58 リナ ――トカゲショーツとジャズ
六月の初め。夜。
秋月塾にて。
その日も、座卓の向かいのリナは、例題の計算を途中で間違えたのか、開いたノートをゴシゴシと消しゴムでこすり、
「あーあっ。フー……」
イラ立ったように鼻息を吹きつつ、垂れた前髪を指でかき上げ、右の片膝を立てる。
(ぐっ……!)
マサトの心がかき乱される。
濃紺とグレーの、タータンチェックのスカートがペロリとめくれて、中に履いた下着がのぞける。湿度が高いせいか、色白の太ももの裏が、少し汗ばんでいた。膝から下は非常に細くて、棒のようだ。
ショーツの二重底のきわどい部分は、机の脚に隠れており、罪悪感は薄い。
(へえー。イチゴ柄のパンツって、本当にあるんだなあ)
妙なところに感心してしまう。
とはいえ、もし、今、「一回目」の現役の中学生であったなら、
(無駄に興奮して、とても勉強どころじゃなかっただろうな……)
と思う。
幸い、あの頃の強烈な性衝動は、戻ってきていない。
味覚などと同様、性欲も、「中身」の四十代のままであった。
タイムリープ前でも、職場にて、若い女性部下の下着がスーツに透けていたり、胸元がブラウスからのぞけていたりという事態は、時々あった。男として、一切見ないというのは、不可能である。つい、目線が行ってしまうことはあった。
が、それはそれとして、一応、仕事には集中できていた。要は、十代・二十代の頃に比べれば、マサトの性欲もだいぶ衰えていたのだ。
衰えと同時に、性的関心を満たすことと、社会的地位を守ることとの、折り合いの付け方を学んだとも言える。
なので、リナの下着見えの件も、放っておけばいいようにも思えた。
別に、塾の間じゅう、ずっと見えてるというわけでもないのだ。脚を動かした際に、時たま露出する程度で、長くても一分ずつぐらい。
ただ、毎度、つい見てしまうし、気が散るのも確かである。
何より、「中身」は四十代中年男の自分が、塾に来るたびに、現役女子中学生のパンツを盗み見ているというのは、そもそも、人としてどうなのだという問題がある。
次の塾の時は、リナは、黒い地に白抜き水玉のショーツであった。
しかも、
(何だ、あれは……)
腰の横辺りには、トカゲらしき小動物が、おどけて舌を出しているイラスト。コミカルである。
どうやら、トカゲの細長い尻尾が、グルリとリナのお尻へ回り込んでいるというデザインのようだ。
(まあ、面白いし、かわいいプリントだけどよ……)
こんな子供っぽい下着を、疑問も違和感もなく履けるほどに、リナはまだ幼いお年頃だということである。
(のん気に鑑賞してる場合じゃねえわな。一言、注意しなきゃ駄目だよな)
それが、「大人」としての務めであろう。
ただ、言葉を慎重に選ばないと、今後の塾で、互いに気まずくなってしまう。
(今はまだ1990年代だから、パンツ見えてることを指摘したぐらいでは、多分セクハラで訴えられる心配はないだろうけど……。話をどうやって切り出そうかな。難しいな)
リナの通っている女子校は、マサトの中学より相当レベルが高い。ゆえに、リナも頭が良いはずで、遠回しに注意すれば、察してくれる気もする。
一方、頭がいいだけに、プライドも高く、怒り出す可能性もある。
(うーん……)
いろいろと迷っていたら、その日の帰りは、マサト、リナの二人で、一緒に電車に乗る流れとなった。出るタイミングや、生徒が夜道でバラける順序で、偶然そうなったのだ。
一緒に帰るのは、これで三回目である。
マサトは回数券、リナは定期券で改札を入る。上りエスカレーターで、プラットホームへ。
やがて、全面、黄色い電車が入ってくる。
(黄色い電車、何回乗っても懐かしいぜ)
しんみりするマサト。
約「十年後」には順次、入れ替わり、「銀色に、黄色いライン」の車体へモデルチェンジすることになるのだ。
車内では、数名が立っており、空席もポツポツ目についたけれど、二人はドア付近に立った。
乗客は、背広姿の男性が多い。
当たり前だが、この時代にはスマホはおろか、まだ携帯電話も普及していない。起きている者は皆、漫画雑誌かスポーツ新聞を広げている。一名、電子手帳を操作中の女性もいた。
制服姿の学生は、周囲ではリナだけだ。マサトは、トレーナーとジーンズ。
