62 持つ者たちに、悪気はないんだろうけど
マサトが手を伸ばし、お盆からアイスティーのグラスを一つ受け取ると、リナの母は、少し前かがみになって、
「とりあえず、ここに置くよ」
我が子二人――リナとタダシ――にも目を向けて、残るグラス二つを、積まれた雑誌の上に置く。
(おお……。意外と、大ざっぱなんですな)
慣れた手つきなので、いつもそうしているのだろう。
お金持ちは、そういうのはちゃんとテーブルに置かないと我慢できない質なのかと思ったが、どうやら偏見だったか。
大ざっぱといえば……。
(おおおっ、ム、ムネが……)
かがんだので、ロングワンピースの首回りが下がり、リナの母の胸元があらわになる。豊かな谷間と、繊細なレースがたっぷり織り込まれたベージュのブラ。
(……っと)
マサトが目をそむける方が、リナの母が体を伸ばすのより一秒早かったので、
(一秒は我慢したんだから、まあ、痛み分けってことで……)
男の勝手な言い分だが、自分の中の罪悪感・良心と、折り合いを付ける。
マサトの「中身」は四十五歳。リナの母は、それより五歳は若いはずだ。
(リナさんのお父さんは、相当な大物なんだろうなあ。何しろ、こんな素敵な女性を妻に出来るんだもんなー)
会ってみたい気もするが、さっき聞いたところ、今日はゴルフだそうである。
リナの母親は、ふと思いついたように、
「――そうだ、リナ、タダシ。二人で、台所からお菓子、持ってきてくれない? 三人分あるから、ちょっと大変なの。お菓子と、あと、お皿は出してあるから、適当に盛り付けてね」
と、姉弟へ頼む。
リナとタダシは、素直に「はーい」などと返事をして、小走りに部屋を出ていく。
「走らないの! ゆっくりね」
二人の背中へ、母親がさらに呼びかける。
二人きりになると、不意に、リナの母は、マサトに顔を近づけてくる。身長は、マサトの方がやや高い。
「――!」
お化粧の香り。
美しく整った顔が、マサトの目の前に来たが、ドキッとする間もなく、
「鈴坂君、リナの座り方を、注意してくれたんですってね。ありがとう」
素早く、用件をささやいてきた。
思いがけない一言に、マサトは驚きつつ、声をひそめて、
「ええっ! ほっ、本人が話したんですか?」
リナの母はうなずいて、
「先週かな。食事の時に、座り方が急にお行儀よくなったから、どうしたのって聞いてみたの。今まで、幾ら注意しても、直らなかったから」
「……で、僕に言われて、と?」
「そう。親より、他人から言われたのが、効いたみたいね。年の近い異性から、というのもあるかも」
(だろうな。反抗期というか、難しいお年頃でもあるだろうし)
マサトは納得したが、黙っておいた。リナの母が、まだ何か言いたそうだったからである。
やはり、ひと呼吸を置いて、次の用件。
形の良い唇が、せわしなく動く。ナチュラルな色合いの口紅が塗られていた。
「……あと、タダシのことも、ありがとう。毎日、パソコンとか楽器に没頭してて、親としては、ちょっと心配してたの。学校のお友達とも、話が合わないみたいで――」
ここで、再び、ドタドタと元気な足音が近づいてきて、リナの母親は話をやめ、マサトから離れた。
姉弟ニ名が、戻ってきたのだ。
「私の夫も、鈴坂君には感謝してるの。ありがとう。それだけ」
リナの母は、早口で付け加え、ウインクをすると、あとは、すました顔で黙った。
(なるほど。僕にこれを言いたくて、お菓子を取りに行かせたわけか)
マサトは合点がいく。できれば、子供二人には聞かれたくなかったのだろう。確かに、微妙な内容だ。
「持ってきたよー」
「お待たせー」
と、タダシ、リナがほぼ同時に部屋へ入ってきた。
タダシは一枚、リナは二枚の皿を持っていた。皿の上には、クッキーやケーキが、ほぼ同量ずつ載せられていた。
どれも、手づかみで気軽に食べられそうだが、よく見れば、一つ一つは繊細で高級そうである。
コンビニやスーパーでは売っていまい。デパートとか、コース料理とかで見かける物に似ている。
親子三人が笑う光景を眺めながら、
「――」
頭の中で、マサトは瞬時に考えをまとめる。
リナの母との、今の「内緒話」から察するに、この度のマサト招待は、既に親も公認ということになる。
リナの勝手な一存ではなく、皆から歓迎されているということだ。もしかすると、最相家の総意と言っても、過言ではないのかもしれない。
(まあ、だからって、それが何だって話だけどな)
いずれにせよ、生活レベルが違い過ぎるため、リナやタダシと対等な友人になれるとは、とても思えないけれど。
ただ、しばらくの間は、余り気を使わずに、最相家と付き合えるのかもしれないと思った。
さて、そのあとは、リナの母は退室し、三人で談笑した。
好きな歌手について語り合ったり、作曲ソフト「ミュージレコ」をタダシが使い、軽く、曲作りをしたりもした。
