傷心と温情を味わう百合
〔元和元年 二月二十七日〕
―ゆったりと過ごしていたが、体を動かしたくなったので少しだけ散歩した。
「あぁ~、風が心地いい。」
「ウォンッ」
「心地いいって?ふふっ、散歩して正解だったわね。」
「ワフッ!」
目的地はなく、ただのんびりとし散歩だ。鳥が囀り、どこからか花の香りもする。何の花だろう…そんなことを考えていた。と、前から見知った人が現れた。どくんと心臓がはねた。私の足は震え冷や汗も酷かった。心臓の音がうるさい。その人はちょうど風が強く吹いたため、瞳を瞑り乱れた髪を耳にかけていた。少しずつ後ずさりをした。気づかれぬように…と、目が合ってしまった。
「あ……」
「…っ‼」
私は即座に体の向きを変え、走った。後ろから「待ちなさいよ!」などと聞こえたが、聞こえないふりをした。関わらないほうがいい、きっとそうだ。
「はぁ…はぁ…っ!」
駄目だ、息が…切れてきた。止まりたくなかったが止まらざるを得なかった。
「はぁ…はぁ…ふぅぅ…」
「…やっと、止まったわね…」
「………何か…用なの?」
「別に?ただ、視界に入ったから、声をかけようかと思って。」
「…私と、貴女は…関係ないでしょう。家族の縁を切っているんだから‼」
「そうだったかしら?…けど、ね…あんた元気なだね。」
「…何が知りたいの?…っ、火影…。」
そう、目の目にいるのは私の妹…だと思う。“火影”だ。
濡れ羽色の黒髪は結んでおらず、腰の辺りで毛先が揺れる。一見、たれ目に見えるがつり目である。
「あたしの名前、覚えているんだぁ。嬉しい。」
本当に嬉しいのか分からないが、唇が弧を描くように笑っていた。
「い、嫌でも覚えているわよ、貴女の名前。で、用件は何?私は…散歩したいの。貴女と関わっている暇はないの。」
「ふぅーん、そうなんだ。…ねぇ、あんたって誰か恋仲の殿方でもいらっしゃるの?」
「突然、何?」
「ただ、聞いてみたかっただけ。けど、あんたのその容姿じゃ受け入れてくれる殿方なんていないわよね。ふふふっ。」
「…っ」
一瞬、脳裏に万葉様が浮かび上がった。万葉様は…受け入れてくれているの?よく分からない感情が渦巻きぎゅっと、腕を掴んだ。
「どうしたの?もしかして、思い当たる人でもいるの?」
「…貴女に答える義務はない…。」
「そう。でも…その人、あんたのことどう思っているのかしら?」
「し、知ら…ない」
じわじわと心が痛い。掴んだ腕も痛い。
「ちなみにあたしは、恋仲の殿方がいるわよ。だからあたしは幸せよ。あんたは…偽りの幸せなんじゃないの?」
「っ…‼」
分かっていた。自分は幸せだと、思い込ませていた。こうして突きつけられると、辛いし心が痛い。
「わ…私…は…」
「何をしているんだ、光。」
ぱっと顔をあげれば、万葉様が立っていた。隣に馬を連れていた。
「ちょうど、お前に会いに行くところだった。そうしたら、この現場に立ち会った。…お前は翡翠と恋仲の者だったよな。光とはどういった関係なんだ。」
「…それは…」
「…光、こちらに来い。そしてお前は…立ち去れ。」
「ひっ‼」
万葉様は火影を睨んだ。雰囲気からして怒っている。火影はそそくさと逃げた。
「あ…あの、助けていただき…ありがとうございました。」
「白銀が、教えてくれたのだ。」
「えっ?」
「立ち会ったというより、馬で走っていたら突然、白銀が目の前に現れて一つ吠えた後、駆け出したものだから、ついていってみたらこうだ。」
「だから…あなた、いなかったのね。偉いわ。」
ふとその時、万葉様は空を仰いだ。
「…どうなされたのですか?」
「ん?いや、雨が降りそうだなと思って。」
私も空を仰いでみると灰色の雲に空は覆われていた。
「あらまぁ。今から急いで帰れば、大丈夫かしら?」
