三之二
凍て付く部屋に、血濡れの白無垢。
葵は傍目でうずくまる小春を確認し、ゆっくりと二人の間に入った。正しく言うならば、その白無垢の視界から小春を消すために、身体を盾とした。
その白無垢に、角隠しはない。
血塗れの様相を跡付けるように、全てが乱れた服装の有様だ。当然、髪が整えられているはずがないのだ。ゆらりゆらりと運ばせた風に揺れる前髪があろうとも、その顔まではのぞき見ることは叶わない。
葵は一つ、息を潜めた。
深く吸えば吸うほどに、喉を焼く熱がある。
「……貴女の捜し子は、此処にはいない」
葵は、冷たい声で言い放った。
女からの返答は望めるはずもない。なぜならば、狙いは既に――――。
……ならば仕方のないこと。選べる手段を用いて、小春を守らなければ。
子猫が遅いのだから……不本意だが、逃げるしかなかろう。
「……おい、私の人形はしかと持っているな?」
「……う、ん」
「ならば、先程私が言った言葉は、未だ覚えているな」
「……そばを……」
「そう。それは、私だ。それを離さずに、合図の後にただひたすら奥へ走れ。……よいな」
「あ、おい、さん……?」
「二度は言うまい。ただ奥へ、走れ」
葵は振り返らずにそう言うと、喉が焼切れる痛みを厭わずに大きく息を吸った。
――それは、狼の遠吠えだ、と思った。
小春は、これが合図だと、理解した。
だから、床を死ぬ気で蹴った。バクバクする心臓を歯で押さえ付けて、ただ襖を開け放っていく。
ただ奥へ。言われるがまま奥へ。涙が滲もうとも奥へ。一度棚にぶつかり、床に倒れる。
息が辛い。知らない痛みが身を襲う。手が冷たい。知らない震えが身を襲う。耳が痛い。知らない動きが、顎を小刻みに揺らしている。
誰にも言われてはいないのに、小春は、僅かに、背後を見た。
誰もいないのは当たり前なのに、どうしてか、背後の奥が奥から奥のその奥から、何かが、来ている。
それは、あの女性だろうか? それとも、男性だろうか? それとも、葵だろうか?
葵だったらいい。葵がいい。でも、今は手にある人形が、葵なのだと言うのなら。
――背後から迫るソレは、葵ではない。
奥へ行こう! 走ろう! ただ、ただ走って、走った先に、何があるのかなんて私は考えない!!
だって、雪が、降りこんでいる。この部屋にも、凍土が迫ってきている。なら、逃げなきゃ。アレは多分、いけないものだ。
また一つ、二つ、開けていく。後ろ手に占める尻尾は無く、止まる由縁もない。
部屋が氷室と化す前に、小春はただ逃げていれば――――。
「みゆき」
「ひいいっ!!」
開けた扉の先、血塗れの、赤黒い男の顔が、あった。
小春は畳にかける体重を間違えて、そのまま腰から滑り込む。
男を頭上にして、小春は行く手を失った。
部屋の照明ももはや息をしていない。雪が舞う。背後から、女が来る。
男は小春からは見えない目で、小春を見下ろしているのだろうか。小春にそれはわからない。ただ首の角度がそうなので、見下ろされているのだろうと立てない思考が言う。
たん、たん、と襖が開かれる音がする。これはもう、だめかもしれない。
目の前の男が、腰を曲げて、覗き込んできた――嗚呼、男の爛れた顔から覗く瞳が、小春を、
「触るな暴漢――――ッ!!」
突然飛び込んできた塊は爛れた男を紐のようなもので縛り上げ、塊とは逆のほうに引き倒した。
小春は左から飛び込んできた塊を見上げて、喜びに声を上げた。
「こ、輝夜さん!!」
「寝ちゃってたわごめんね!! ちゃんとご飯作る時間までにはこれからは起こしてくれると嬉しいわ!!」
「輝夜さん!!」
「オッケーあとで抱きしめてあげる!! 今は奥へ! 葵からも言われてるわね!? 走れるわね!?」
「は、はい!!」
「ようし行け!!」
小春は駆け出した――瞳に光をこれでもかと溜めて!
走れ、走れ、奥へ奥へ!!
最後の部屋までいけば、きっと、何かがあるはずだから!!
くるしい、つらい、いたい、――だけど、止まれない!!
逃げ回。基本逃げるが勝ちです。
一之七にて、挿絵を更新しております!
お菊人形、絵師は書くの怖かったらしい、草。




