㊺
8月18日、前日に続き猛暑日を記録する事になるその日の午前の記憶はぼんやりしている。エアコンの効いた部屋でジュースを飲みながら暑さを凌いでいるだけだったような気がするが、ぼっーとしていたせいか母に二言三言何か言われたかも知れない。時折朝方スマホに打ち込んだ文章、ところどころ語句の使用を間違っている文面を読み返して矛盾は感じないもののこうして浴びせられている『現実感』とは質が異なる話なので実感はそれほど感じなくなっている。そもそも夢の中で聞いた話をそのまま現実で実行するという判断は、状況が状況なら『危うさ』を秘めているし、まだ自分の中で実行に移すか迷いが生じている。
それでも条件を揃えるのが容易な性質であった為であろうか、競馬中継でそこそこ大きな札幌のレースを見終わって気持ちが盛り上がってきたのも手伝い、メモの内容はともかく『お盆休みの最後』に外に出掛けてみたくなった。夕食後に出掛ける準備をしていると、
「え…?これから出掛けるの?」
と父が不思議そうに訊ねる。
「うん。まあ夕涼みにお城山行きたいなって思って」
「ふーん」
まさか例の話を説明するわけにもゆかないし「すぐ帰ってくるよ」と言って、今にも暮れようとしている安達太良山の青白い空に見送られながら車を発進させた。最初に向かった先はマリアさんのアパート。停車してアパートに向かい、チャイムを鳴らすと在宅だったらしくすぐにマリアさんが現れた。
「どうしたの?タクマくん」
「マリアさん仕事お疲れ様です。実はちょっと付き合って欲しい場所がありまして」
やや意味深なトーンで伝えたからなのか、すぐに何かを察して「分かりました、今用意します」と返事してくれた。やはり外はまだ暑く、熱帯夜になるだろうけれど日中に比べれば全然快適で、むしろこの季節はこの時間に出掛けた方が都合の良い時もあると感じる。準備の整ったマリアさんとそのまま車である場所に向かう。雰囲気が出るようにFMのラジオを付けていたけれど、
「夜に出掛けるのもいいですね」
とマリアさんも満更でもなさそう。だが私の口数が少ないのと行き先を察してか不思議そうに、
「あれ?今日もお城山に行くんですか?」
と訊ねてきた。
「夏の思い出作りをしたかったんです」
実はそれ以外にも理由があった事をここでは伏せて、とりあえずマリアさんを伴ってある場所まで行くのが今日の目的だったのだ。時間帯的に車も停まっていないお城山の駐車場は薄暗いものの、月明かりと上々の奥のライトで幻想的とも言える雰囲気。
「なかなか素敵ですね!」
「ちょっと二人で散歩しましょう。昨日はゆっくり回れなかったですし」
「そうですね」
マリアさんはダイアリーの事はそれほど気にしているようには見られない。自分もそうであるが一晩眠ると心境が切り替わっているものである。それでもやはり、
「ほんとうに不思議でしたね」
としみじみ語るマリアさんに対して、『実はこれからもっと凄い事が起こるかも知れない』と伝えていたとしたらどんな風に反応しただろうか。マリアさんに悟られないようにはしていたが、『現場』が近付くにつれ胸の高鳴りは隠せなくなる。城内の開けた場所である『三の丸跡』と呼ばれる所にやって来て敢えてその中心付近で歩みを緩めてゆく。マリアさんもそれに足並みを揃えていたので二人で立ち止まる事になり、不思議そうにこちらを見つめている。
<さあ…どうだ?>
「どうしたんですか?タクマくん」
マリアさんに訊ねられた後も辺りを凝視しながら耳を澄ませる事に集中していた私。やや時間が経って、<やっぱりダメなのか>と諦めかけ始めていたその時、
サクッ
私達が立っている場所の後方、少し離れているで何か『物』が落ちる音が聞こえる。『三の丸跡』は下が砂利が敷き詰められている場所なので音はハッキリしていた。
「何の音ですか?」
何事かと振り返るマリアさん、次の瞬間悲鳴にも近い声を上げた。
「えぇーーーーどうしてここにダイアリーがあるんですか!?」
「おお!!成功したんだな!!マイケルさん!!」
ここで説明すると夢の中で最後にマイケル氏は私に向かってある『計画』を語ったのである。
『明日、適当な時間…できれば人気のない『夜』がいいかも知れませんね。お城山の開けている場所にそちらの世界のマリアさんを連れてきてください。所有者が対象…このダイアリーに向ける念を辿ればダイアリー自体を転送する事が出来ると思います』
何故その場所でないとダメなのかと訊ねようとしたけれどその時は聞きそびれてしまった。ただマイケル氏の話を自分なりに分析すると、この場所なら多少『座標』がズレても近くに落ちれば他に何も無いので容易に分かるし、恐らくは消失した場所から近いという理由もあるのかも知れない。実際、池の付近に戻していたら運が悪ければ水の中に落ちて回収不能になっていたかも知れない。
「本当に…パラレルワールドは存在するんだ!」
事情をほぼ全て知っている私は一人で狂喜乱舞する。マリアさんの『夢』の話もこれで説明がつくし、何よりマリアさんの大切なダイアリーが理論通り戻ってきたことが嬉しい。ただ…