「多分…あっ…」
ぽつりぽつりと小雨が降ってきてしまった。
「ここからなら、妖退治屋のほうが近い。光、儂の後ろに乗れ。」
「えっ!し、しかし…」
「お前は、体が弱い!風邪でも引いたらどうする‼」
「…では…」
万葉様が手を貸してくれたので、何とか乗れた。
「儂の腰をしっかり掴んでおけ。」
「はっ、はい…」
「…や‼」
万葉様の掛け声とともに馬が駆け出した。私は、恥ずかしさと本当にこれで良いのか分からぬ気持ちに苛まれた。けど、万葉様の温かい体温がそんな気持ちを解してくれた。しばらくしたら、大きな門の前で止まった。
「大きい…」
「さて、着いたよ。光。」
「えっ⁉ここですか?」
「あぁ。」
あまりに大きなお屋敷だったので呆気にとられた。と、万葉様が羽織っていた羽織を私の頭にふわりとかけた。
「万葉様…?」
「…儂は、別にお前の容姿には疑問を抱いていない。が、突然、銀髪の娘が現れたら使用人達が驚くと思う。故、これを羽織っとけ。」
「あ、ありがとうございます。」
ぎゅっと羽織を掴んだ。…そういえば、さっき使用人がいると言っていたけれどこんな大きなところで妖退治屋というと…人が多いかも知れない。急に不安が募り、思わず万葉様の手を握ってしまった。
「光…?」
「その…わ。私…人が少々怖くて、しかも人が多いところも…苦手でして。だから、あの…手を握ったままでもよろしいでしょうか?」
「…すまなかった。場所、変えるか?雨宿り出来る場所ならいくらでも知っている。」
「いえ…探している間に、雨が酷くなってしまいます。なので…その…ま、万葉様が…側に居てくだされば、大丈夫…です。」
「……そうか…なら、入るぞ。」
門をくぐると、それまた大きなお屋敷が建っていた。
「…わぁ…」
「お帰りなさいませ、当主様。雨が降ってきてしまったので使用人一同、心配でしたよ。」
「すまない。」
「…あの、失礼ながら…そちらの方は?」
「あぁ、この娘は…光だ。それと、白銀だ。」
「ワフッ‼」
「まぁ!あのお嬢様ですか?当主様がよく会いに行かれる!」
「……まぁ…な…」
私は、突然現れた女性に驚き手を握っているどころか腕を抱きしめていた。
「そんなことより、中へ入ってください。濡れてしまいます。」
「あぁ。…光は儂の部屋に連れていく。あと、熱い茶をくれ。」
「畏まりました。」
中に入ると、女性は台所へ向かったのか万葉様とは別の方向へ向かった。私と万葉様は部屋に向かった。
「…光。」
「は、はい。」
「寒くはないか?」
「いえ、大丈夫です。」
「それなら、良かった。」
しばらく歩いているとそれなりに広い部屋に着いた。
「ここは?」
「儂の部屋だ。」
そう言い、万葉様は襖を開けた。積みあがった書物やちらほら巻物が転がっていたが部屋自体は綺麗だった。まさに当主様の部屋だなと思った。
「適当に、座ってゆっくりしてくれ。その内、風雅…と言っても分からぬか。使用人が茶を持ってくるかもしれん。」
「…先ほどの女性は風雅さん、というのですか?」
「そうだ。使用人兼妖退治屋処理班、壱番隊の者だ。」
「…そうなんですか。」
そんな事を話していたら襖の向こうから声がした。風雅さんは長い髪を後ろで束ね、前髪は真ん中で分かれていた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました。」
「あぁ。入ってくれ。」
湯気が揺らめく如何にも暖かそうなお茶がお盆に乗せられていた。
「どうぞ。熱いので、お気をつけてください。」
「あ…ありがとうございます。」
にこりと風雅さんは優しく微笑んだ顔が被っている羽織の間から見えた。
「当主様も。」
「あぁ。ありがとう。」
「…失礼いたしました。」
