37 ハナエ ――かつてマドンナ 一歩向こうへ
ハナエは、クラスどころか、学年でも知られた美人であった。
タイムリープする前の、「一回目」の中学校生活では、遠い存在であった。
マサトは、授業中や放課後、いつも目で追っていただけ。会話を交わしたのも、数回しか記憶にない。
まして、ハナエから名前を呼ばれたことなど、たしか、なかったはずだ。
今、呼び止めてくれたのは、ほんの気まぐれであろう。
朝の放送でアドリブをするという、「ちょっと面白いこと」をやって目立ったので、たまたま、マサトに興味が向いたということなのだろう。
普段、そんなにしゃべらないクラスメイトにも、気さくに話しかけることが出来る。さすが、美少女の余裕と貫禄だと思う。
しかし。
感激とは裏腹に。
「……ああ、平気平気。いきなり声かけられたから、ちょっと驚いただけ」
ほとんど、無意識に言葉が出てきた。マサトの口から、スルッと。
「あっ、そう? ごめん……なんか」
そのように答えたハナエは、平然を装っていたが、宝石のような瞳がピクッと見開いたのを、マサトは見逃さなかった。
(おっ、困惑してるね、ハナエさん)
恐らく、マサトがもっと、照れた反応をして、うつむいてぼそぼそ話すとでも思っていたのだろう。
実際、タイムリープ前の「一回目」では、うぶなマサトは、ハナエと、目さえまともに合わせられなかったのだ。
心の中で、マサトは得意になった。
(フフン。中学生の小娘が、今や百戦錬磨の中年男性の僕に、かなうわけがないのにな。僕を手玉に取ろうなんざ、十年早いよ)
これは、うぬぼれでも強がりでもなく、真理であろう。
こうして、ハナエを近くで見ても、「子供がそばに立ってる」としか思わないのだ。最初こそ、懐かしさや切なさが込み上げたものの、すぐ散ってしまった。あっけないものだ。
恋愛感情も、もはや復活しそうにない。
仮に、今からハナエとデートなどができたとしても、さほど楽しめないはずだ。
理由は明白である。
幾ら、マサトの外見や体が中学生でも、「中身」は四十代だからだ。
例えば、ハナエと一緒に街などを歩いても、「本当は中年男の僕が、中学生少女を連れ歩いてる。犯罪だ」という自己嫌悪・罪悪感に、常にさいなまれるわけだ。とても、耐えられるとは思えない。
そもそも、マサト自身、「少女と、禁断の恋」のようなファンタジーに憧れているわけでもない。
タイムリープ前、主に「三十代」の頃に、いわゆる婚活もしたけれど、相手は同世代の女性ばかりであったし。それどころか、年上女性もいたのだ。
もう一つ、大きなポイントがある。
それは、タイムリープしてきた「今」のマサトにとって、果たしてハナエがそこまで美人か、という疑問である。
「一回目」の時は、まだマサトは十五年しか生きておらず、ハナエは文句なしに人生最高の美女であった。
だが、「その後」の人生で、学校、職場、芸能人のイベント等で、マサトは多くの美しい女性を見てきた。
その女性たちの中で、ハナエを圧倒する美人がいたとは、思わない。
ただし、ハナエが断トツだったとも、やはり、思わないのだ。
「気にしないで。伊東さんが反応してくれてうれしかったよ。ほら、放送部って地味だからさあ。色々やっても、誰も気づいてくれないのよな。わざわざ、ありがとな」
おじさんが少女を優しく諭すような(というか、実際、そうなのだが、)口調で、マサトは述べた。
ハナエは、またも戸惑ったのか、「ん……」としか言わなかった。かろうじて、まだ微笑は浮かべていたが。
ハナエを廊下に残し、きびすを返すマサト。
教室の後ろのドアは、もう、開放されていた。
走って、中へ入る。
授業の用意をしている、学ランとセーラー服の背中たち。急いで、ざわつきの中から、ケイコを探す。
一時限目のチャイムが鳴る前に、ケイコにだけは、今すぐお礼を言っておきたかったからだ。
(――いた!)
あの、おかっぱ頭だ。
「井崎さん!」
マサトが呼ぶと、ケイコが振り返る。
「なにー? ああ、放送終わったんだ? 最初、高屋君だったけど」
「うん。けど間に合った」
「よかったね。御苦労さまー」
明るく笑って、ケイコはのんびりした口調。
マサトは、ケイコの席へもう少し近づき、小声で、
「本当、ありがとう。カバンとかも、助かった」
ケイコは、椅子から少し立ち上がり、中腰で頭をペコリと下げ、
「そんな、どういたしまして」
ちょっとわざとらしく、ささやいて改まる。
思わず顔を見合わせ、同時に吹き出す二人。
重なる笑い声へ、一限のチャイムも重なった。
【続く】
本稿を執筆中、職場関係のパーティーがありました。
以前、定年退職された元上司が、社会的な栄誉を受け、それを祝う会。
私は、昔みたいに談笑しようとしたのですが、残念ながら、余り盛り上がらなかった。
その時、ああ、もう、かつての人間関係に何かを期待してはいけないのかもなと思ったのでした。
私は遠距離通勤をしており、この小説を通勤電車でも書いています。
平日の職場でのことが、物語の行方にかなり影響します。
ハナエをドライに廊下へ置き去りにしたマサトは、そのまま、このパーティー帰りの私だと思います。