「タクマくん!」
マリアさんが何故か怒っている。理由を聞いてすぐ納得。
「わたしにちゃんと説明して下さい!」
ご尤も。『現場』から正面の入り口に向けて本当にゆっくりゆっくりと歩きながら、昨晩見た『夢』というかパラレルワールドの経験についてじっくりと説明する私。マリアさんは時々頷きながらもダイアリーが本当に本物であるのかを確かめるようにページを捲って文字を辿っている。
「あちらの世界のマリアさんともしかしたらマリアさんの意識が繋がっていたのかも知れませんね」
確証が得られて最後に幾分大胆な推理を披露してみる。
「そうでしょうか…」
やはり自分で経験した事ではないので確証が持てないでいるマリアさんとは対照的である。冷静に考えてみると『偶然』という二文字が言葉が頭の中に踊り出した。事情を知らない人に話を伝えたら、『ダイアリーが失われた』事も『ダイアリーが再び別な場所で見つかった』事も実は確認しようがないという事に気付いて愕然とする。別に他の人にパラレルワールドの存在を伝えたいわけではないけれど現実には目撃者は二人で、しかも片方は未だ確証を持てていないのは何か物凄く寂しい話である。ともすればマリアさんが頻りに口にする懐疑に引っ張られて、もともと流され易い自分はこの話をうやむやにしてしまいそうでさえあった。
<まあ、マリアさんのダイアリーが戻って来ただけでも…>
入り口でちょっとシリアスな気持ちになり掛けて少年隊像を見つめた時、
「あれ…?これは…?」
少し後ろで歩みを止めたマリアさんはダイアリーのあるページを見つめたまま固まっている。
「この文章は…単語は…?」
何かを呟いたと思ったら咄嗟にスマホを取り出して何かを確認し始めている。
「どうしたんですか?」
今度はこちらが訊ねる番である。
「その…ここに書いた覚えのない文章があって、A.m.o.r から始まるんです。あ!!」
また声を上げたマリアさん。ダイアリーのそのページを見せてもらうと確かに、
『Amor Vincit omnia』
という赤い字が見える。それだけは筆記体ではないので直ぐに分かったのだが、確かに字面を見るかぎりは英語ではなさそう。
「これ、『ラテン』語です!意味を調べたら『愛は全てを征服する』で結婚指輪にその文字を彫る事もあるそうです」
「『愛は勝つ』的な意味ですか?」
「そうだと思います。…OH、そうよ、あっちの世界のわたしが教えていたのはラテン語だったのね!」
「えっと…どういう事ですか?」
先程までと打って変わって何事かを確信したらしい様子のマリアさん。今度は嬉しそうな表情で、
「ねえタクマくん。あっちのわたし、タクマくんに何か言ってなかった?」
と訊ねてくる。思い当たる節があるといえば夢が覚める直前の『マリアさん』の笑顔…そう、あの時『マリアさん』は「わたしとこの子によろしくね!」と言ったのである。それを伝えるとマリアさんはニヤニヤし始めてこんな事を言う。
「このラテン語の文章はあっちの『マリアさん』からの私達に対するメッセージだと思います」
「え…?まあそう考えれば自然かもしれないですけど、どうしてそんなメッセージを?」
全体的にこの話はよく出来ていて、マリアさんは自分のダイアリーだから自分が書いた文章以外の文字がしかもラテン語で書かれてあるとすれば彼女が夢で見た内容と突き合わせて彼女にとっては決定的な証拠になる。だが、今度は全く正反対にかなり意地悪な事を考えると、それはあちらの世界の『マリアさん』でなくとも可能である。そんな反応をしたらマリアさんが、
「NO。あり得ません。絶対に『マリアさん』が書いたんです」
と断言。
<こっちのマリアさんが自分で書いて忘れたという可能性は…>
さすがに無いよなぁと思った時だった。不意に何処かでパンッという何かが弾けるような音がしてそちらを振り向いた。音だけではあったが、それはどうやら近くで打ち上げられた小さな花火であったよう。
「びっくりした!」
それ自体は単なる偶然なのだけれど、あちらの『マリアさん』のものと考えられる『愛は全てに勝つ』というメッセージ、そしてマリアさんと私の体験を合わせる事によってのみ到達できる『真実』、マリアさんが夢によって二本松に来た事、マリアさんと出会った事「すかい」と出会った事、そしてこのタイミングで花火。そういう偶然が頭の中で煌めいて、
『運命』
という紛れもない感覚に包まれる。月明かりと照明の灯りに照らし出された彼女を見つめる。夜でも笑顔が眩しく、瞳は一段と輝いて見える。
<そもそもあっちのマリアさんにまで応援されてちゃ立場が無いぜ>
そんなことを思いながらマリアさんの方に向き合い、言おうと思っていた言葉は思いのほかすんなり出てくる。
『 』
その言葉を聞いて一瞬驚きの表情で私を見つめた彼女は次の瞬間にはいままで見た事のないような満面の笑みで、
「勿論です」
とだけ。目はちょっと潤んでいるような気もする。後になって何度も思い返してしまうこの時を境に二人の関係…いや『私達』は変わったのである。
(本編 完)




