春は受け取って、輝夜を見た。輝夜は小春の頬を両手で温めながら、「冷たい」と呟いた。
「小春ちゃん……お仕事、張り切ってくれたんでしょう?」
小春は首をかしげる。それを見下ろして、輝夜は小春を追い越した。
二人の少女が泣いている生死を別つ海原に、その足は何不自由なく進んでいく。
「小春、岸へ行こう」
対して小春は――生の岸辺へ。
小舟とは逆の方向へ。
輝夜はひまりとあかねではなく、その母と小舟に近づいた。
母親も同じように涙を流しながら、傍に近づいて来た輝夜を見上げている。
母親は震える唇を必死に抑え、涙ながらに輝夜に懇願した。
「どうか娘たちを、お救いください……」
「ええ、わかっております、わかっております――」
輝夜の手の中にあるのは、あのよみがえりの玉だ。中の水は随分と少なくなっていて、からからと軽い音が鳴っている。
輝夜は母親に奥へ行かないように、と告げるとひまり達へ近づいた。
「……ひまりちゃん、よね?」
ひまりは涙を拭いながら、輝夜を半ば睨むような瞳だ。
その目の前に、輝夜は珠を差し出した。
「ひまりちゃん、あなたの気持ちはあたしにも痛いわ。だから、教えてあげる。弟さんとお母様が、なぜ、あちらに行かなければならないのか――」
星が流れて、それぞれの頬を照らしている。吹雪はふしぎと和らぎ、この空を大きなスクリーンにするようだ。
誰かの粋な計らいなのか。白蛇が水面を渡って、その水晶に絡み付いた。
輝夜はわかずに驚いたが、それを表情に表さない。
「よみがえりの玉は、使用者に沙汰を下すわ。あなたが、死を生を覆すに値するかどうか。あなたが差し出すモノが、使っていいものかどうかを。ひまりちゃん、あかねちゃん。あなた達はお母様を生き返らせたいのよね? もしその代わりに何かを差し出せと珠が言うなら、何を差し出せるの?」
「わ、わたしの、命でいい!! わたしの命をあげるから、お母さんを返して!!」
何をそこまで、ひまりに言わせているのか。何の過去がそこまで、ひまりに生を諦めさせているのか。
「……死返玉よ。神器の定めに従い、求めに応えるか否か、解を映せ」
よみがえりの玉の審判が、下される。
使用者は、遠山ひまり。求めは死の反転、即ち生。
では、両者の魂が、裏表を変えるに相応しいか、目に映して納得させよう。
命の秤に乗せた時、釣り合うならば――きっとこの宝玉は、願いを叶えてくれる。
天気がわかめすぎて若干グロッキー。
春なら春、冬なら冬! どっちかにしなさい!




