一
えーん、えーん。泣けずの代わりに辺りも見ない。
ただ立ちすくみ、次の変化を待つ。
幼い私は、どうすればいいかわからずにその往来を見上げている。
ほらきた、新しい変化。右から勢いよくやってくる。
「見つけた!! ごめんね、一人で怖かったよね!」
大きなお母さん。私をひしと抱きしめて、その後に来る変化を待つ。
「…………あんた……どうして……」
えーん、えん。今なら、わかるのになぁ。
「笑ってんのよ」
――目覚ましの音で、彼女は目を開ける。
寝る前と変わらない髪の毛を撫でつけながら、ゆっくりと起き上がり目覚ましを切った。
まだ頭の中で、幼い日の母の声が木霊している。こびり付いている、と言うべきか。
「……雪」
ふと見上げたカーテンの隙間。その向こうに、白い光があった。
不意に手を伸ばして開くと、外がうっすらと雪に覆われている。
彼女は……小春はゆっくりと瞬きをすると、朝食を摂るために自分の部屋を出た。
「おはよう、小春」
「おはよう、お父さん。……お母さんは?」
「今日も起きられないみたいだ。気を付けていってこい」
「……うん」
口角を引き上げて、ペットボトルを数本持ってリビングから出て来た父親との時間をやり過ごした。
父親は小春の前を通り過ぎてある一室に入ろうとしたが、「あ」と声を出して振り返る。
「今日は一段と冷えるから――……」
そう言いかけて、言葉を消した。
小春は「うん、お父さん」と微笑んで、「いっぱいあったかくするね」と朝に相応しい微睡みで応える。
父親は一度逸らした目を戻さずに、「そうしなさい」と言って部屋の中へ行った。
小春はそのままで、リビングの扉を開ける。
朝食が用意してあるテーブルの前の椅子を引いて、時計を一度見て、腰を降ろした。
「……やっちゃった。別の髪留めでいいよね。ええと……今日は一段と冷えるから、コートと、マフラーと、手袋と……耳当て……。うーん……そんなに要るのかなぁ……。ま、持っておいて損はないよね。と、……」
朝食を摂って自室に上がり、学校に行くための服装に着替えていく。
一つ一つ、着るものを声に出しながら厚着をしていく。
「一段と冷える……」
コートやらマフラーやら手袋やらでもこもこになったまま考えること数秒、小春は「ああ!」と手を鳴らして、笑顔で机からカイロを取り出した。
「これで完璧! 今日も一日、笑顔で頑張ろう!」
ぱたぱたと階段を元気よく駆け下りる。
靴を履いて玄関の扉に手を開けて、小春は父親が消えた一室を振り返り、笑顔でこう言った。
「いってきまーす!!」
「けんーけんぱ! あはは!」
まだ湿っている砂利の上に丸を描いて、子ども達が無邪気に飛んだり跳ねたりしている。あの子達にならって傘を畳もうとした小春は、傾けた傘の隙間から舞い込んできた小さな白い花弁を見て息を吐いた。
冷え込んできた。小雨交じりの雪は、もうふわふわになりかけている。
上半分埋まった視野の中の、下に駆け回る子どもたち。
けんけんぱ、けんけんぱと何度も繰り返し笑い合う。
寒さも雨の冷たさも、あの世界にはきっと無いのだろう。ただ全てが終わった時、本来の温度を思い出して震えてしまうのが少し気がかりだ。……ああ、でも、きっと。失った分の温度を与えるのは――――。
「……! いけない、遅刻する!」
小春は制服のポケットから出したスマートフォンの表示時刻を見て駆け出した。しんしんと降りだしたコンクリートの住宅街には、子ども達の無邪気な声と急ぐ小春の足音だけが、静かに木霊している。
よっしゃー! はーじめるぞー!