昼前に、マサトは別れと礼のあいさつを告げ、タワーマンションを去った。
その後、夏にかけて、五回ほど、マサトはこのマンションを訪問し、タダシと交流をした。二人はすぐに打ち解けた。
タダシが作った曲に、マサトが感想を述べる機会も増えていった。
マサトのタイムリープ前の「一回目」の人生で、未来のタダシは「タダイション」名義でヒット曲を連発した。
だが、「一回目」の時、マサトはタダイションの歌にはさほど興味がなかったので、ちゃんと覚えた歌は特になし。だから、タイムパラドックスなどを気にしなくてよく、自由な感想を言えた。
また、出来かけの歌を、マサトが歌って、レコーディングをすることもあった。
時には、作詞作曲の一部に、マサトが参加することも……。
(うーむ)
こうなってくると、気がかりな点は、「歴史改変」とならないか、ということだ。
(タダイションは、本来は、僕と出会わずに、大ヒット曲を出し続けたわけだからなあ)
その才能の純度を、マサトが余計な介入をしたばかりに、汚してはなるまい。マサトと出会ったせいで、タダシの将来を狂わせては申しわけない。日本にとっても損失であろう。
マサトは、そのことを恐れた。
しかし、どうやら、それは杞憂のようだった。
というのは。
やがて、タダシの圧倒的な才能を、思い知ったからだ。
キーボードや作曲ソフトを使いこなして、きれいなメロディーを、どんどん生み出してしまう。アレンジもうまい。また、作詞のセンスもすごい。
小学生の現時点にして、既にそうなのだ。
(結局、僕がいても、いなくても、大勢に影響はないんだな……)
凡人は、天才に、毛先ほどの影響も与えられない。良い影響は当然として、悪い影響すらもだ。
タダシのいるマンションに五回ほど通ってみて、マサトの中に芽生えてきたのは、疲れであった。
タワマンに行くたびに、タダシ・リナの美しい母が、高級な菓子、時には食事でもてなしてくれる。それも含め、毎回、夢のようなひとときではあった。
だが、音楽の才能でも、生活レベルでも、格の違いを見せつけられるのだ。楽しいだけでは済まされない。
ある、夏の日の夕方。
例によって、タワマンのタダシの部屋で遊んだ帰り。
マサトは今回も、お祭りの後のような、むなしい、虚脱した気分であった。
中野駅で、切符を買おうとして、小銭を自販機へ入れたら、取り出し口へチャリンと戻ってきた。
(ちっ! やめろよ、ただでさえモヤモヤした気分なのによ)
イラついて、投入口へ、叩きつけるように小銭をもう一度入れる。
だが、また戻ってくる。
「ああー?」
さすがにおかしい。
「あっ」
よく見ると、それは小銭ではなかった。
「――」
メダルであった。ゲーム用の物だ。
百円玉に似ているので、間違えてしまったのだ。自販機が受け付けないのも、無理はない。
この銀色のメダルには、見覚えがあった。つまみ上げる。人物の横顔のイラスト。
「……」
タイムリープ初日、放課後に商店街でゲームをした時のものである。
一緒にいた、ケイコからもらったのだった。小銭入れにしまいっぱなしにして、すっかり忘れていた。
(おっと、とりあえず、どかないと)
我に返る。
切符売り場で立ち尽くしていては邪魔になるので、お金を出し直して、切符を買う。メダルは、カバンへ押し込んだ。
自動改札を通りながら、マサトは、意外なほど、足取りが軽くなっているのを感じた。
「帰ろう。うん、帰ろう」
自分に言い聞かせるように、つぶやくマサト。
自宅へ、という意味以上に、日常へ、ということだ。
(つかの間のセレブな日々は、もう終わりだ)
都心のタワマンの上層階に入り浸り、未来の天才に対して、アドバイスまがいのことをする日々。
もう、いいじゃないか。十分に遊んだ。夢みたいなひととき。気持ちよかった。
プラットホームで電車を待ちながら、メダルをもう一度取り出す。
チープな作りだが、傾いた夏の陽光に、まぶしく輝いている。
(タワマンの銀色なんて)
このメダルが、マサトを呼び戻してくれた。
あの日、
「やったあ!」
メダルを当てて飛び跳ねる、セーラー服のケイコが、まぶたに浮かぶ。
そこへ、二重映しのように、向こうから黄色い電車が入ってくる。
「ああ……」
むしょうに、ケイコに会いたくなった。
八月初旬。いつしか、「二回目」の中三夏休みも、半分が過ぎようとしていた。
【続く】
優秀な方々が、そうでない人たちの素朴さに癒やされることも、あるんでしょうけど。
都合よく「素朴さ」を消費されてる側だって、結構傷ついてるんですよ、ということですよね。あのね、別に好きで素朴なわけじゃないのよ。
「ピカデリーサーカス」のメダル。
執筆時点から、後々の伏線として考えていました。
謙虚さを忘れて暴走しかけたマサトを、戒めるアイテムとして。
おおむね、想定どおりの伏線回収が果たせたと思います。