そう言い、風雅さんは出て行った。
「…もう、人は来ませんか?」
「ん?…あぁ、多分な。」
「では…羽織、ありがとうございました。」
返そうと差し出したとき、少しほつれている部分があった。
「どうした?」
「いえ…ほつれている部分があったので。」
「どこだ?……あぁ、ここか。」
「…裁縫の道具さえあれば…というより、お礼を込めて縫わせて貰えませんか?」
「…光。分かった。裁縫班に聞いてくる。」
「分かりました。」
四半刻もかからず、戻ってきた。
「はい。光。」
「ありがとうございます。」
受け取って、早速作業に取り掛かった。
「…そういえば、まだ雨は強く降りそうだな。しばらくここで雨宿りする必要があるみたいだが、大丈夫か?」
「はい、別に大丈夫ですが…」
「そうか。」
万葉様は何故か、優しく微笑んだ。雨が地面を打つ音、微かに湿った地面の匂いがした。万葉様はまとめなくはならない書物を書いていた。私は、作業が終わった。
「出来ましたよ。万葉様。」
「あぁ。ありがとう、光。」
「このくらいはお安い御用です。」
「このほつれは、裁縫班でも気づかなかっただろうな。」
「他には大丈夫ですか?良かったら縫いますよ。」
「…多分、特にはないと思うぞ。確認してみるか。」
「か、確認なさるくらいなら大丈夫です!あの…聞いて申し訳ありませんでした。」
「いや、儂も何かあったような気がしたんだ。よく忙しいから、裁縫班に頼むのも忘れてしまう場合があってな…あっ、あったあった。」
万葉様が押し入れから取り出したのは深い青…紺色のような色の羽織だった。
「…綺麗な、色ですね。」
「これは妖退治屋の羽織だ。皆の者が持っている。色は、“勝色”だ。」
「勝色、ですか?」
「何事にも負けぬようにな。」
「なるほどです。」
その羽織を受け取り、また作業を始めた。白銀はいつの間にか眠ってしまった。きっと雨音が心地よかったからかも知れない。ふと、私は手を止めて襖で見えないが外のほうに視線を向けた。この雨が止めば、万葉様と離れてしまう。またいつ、会えるか分からない。小声でぽつりと呟いた。
「…雨、止まないでほしいな…」
外に視線を向けていたが、万葉様の背中に視線を向けた。また、同じだ。胸が苦しくなって、頬が熱くなる。胸の鼓動が鳴りやまない。私には、何の感情なのか分からない。
…結局、夜になっても雨は止まなかった。どうしたらいいのか分からず、私はおろおろした。
「光、今日はここに泊まっていけ。雨は降っているし、とっぷりと夜だし。危険だろ。」
「…しかし、ご迷惑では…」
「ここの当主である儂が良いと言っているのだから、泊っていけ。」
「なら…お言葉に甘えて…。」
◆
「珠乃、光が今湯あみをしているから誰も近づかないように、見張っていてはくれないか?あと、何かあっても覗かないでほしいと彼女が言っていた。」
「はい、畏まりましたにゃ。」
使用人の一人を光が湯あみしている部屋の前に門番してもらった。
「光、部屋の前に見張りとして人を置いたから。驚かないようにな。」
「はーい。」
「着替えとかは、大丈夫かにゃ?」
「今、持ってくるよ。」
儂は女性の使用人に寝間着になるものはないか尋ねて周った。
ちょうど、光の身長に合う使用人を見つけ寝間着を借りた。急いで戻り、珠乃に渡した。
「光、珠乃に寝間着を渡したから着替えるときになったら伝えろ。」
「…ちょうど今、欲しいです…」
「分かった。珠乃、渡してやれ。あっ、そうだ。まだ終わっていない書物があったんだ。珠乃、すまんが光を儂の部屋まで連れてきてくれ。」
「了解しましたにゃ!」
◇
「…珠乃さん、で合っているでしょうか?」
「あっているにゃん」
特徴的な語尾で話すその女性はばっさりと髪を切っていて、橙色のような髪色が印象的だった。