車窓を、ガタンゴトンと、夜景が横へ流れてゆく。銀色の、千葉ポートタワーが見えた。
右方向の奥に、工場の点滅と、小さなビル明かりが光っている。幕張方面であろうか。
「ほっ、と!」
少々ふざけたように両腕を上げ、リナは吊り革につかまる。
羽織った黒いブレザーの上着が、腕に引っ張られ、白いブラウスの腹が見えた。
短いスカートの裾は、宙に固まるように揺れ、電車の床で、ふわっと影も踊った。
リナの体格は小柄で、どうにか背伸びをせずにつかまれる程度だ。
マサトは、座席端の手すりを握る。
帰り道は、塾を出発してからここまで、二人は音楽の話題で盛り上がっていた。その続きが始まる。
「じゃあ、鈴坂先輩は、ジャズも聴くんですね」
リナの声は高く、かすかにキンッと響く感じだ。とても「ギャルしてる」と思う。
「ああ、聴くよ。有名どころでは、ジョン・コルトレーンとかソニー・ロリンズとか」
「私と一歳違いなのに、すごーい。っていうか、渋いっスね」
「まあ、中学生には渋いかもな」
と答えつつ、マサトは苦笑する。
本当は、タイムリープしてくる前、「三十代」の頃によくジャズを聴いていた。その知識を使っているだけだが。
リナは、
「他に、余り有名じゃないジャズで、おすすめとかって、あります?」
「有名じゃない、って、ジャズファン以外では、ということだよね?」
「はい」
「んー。日本だと山下洋輔かな。クラシックみたいに、一人で長時間、ピアノ弾いてるのとかあるし。あとは、ウィントン・マルサリス」
「ウィントン?」
「マルサリス。アメリカのトランペット奏者。スタンダードナンバーを、独自の解釈で演奏したりね」
「へえー」
吊り革から腕を下ろしたリナは、足もとのカバンからノートを取り出す。
続いて、列車の揺れに、足を踏ん張ってバランスを取りながら、メモをする。
このように、リナは、マサトが紹介したミュージシャンをメモに取り、しかも、後日ちゃんと聴いているようなのだ。レンタルCD店などを利用して。
今まで、ロックなどの名盤をすすめた時が、そうだった。
うれしいことだし、教え甲斐もあるというものだ。
リナがノートをしまった後、会話が途切れたので、例の話に入ってみることにした。
(慎重に行くぞ。もし、本題に入る前に駅に着いちゃったら、次回に言えばいいんだし。無理せず、慌てるな)
まず、マサトは上着から褒める。
「……ブレザー、カッコいいよね。その金色のワッペン、いかにも名門校って感じで」
リナが羽織るブレザーの、左の胸ポケット付近には、校章をあしらった刺しゅうがあった。黒地に金色。有名私立校の、威厳が伝わってくる。
「カッコいいですかねー? あんま、考えたことないかも」
リナの笑顔もあいまいで、受け流すような返事だった。
「黒のブレザーって、珍しいよね」
「よく言われます」
「お手入れが大変そうだけど」
「どうして?」
キョトンとした反応。
(あっ、分からないんだ? やっぱり子供なんだなー)
妙に新鮮だった。マサトは、それを説明する。
「汚れが目立つから。ちょっとほこりが付いただけでも分かっちゃう。真っ黒い服と、あと、反対の真っ白い服は、おしゃれ上級者向けとされてるんだよ」
「なるほど。んーと……ゴミ、あんま付いてないな。実は、お母さんが取ってくれてんのかなー」
リナは、左肩を軽くはらう仕草をした。
「そうかもね。――スカートは、僕の中学の女子より、ちょっと短い感じ」
できるだけ、さらっと話題を移したら、
「アハハッ、これね、放課後に短くしてるの。腰のところで、巻き巻きするんです」
両手で吊り革につかまったまま、自分のスカートを見下ろし、リナの笑顔が弾けた。
(意図を、変なふうに取られなくてよかった)
ヒヤヒヤしていたマサトの、緊張が少し解けたのだった。
もっとも、今から、核心の「変な話」に入ることになるわけだが……。
【続く】
作者は、山下洋輔の「Pacific crossing」というアルバムが好きで、小説本文でも紹介するつもりでした。
ところが、発表は2003年。物語中の時代には、まだ出ていなかったんです。残念。
ウィントン・マルサリスに至っては、昨年の世界文化賞受賞で初めて知り、まだ聴き始めたばかり。
マサトの方が詳しいのです(笑)。




