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とりとめのない小話シリーズ

少年心と棒

作者: K.タロー

 職場からの帰り道、目の前に一本の棒が落ちている、私は男性である、齢は伏せるがまあそれなりの年である。


棒はごくごく普通の道に落ちている。そして私はなぜかその棒を前にして立ち止まっている。


ただの棒である、長さは30センチほどの木の棒である。しかし、そんな棒に私は惹かれている。思わず拾いたくなっている。ただの棒にもかかわらずだ。


なぜ拾いたいのか、この棒は男心、いや少年心をくすぐっているのだろう。

おそらく拾えば私は振り回してみる、投げてみるといろいろ遊ぶことだろう。それなりの齢の者が行うこととは到底思えない。


 話しはそれるが童心に帰るという言葉がある。意味は幼児期や学童期のころの子どものような純粋な気持ちを思い出す事、または子どものように無邪気にはしゃぐことだとする場合がほとんどだろう。


 再び話を戻そう。仮に、もし仮にこの棒を拾ったとして私は棒を振り回して遊ぶことは間違いない、しかし私はそれを純粋に楽しめるだろうか。

いや、確実に羞恥の心を持つはずだ。だがこのまま棒を拾わずに歩き去ろうとするならば悔やみのないような心持で去れるだろうか。これもまた、難しい。


ここで童心に帰るという言葉をなぜ思い返したのかといえば、この時棒に心惹かれる心境はこの童心こそを求めていたからに違いない。


今の私が思う童心とは無邪気に遊ぶことを楽しむ事でなく、それを行うことで回りがどう思うかを気にする必要のない心なのだと思った。

それに気づいた途端私は、童心という心がもっと遠いところに行ってしまったのだと思えた。


 私はそこまでの考えに至った後、棒を拾った。

振り回したい気持ちは当然あったが振り回すことはせずに、ここに棒が落ちていては邪魔になってしまう、とでも言いたい顔を作りながら道の端によって行く。

その間に申し訳程度に手首を動かし棒を振り満足することにした。道の端へ行けば当然棒を捨てて立ち去る。


 男は年をとっても子どものままであるというような言葉を聞いたことがあったがまさにそれが私の棒への憧憬なのかもしれないと思えた。

 童心を忘れ、しかし少年心を忘れない男はそのようなことを思い帰路に戻る。帰れば温かい食事が待っていることだろう。

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