「先ほどはありがとうございました。見張っていてくれて。」
「お安い御用にゃんっ。それに当主様のご命令でもあるし。」
「ま、と…当主様にもお礼を言わなくては。」
「光たんがいつも呼んでいる呼び方でいいにゃん。」
「分かり…ました。」
「…落ち着くんかにゃ?羽織を被っていると。」
「えっ⁉あ…えっと…」
「何か事情があるみたいにゃー。…でも、その瞳。とても綺麗だにゃ。」
「………」
一瞬、珠乃さんと目が合ってしまった。驚いた反動で目を逸らしてしまったが、はじめましての人に褒められ嬉しかった。
「今日のっごっはんは、なんだろなぁ~。」
「馨ってば本当に食い意地が張っているんだから。」
「えぇ~。そこは食いしん坊って言ってよ~。」
「食い意地が張っているで十分よ。」
突然、歌声が聞こえたと思ったら、曲がり角から二人の女性が現れた。一人の女性はいかにも元気な人で、もう一人は落ち着いた大人っぽい女性だった。羽織の間からちらりと見えたが歌を口ずさんでいた人は二つ結びでほんのり茶色の髪が印象的で、もう一人の人はおろすと肩の下までありそうな髪を後ろで結び、綺麗な黒髪だった。二つ結びの方が私達に気づいた。
「おぉー‼珠ちゃん!」
「こんばんにゃ」
「…とそちらの紫色の羽織を被った子は?」
「光たんと言いますにゃ。ちょっと訳ありで羽織を被っているみたいにゃ。」
「へぇ~、そうなんだ。かなり華奢な体つきで…ちょっと丸みもあるから…女の子?」
「あたりにゃ。」
「じゃあ、もしかして当主様のところに泊まっている子って…あなた?」
「おう‼あの噂の子ですか~?よく当主様が会いに行っているっていう子‼」
私はただただこくこくと頷いた。もう噂が広がっているんだ…。
「こら!馨。あまりにぐいぐいいくものだから固まっているじゃないっ!」
「えぇ~。…ごめんね~光ちゃん。別に変態でも悪い人でもないからね~。それにほら。同じくらいの身長だし。仲良くなりたいなぁ…って。えへへ。」
確かに悪い人ではなさ…そう。話しても大丈夫だ。
「…話しかけて…くださって、その、嬉しいです…。」
「おっ!喋った‼声、めちゃくちゃ綺麗~。」
「そ、そうでしょうか…?」
と、俯いたその時、鼻腔をくすぐる甘い花の匂いがした。ぱっと顔を上げたらばっちり目があった。
「っ!」
「およっ‼っ!いったーい!うぅ…」
「馬鹿!驚かしてどうするの‼」
「ふえぇ…だからって頭を叩くなんてひど~い…」
「……ふふっ。」
「おっ、光ちゃんが笑った~。」
「あ、あの…ごめんなさい…。お二人って仲が良いんですね。」
「謝らなくていいよ~。笑顔が一番!どんな形であれ、笑ってくれて嬉しい。それと私たちは物凄い仲いいよ!」
「そうかしら。」
「ひどっ‼」
「笑顔…」
「…そういえば、光ちゃんってすっごく綺麗な瞳だね。蒼玉みたい。髪は銀色なんだね。」
「…う、産まれ…つきです。」
「へぇ、そうなんだ。」
「…馨、そろそろ行こう。」
「あっ、待ってよ。躑躅ちゃんっ‼じゃあね、光ちゃん。」
「またね、光ちゃん。」
「あ、はい…。」
馨さんと躑躅さんに手を振って別れた。
「あの二人、いつも一緒にいるにゃ。」
「そう、なんですか。」
「…さて、当主様がお待ちにゃ。行きましょうにゃ。」
「はい。」
ほどなくして部屋に着いた。
「お待たせしましたにゃ、当主様。失礼いたしますにゃ。」
「あぁ、入れ。待ちくたびれたぞ。」
「申し訳ありません…。」
珠乃さんはいつの間にかいなくなっていた。本当に猫みたいな人だ。私自身で襖を開け、入ると同時に羽織を畳んだ。
「万葉様、寝間着ありがとうございました。」
「あぁ。ぴったりで良かった。」
「貸してくださった方にもお礼を言いたいです。」
