狼の時空
狼の時空
1
福は、崖の上の猫の額ほどの平地に、渓谷を背にして立っていた。
崖下は深い緑色をした川が、滔々と流れている。
目の前には、絶滅した筈のニホンオオカミが・・・居た。
ここは徳島、二億年の時を隔てて吉野川の激流が削った大歩危(おおぼけ)渓谷。
福はどうしても、中学の時に家出してたどり着いた吉野川に行きたくなり、矢も盾もたまらず、夜中にヤマハXJ750を駆って家を飛び出したのである。
バイクは快調に走り、夜明けには大分港に着き、フェリーで愛媛の八幡浜に着いた。
四国の、国道とは名ばかりの曲がりくねった危険な山道を走り、ここに着いたのはもう日も暮れかかる頃だった。
なぜこんな事になったのか、全く分からない。バイクのエンジンを切ったら目の前に奴が居たのである。
「しっ、しっ、あっちへ行け」福は後退さりながら狼に言った。「俺なんか食っても旨くはないぞ」
しかし、狼はゆっくりと間合いを詰めてくる。福は反射的に入身の構えを取った。
狼の動きが止まった。頭を下げて明らかに警戒している。狼の特徴である額から鼻先にかけての曲線がはっきりと見えた。
刹那、狼が強靭な後肢で地を蹴った。福は、狼を抱いたまま崖から落ちた・・・
2
目が醒めると大きな小屋の中だった。囲炉裏の横に敷いた筵に寝かされて居た。
「目が覚めた?」
女の人の声が聞こえた。
躰を起こすと天井が回った。頭に晒しが巻いてあるのが分かる。
「まだ起きちゃダメ、きっと川底の石で頭を打ったのね」
「ここは?」
「妙心部落、吉野川の中流の五戸だけの集落よ。あなた、上流から流されて来たのよ、一体何があったの?」
「う〜ん」僕は必死で思い出そうとしたが、記憶が溶けた鉛のようにドロドロで、上手く形が定まらない。「ダメだ、思い出せない」
「じゃあ、名前は?」
「・・・」
「何も覚えてないの?」
「はあ、すみません・・・」
「別にすまなくはないけど・・・でも、困ったわね、送り届けるにも家がわからないんじゃどうしようもないわ」
「すみません」僕はもう一度謝った。
「良いわよ、思い出すまでここに居なさい」
女の人が僕の顔を覗き込んだ。若い綺麗な人だった。ただ、切れ長の眼が意志の強さを物語っている。
「私はヒメ、この部落の長老の孫。もうすぐお爺ちゃんも帰って来るわ」
「あれ!」僕は驚いた。
「どうしたの、私の顔に何かついてる?」
「い、いえ、その着物・・・」
赤い着物がとても似合っているのだが、今時そんな格好で生活している人がいるのだろうか?
それに、髪型が変だ。古風な形に結ってある。
「着物がどうかした?そういえば、あなたの着ていた物って変わってるわね。あんな細い袴、動きにくくない?それにあの黒い筒袖は何の獣の皮で出来てるの、どうやったらあんなに綺麗に鞣(なめ)せるのかなぁ?」
僕は、Gパンに皮のジャンバーを着ていたのだ。袴?筒袖?僕は訳がわからなくなって来た。
無理をして上体を起こし、自分の姿を見てみると土色の麻の単衣を着ていた。少し小さい。
「ごめんね、そんな着物しか無かったの、だってお爺ちゃんのお古ですもの」
その時、小屋の扉がガラリと開いた。
「今、帰った」
土間の敷居を跨いで、小柄なお爺さんが入って来た。
「お、気がついたか。もう三日も眠っておったからな、心配したぞ」お爺さんが言った。
お爺さんは、時代劇に出てくるお百姓さんみたいな野良着を着て、肩に鍬を担いでいた。
頭に小さな髷が乗っている。背負った籠には大根が数本入っていた。
「良い大根が採れた、その若者に大根粥でも作って食わせてやれ。元気になるぞ」
籠を土間に下ろしながらお爺さんが言った。
「は〜い」ヒメが身軽に土間に降りて籠から一番大きな大根を取り上げた。
「あの人、何も覚えていないんだって」
「ほう」代わりにお爺さんが囲炉裏の向かい側に座った。
「儂はムモン、お主自分の名も忘れたのか?」
「は・・・はい」
「そうか、ま、ゆっくりして行け。焦ってもどうなるものでも無い」
「あ、有難うございます」
僕は一瞬既視感に囚われた、どこかでこのお爺さんとは会ったことがある。でも、どこだったか思い出す事は出来なかった。
「今夜、みんな集まるわよ」ヒメが言った。
「うむ、そろそろじゃからな」
「ええ、今度こそ決着をつけなきゃ」
「分かっておる、最終決戦じゃ」ムモンがどこか嬉しそうに呟いた。