34 悪意は引いたり満ちたり
マサトが内線電話を切った後、横にいた高屋は、お礼などを述べてから、
「じゃあ、俺は先に、三Cに帰ってるね。まだ、掃除やってるだろうし」
と告げて、放送室を去った。三Cとは、三年C組の教室のことである。
去り際、マサトが、
「もし、野村先生とかに怒られたら、鈴坂にそそのかされたって言ってくれて構わないからね」
と気遣うと、高屋は、
「スーさん、何言ってるんだよ。俺だって面白がってたし、共犯だろ。そこそこ怒られることぐらい、想定してたよ。気にしないで」
逆に、諭されてしまったのだった。
一人、放送室に残ったマサトは、しばし考え込む。
校内には、マサトがかけたCDが流れ続けている。今は、ショパンのピアノ曲である。たしか、愛のバラードとかなんとか、そういう題名だった。
「――」
ケイコ、佐倉先生、そして、今の高屋。
三人とも、マサトの思惑を超えた優しさを、まっすぐに示してくれた。いい奴らだ。
三連続で、
(やられたなあ)
というのが、偽りなき感想であった。少し、打ちのめされていた。
「あんまり、上から目線も良くねえか」
今度は、声に出した。
自分の「中身」は四十代中年であり、人生経験では、周囲を圧倒している。
担任は十歳ほど年下だし、まして、クラスメイトに至っては、三十歳も下だ。その気になれば、ある程度までは相手をコントロールすることも可能か、などと考えてもいたけれど。
(いやはや、とんだ誤算、というより、油断・思い上がりだったらしいな)
マサトは反省する。
青春時代の、みずみずしい感性が失われている分、もしかすると、マサトの方が不利な局面すら、ないとは言えぬ。
(初心を忘れちゃイカンな。……っていうか、初心も何も、まだタイムリープ初日だけど。それどころか、リープしてまだ二時間半しか経ってないけど)
マサトは苦笑した。
掃除の時間が終わったら、CDを止めて、操作卓の電源を落とし、放送室の消灯。
施錠を済ませたら、鍵を職員室へ返却しに行く。職員室の場所は、分かりやすいので覚えていた。放送室そばの階段を上がって、すぐのところである。二階。
中へ入ると、小柄な女性教師が近づいてきた。
(ゲッ、溝岩だ!)
波打った黒い長髪、鋭い目。気分屋で、気性の激しい国語教師だ。「一回目」の中学校生活でも、特に苦手な先生だった。
「おい鈴坂、何だよ、さっきの放送は。ふざけたこと、やってるんじゃねえぞ」
溝岩の、ドスの効いた声。
(おお、怖い怖い。タイムリープ前の『現代』だったら、パワハラで、即、SNSでさらされてただろうなあ)
恐らく、「その後」は、世の中にネットが本格的に普及する前に、定年退職をしているはずである。
心の中で、マサトは嘲笑する。
(いい時代だったんだなあ。こういう汚い言葉づかいが許される甘い世界で、ずっと女王様を気取れたってわけか。この世間知らずめ。きっと、民間で働いたことも、一度もないんだろうしなー)
さっき、「上から目線や思い上がりは、やめよう」と反省したばかりだというのに、早くも、ドロドロした選民的・差別的な意識がもたげ、マサトの中に湧き上がる。
それを自覚しながらも、
(相手は、あの溝岩だし。まあ、仕方ねえやな。幾ら、体が十五歳でもさ。心までは、戻らねえよ)
この醜い感情が、口もとに出ていたのだろうか。
「何、笑ってんだよ」
溝岩が、さらに詰め寄ってくる。身長はマサトより、頭一つ分、低い。赤系の、パンツスーツ。
この時の溝岩の年齢は、恐らく佐倉と変わらないくらいの、三十代の半ばか、後半であろう。
顔に塗られた化粧の匂いが、プンと鼻をついた。
【続く】