「それならば、八重だな。」
「では、洗濯したあと案内していただけますか?ちゃんと返したほうがいいと思うので。」
「…八重は、別に返さなくても結構だと言っていたぞ。」
「えっ!しかし…」
「本人が良いと言っているなら、それでいいんじゃないか。」
「…そう、ですね。だけどお礼だけ言いたいです。」
「そっか。それで…どこで道草を食っていたんだ?」
「えっ、えっと…馨さんと躑躅さんという方に出会ってお話してました。」
「あぁ、“花宮 馨”と“早乙女 躑躅”だな。」
「花宮さんと…早乙女さん?」
「そうだ。花宮のほうはかなり親しみやすかっただろ。人と話すことが大好きなんだよ。躑躅も人と話すのが好きだが、花宮よりは消極的だ。親しみやすいことは親しみやすいが、頼れるといったほうが合っているかもしれないな。」
「なるほどです。やはり、当主様ですね。一人一人のことに詳しいですね。」
「覚えるのは大変だったよ。…そういえば、もうじき夕餉だろ。使用人が呼びに来るだろう。」
「それまで、ゆっくりしています。」
「クゥゥン…」
隣で伏せていた白銀を撫でた。なんだか眠そうだった。
「あっ、光。夕餉の時、使用人を追い払うか?さすがに羽織を被ったまま食事は大変だろう。」
私は少し考えた。だけど、ここ人は優しいかもしれない。そう信じたいと思った。
「……いえ、大丈夫です。追い払わなくても。ここの方々、皆さん優しいのできっと何も悪いことは言われないと思います。」
「そうか。怖くなったら、構わず儂の腕を掴んでいいからな。」
「はい。」
半刻くらいたった時、風雅さんが呼びに来てくれた。下ろしていた髪を後ろで結んだ。
「食事をする場所が決まっているのですか?」
「まぁな。儂は、菊の間で。隊員は椿の間で。あとは宴のときや評定のときは梅の間で行うな。」
「…菊の間までどのくらいかかるのですか?」
「すぐ近くだ。ほら、もうすぐ着く。」
風雅さんが止まり、襖を開けた。四半時もかかっていない。“菊の間”と呼ばれるのには納得した。屏風にとても綺麗な菊と虎の絵が描いてあった。
「すごい…」
「さ、光。早速食べよう。冷めてしまう。」
「あっ、すみません。」
図布団に座り、万葉様と同時に手を合した。
「いただきます。」
「い、いただきます。」
品数がとても多く、困惑した。珍しい真っ白なご飯に汁物、焼き物に煮物やお漬物があった。汁物はだしの風味がとても良かった。煮物は味がしっかりと沁み込んでおりご飯とも合った。万葉様は食べるのがとても早かった。私は少し焦ったが、ゆっくり食べればいいと微笑んでくれた。万葉さまが食べ終わって四半時くらいしたらようやく食べきった。食後にお茶を飲んだ。
「どれも大変、美味しかったです。温かいご飯なんて朝しか食べませんし、こんな白くもありません。なので今日は少し贅沢な夜でした。」
「…そうか。」
そう言い、万葉様もお茶を飲んだ。食事を済ましたあと、万葉様は湯あみしてくると言った。
「先に寝ていても構わない。」
「分かりました。さっき通った道を行けば大丈夫ですよね?」
「あぁ。迷わないように気をつけろ。」
「はい。」
菊の間で別れ、部屋に戻った。今日はあまり月が出ておらず、廊下は暗かった。雨はいつの間にか止んでいた。
「おい。」
と、突然後ろから声をかけられた。ぱっと振り返ると人が立っていた。気配もなく、足音もなかった。声をかけられるまで分からなかった。そのお爺さんはさほど長くない髪を雑に高い位置で結っていた。まるで鷹のような薄っすらと橙色の瞳が煌めいた。
「お爺…さん?」
「儂はそんな名ではない。」
「あっ…ごめんなさい。」
そのお爺さんは顎に蓄えられた白い髭を撫でた。
「小僧のとこに泊まっているっていうのは貴様か。」
「はい…光、と…申します。」
「はんっ、なるほどな。」
「はい…」
「そこ退け、小娘。儂はそこを通りたい。」
「えっ、あっ、はい。」
私は襖側に背を向け、通りやすいようにした。
「…再会できたか…」
お爺さんは去り際、何か呟いたが小声だったので何を言っているか分からなかった。
「足音が、本当にしない。忍びか何かかしら?」
疑問を抱いたままだったが、気にせず部屋に戻った。
「白銀、寝ているわ。」
起こさないように額をそっと撫でた。
「…ご飯、食べたかしら?」
と、その時。襖が開いて髪を下した状態の万葉様が現れた。
「っ!」
「まだ、寝ていなかったか。」
「は、はい…。」
「そういえばさっき、東郷さんに会っただろ?」
「えっ?東郷さん?」
「あぁ。妖退治屋唯一、儂の爺さんが当主時代からいる隊士だ。さっき、東郷さんから銀髪娘に会ったと言われたんだ。」
「そうなんですか。」
万葉様は机の前にどかりと座った。近くにあった蝋燭が万葉様の横顔の輪郭をなぞった。整った鼻筋、切れ長の涼やかな瞳、床に届くくらい長い黒い髪。つい、見とれてしまった。と、薄っすらと金色がかった瞳が私を捉えた。
「どうした、光。そんなに儂を見ていても何も出てこぬぞ。」
「っ‼わ、分かっています…。」
「…珍しいよな、髪を下ろしている儂は。」
「そ…そう、ですね。」
「ふっ…。本当に、お前は愛いのう。」
「愛い…って…。わ、私は…可愛くありませんよ。」
「いや、どの女よりお前は一番、愛いぞ。」
「そ、そういうことは、恋仲の方にでも言ってくださいっ‼私なんかに言う、言葉ではありませぬ。」
「恋仲、か…。」
「……私、明日には家に帰るのでそろそろ寝ますよ。」
「そうか…。布団、敷いてやる。」
「えっ!ですが、万葉様は?」
「儂は寝なくても大丈夫だ。それとも、一緒に寝るか?」
「っ!け、結構です!」
「儂は構わないが。」
「私の心臓が危うくなります…」
万葉様はからかいながらも布団を敷いてくれた。枕も用意してくれたが、物音で目覚めた白銀が枕を押しのけ、自ら枕になったのでお腹の辺りを枕代わりにさせてもらった。私は、布団の中に潜り込んだ。そのまま深く眠ってしまった。
◇
「ふぅ…」
光が眠ってから、半刻経った。筆を一旦止めて彼女の穏やかな寝顔を見た。静かに近寄ってそっと頬に触れた。温かく柔らかい。
「……」
先ほどの一連を思い出した。…あれほど全力で否定されるとは…。そっと彼女の手を握った。
「…お前は儂のことをどう思っているのか。」
仕事をしていても何していても…彼女の笑顔が脳裏に浮かび来る。逢える日は少ない。明日は逢える…いや、仕事が立て込んでいる。なら、明日は…そんな日々を繰り返している。逢いたくてもどかしくてたまらない。
「“好き”だと言ってしまえば、お前はずっと傍に居てくれるだろうか…。」
そっと彼女の手を置き、仕事に戻った。…そういえば、お前と会ったのは二年前…か。昔に思いを馳せながらそっと瞼を閉じた。
◇
〔慶長十九年 十月十六日〕
亥の刻、一匹の妖怪退治を依頼され儂も隊員と退治しに行った。大きさは一丈ほど。見た目は獅子のようだ。
「ガアァァアァアァ‼」
「そっちに行った!回り込め‼」
「了解しましたっ‼」
「儂は先回りしとくぞ!」
「はい!」
妖が行くであろう道筋を先に馬で駆けた。と、水の音がしはっと横を見れば滝があり水が流れていた、同時に人影が見えた気がした。
「っ!」
こちらに妖が来るかもしれない、教えなくては。近くに馬を置いてその者のところに急いで行った。
「…い、ない?」
儂が馬を置いている間に移動してしまったのか?いや、考えている暇はない。追いかけなくては。儂はすぐさま馬に乗りその者を探した。半刻、過ぎたあたりだろうか何やら歌が聞こえてきた。その歌を頼りに行くと月が雲で隠れてしまってうまくは見えなかったが、娘であるということは分かった。そして、その娘の膝に頭だけ置いて寝息をたて寝ていたのはあの追いかけていた妖と全く大きさの似た生き物だった。その時、ふわりと風が吹き空が晴れた。月明かりが彼女の輪郭を映した。
「……」
銀髪だった。月の光のおかげかはたまた彼女の元からの素質か、“美しい”と真っ先に思った。それと同時に何故か“懐かしい”と心が叫んだ。懐かしいならば、あの銀髪は覚えているはずだ。だが、思い出せない。娘はただ優しく額を撫でていた。さっきの暴れようが嘘のように落ち着いていた。すると、彼女はこちらに気づき髪を耳にかけながら顔を上げ、儂を見た。
「…あの…どうなされたのですか?」
「えっ…?」
「この子、可愛いですね。さっきまであんなに暴れていたのに突然大人しくなって…驚きました。」
「…それは…」
「当主殿――‼」
その時、隊員の呼ぶ声がした。この状況を見られたら、彼女諸共危ない。すぐに隊員のところに行った。
「当主殿、あの妖どこに行ったのか分からなくなってしまいました。申し訳ありません。」
「途中で見失ってしまい、さっきの気配もすっかりなくなってしまいました。」
さっきと、気配が変わったのか。あの妖…。
「…当主殿、どうしますか?このまま追跡を…」
儂は少し悩んだ。まともな言い訳…。言い訳…。そうだ。
「…あの妖は、儂が退治した。」
「……おぉぉおぉ‼」
「さすが当主殿。」
「先回りして、追いついたのですね。」
本当のことは伏せておこう。当主として、いけないことではあるが。
「お前たちは先に帰ってよい。儂は後から帰る。」
「何か、あるのですか?」
「…特にはないが、少し見回りしてから帰ろうかと。」
「それなら。我々も!」
「大丈夫だ。お前たちは疲れているだろう?早う帰り、しっかり休め。当主命令だ。」
「了解しました。」
ぞろぞろと帰路についてくれた。やはり嘘は苦手だ。急いで彼女の元に向かった。
「ふふっ、元気そうね。良かった。どこにも怪我はなさそうだね。」
「…懐いているのか?」
「あっ、先ほどの…」
「お前、名は何と申す?…儂は、万葉だ。」
「…私は光と申します。」
「光…か。」
彼女の顔を見た後、妖のほうに視線を向けた。何故こんなに落ち着いているのか?さっきと違いすぎる。いや、疑問はそれだけではない。彼女は…妖なのか?人の形をしている妖はいる。だが、彼女からは“妖気”を感じない。
「…気味が悪いですか?」
「っ…。な、何がだ…。」
「私の容姿ですよ。皆さん、気味が悪いと化け物だと言うです。」
そう言いながら彼女は妖を撫でた。
「…この子のこと、“退治”するために追いかけていたんですよね?」
「……何故、分かったんだ…」
「叫び声…怒号でしょうか。それが聞こえたんです。“どこに行ったんだ、退治してやる”って声が。…可哀そうに。」
「可哀…そう。」
「はい。この子にも、帰るべき場所があると思います。…“私と違って”」
「何故、違うと思うのだ。おま…光殿にも帰るところはあるだろ。」
「…私は何もできない無能な農民故、殿なんてつけないでください。」
「…悪かった。」
俯いていた彼女は月をじっと見つめた。
「私は、本当の居場所が分からないのです。今は頂いた家で暮らしていますが、私の居場所ではないと心が言っているんです。だからきっと、あそこは私の帰るべき場所ではないんです。」
「……」
不思議な娘だ、こんな娘は初めて会った。と、彼女は儂のほうへ向いた。瞳と瞳が交わった刹那、時が止まったような感覚になった。
「申し訳ありません、初対面の方にこんな話をして。忘れていただいても結構です。」
「あぁ…」
「…ぐぅぅうぅぅぁぁあぁ…」
妖がやっと身を起こした。
「もう…大丈夫なんですか?」
「がぁあぁぁあぅぅうぅ…」
「…そうですか。どうかお元気で。」
「……」
妖は月夜の夜に駆けていった。彼女は地面に正座したままその妖を見送った。空の彼方に消えたのを確認すると彼女は立ち上がり、着物についた土を払っていた。
「帰るのか?」
「それ以外に、立ち上がる理由はございますか?」
「…ないな。家まで送ってやる。月明かりがあるとはいえ暗いし野盗が出るかも知れん。」
彼女は唇を指でなぞり、少し考えた。
「…なら、お言葉に甘えて。」
「分かった。」
光は何も話さず、淡々と儂の後をついていた。と、思っていたら光が話しかけてきた。
「…貴方は妖を倒す人なんですか?」
「ん?あぁ。妖退治屋の当主だ。」
「当主…。一番偉い方なんですね。いつも戦闘しているのですか?」
「いや。今日は偶々だ。」
「そうなんですか。」
「いつもは、屋敷で書き物をしている。皆の報告をまとめたりと。」
「なるほどです。……そういえば、私…普段こうして人とお話すことがありませんの。近くに話せる人がいないというのも一つの理由ですが、私、人が苦手で怖くて、近寄らないようにしていて。」
「人が…怖いのか。」
「全部、容姿のせいです。私が近寄れば皆、嫌がって逃げます。私は自分が嫌いです。貴方は妖退治屋の方だから、こういうのは妖で見慣れていらっしゃるので普通に接しているんですよね?」
「…確かに光の言う通り、妖で見慣れている。けどな、儂はお前と話すのが楽しいと思っている。まぁ、少ししか話していないが。」
「……可笑しな人ですね。私も、貴方と話しているのが楽しいです。ありのままを話せるので。」
「そうか。」
「それと…貴方の傍にいると、とても安心します。初対面なのに不思議ですね。誇張しすぎかもですが…魂の片割れと再会した気分です。あの…その、兄妹のような感じです…。」
「兄妹か…儂も、妹がいるみたいだ。だが、会ったことはない。会えるかも分からない。…もしかしたらいないのかも知れぬな。」
「妹、ですか?」
「あぁ。」
「…きっと会えますよ。確信はありませんが、必ず。信じてみてください。」
「…そうだな。」
それから四半刻、色々と話した。光の言葉は段々と丸みを帯びてきた気がした。さっきまで警戒していたことが分かった。
「…あっ、着きました。」
「ここか?」
「はい。」
ぽつんと立った茅葺屋根の家だった。ちょうどここは崖みたいで眼下には村があった。
「一応、ここも村の一部らしいです。」
「そうなのか。」
光は、儂の前に出てきて深くお辞儀して顔を上げた。
「……今夜は、とても楽しかったです。その…ありがとうございました。」
「儂も、楽しかった。」
「また、どこかで…会えますか?」
「…あぁ、必ず。約束だ。」
彼女ははっとした顔して、俯いた。胸元で手を重ね、ぎゅっと握った。…まずいこと、言ったか?と、不安に思っていたら彼女はぱっと顔を上げ、儂を見上げた。
「はい、約束です。」
ふんわりと彼女は笑った。今宵が満月で良かった。明るい月明かりが一層彼女を美しく映した。儂もつられて微笑んだ…。
◇
「…ん…っ…」
寝ぼけながら瞼を開けた。瞼を閉じていたがいつの間にか、机に突っ伏し寝ていた。寅の刻だろうか。少し寒い空気が襖の隙間から感じる。ふと、彼女を見た。まだ白銀と共に寝ていた。…そういえば、夢なのかは定かではないがあの時見た、彼女の少し不器用そうな微笑み…どこかで見たような…
「まぁ…気のせいだろう。」
儂は立ち上がり、軽く体を解した。
「さて、刀の練習でもするか。」
…彼女はまだ起きていないし、起きる前に戻れば大丈夫だろ。
(続)