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自分にはほぼ無関係ではあるが世間的には『夏休み』という括りで語られる日々となったある夜の事。夕食後、取り立てて見たいと思う番組もない曜日ゆえか早々に部屋に引き上げ、「すかい」に見守られるようにPCで『ちょっとした作業』を始める。いわばPCのメンテナンスのようなもので、OSのアップデートとか各種ファイルの整理などである。定位置となりつつあるクッションの中に身を横たえている「すかい」はいい意味で気配を消しているというか、猫が元々静かな空間を好むらしいから部屋に違和感を生じさせない。



裏を反せばそれは「すかい」が居て当たり前の状態になっているという事だ。自分もこれまで生きてきた時間の長さに比例するくらいには出会いと別れを経験していて、テレビやネットで興味を持った対象がいつの間にか居なくなってしまう事はある種仕方のない事だと思っていても、そういう事がある度に



『当たり前』



とは思うべきではないんだろうなと感じてしまうが、逆に当たり前に存在してくれる事を尊いと常日頃から思う事も意識しすぎると少しぎこちないものになってしまう。「気を遣わないでいい」というポジティブな事に気を遣う意義を見出すのも変と言えば変である。それでも何かの縁でこうして一緒に生活し、文字通り『寝食を共にしている』ようなところがある新しい同居人…家族は我々人間とは違う時間の密度で生きていて、いやが上でもその違いを意識せざるを得ない。



「すかい」



なーお



恐らく「すかい」は賢い猫なのだろう。早くも人間の呼び掛けに返事をするようになり、己が「すかい」と名付けられた事、或いは己を「すかい」と呼ぶという事を理解していると思われる。そういう風に意思疎通ができてしまうと猫だってちゃんと考えているんだなと実感できるし、むしろ人間の方が複雑に考えすぎているだけじゃないのかとも思われてきてしまう。



「すかい」



PCに再起動を掛けた合間にクッションの正面に移動してもう一度名前を呼んでみる。



なー



今度は自分に近付いてきてくれた事を喜んでいるかのように目を細めて小さめに鳴く。このシンプルなコミュニケーションの間は実はほとんど何も意識していないし、自分が幼い頃そうだったように目の前の世界を素直に眺めている感じである。



<子供が居たらやっぱりこんな感じなのかな…>



普段あまり意識しないようにしている事もこうして偶には意識される。決してそう望んだわけではないけれど積極的にはそれを『選ばない』という事を続けているうちにいつの間にやらこの年齢になり、そういう生き方もあると納得してゆくようになってゆく。それはあまりに自然で、逆らうべきところも無いように感じられてしまうからこそ別な生き方を選ぶことが出来なかったのかも知れない。少し前から意識されるようになった『コミット』という言葉は日本語の中に対応物を持っていないように感じられる。これからの人生で積極的に選んでゆくようにすれば、もしかしたら今は見えない何かが見えてくるのかも知れない。




もっとも、世界は絶えず変化し続けている。ままならない事情だったり、大きな価値観の変化が自らに生じて、来年には全然違う事を求めるようになったり、求められるようになったりするのかも知れない。ならば今自分が出来る事とは…



ぃあ…ぁ



ぼんやり見つめていた「すかい」が大きなあくびをした。豪快に口を開けるあくびで、一瞬覗かせる鋭い牙にわずかに野生味を感じる。口が閉じられるとなんとも『整った』面差しである。猫と人間との造形の違いが時折理不尽に感じられるくらいに「すかい」のフォルムは無駄がなくスタイリッシュであると感じられる。『彼女』の眼には私はどう見えているのだろうか?なんて。




そこまで意識するほどの事は起こっていない時間ではあるが、自分が猫と生活しているという事が意識された時間でもあった。その後、久しぶりにPCの細かい設定を弄っている間に小一時間程時間が過ぎてしまいスッキリはしたのだが、何故か勿体ないような気分にもなってしまった。



満たされなさを解消しようとして何となくスマホの画面を確認すると気付かないうちに通知が一件入っていたらしく、「もしかして」と思ったがそれはマリアさんからのものだった。



『すかいは元気ですか?』



送られてきたDMの文面で最近マリアさんに「すかい」の様子を知らせていなかった事に気付く。マリアさんとのSNS上でのやり取りは結構頻繁に行っていたので見落としていたカタチ。慌てて「すかい」の写真を撮ってDMに返信しようとしたところである事に思い至る。



「そっか、『あの手』があるな!」




持っていたスマホでめったに使わないアイコンをタップしてみる。使った事が無かったので慎重に画面に表示された案内にしたがい操作し、マリアさんの連絡先を選んでボタンをタップ。通話とは少し違う要領でマリアさんに向けて発信されたコール。



マリアさんがそれに応えると突如として『テレビ電話』が開始される。右端に小さく表示される自分の顔はともかく、突然アップで表示されるマリアさんの顔にビックリしてしまう。自分でやった事なのに。



『ハーイ!タクマくん!』



『こんばんわ!急にごめんなさい。一度これやってみようと思って』



『グッドアイディアですね』



『あ、今「すかい」写しますね!』



再びクッションの手前にしゃがみ込み、少し驚いているかのような「すかい」に向けてスマホをかざす。



『OH!キュート!すかい、マリアさんですよ!!ウォッチミー!』



「すかい」は小さい機械から聞こえてくるマリアさんの声とその画面の事が了解できているのかいないのか、とにかく一度「にゃー」と鳴いた。



「すかい、なんか分かったみたいですよ」



『元気そうですね!よかった』




しばらくそのままにしていたが、流石に「すかい」ばかり見せても味気ないのでスマホを人間の方に向け直す。



『俺もちょっと映りますね。なんか恥ずかしいですね、これ』



『タクマくん、ちょっとヒゲが伸びてますね。わたしも急に来たからあんまり見ないでください』



『それじゃあこれで連絡した意味ないですよ…』



『ソーリー』



それにしてもスマホに映し出されたマリアさんは何というか実物とは少し違う感じに見えてそれは己の顔も例外ではないのだが、やや平面的。スマホの傾け方で見え方も変わってくるので微妙に調整しつつ会話を続ける。



『夏期講習、明日からです』



『ファイトです、マリアさん。学生もファイトする期間ですからね』



『オーライ。でもちょっと…不安です』



『そうですよね…初めてですしね…』



何とか不安を和らげたいのだが、気の利いたことが言えないのが何とももどかしい。けれどこういう時にこそ自分に出来る事をやればいいのだ。



『じゃあ、しばらく毎晩これで会話しましょう!』



『え…?エブリナイトって事ですか?』



『そうです。俺というよりは「すかい」を見て癒されちゃってください!』



『ソー…』



マリアさんが少し迷っているようである。



『ダメですかね?』



自分も思い切ったこの提案についてちょっと弱気になってしまうが、



『違います。そうじゃなくって…』



何か理由があるらしい。渋るその訳を訊ねてみると、



『そうなると、恋人みたいです』



『え…?』



思わず絶句してしまった私。考えてもみれば、ここまで来るともうお互いの好意を隠しようがない状態だろう。最早一言があれば関係が決定してしまう。確かにマリアさんを勇気づける行動で最大のものがあるとすれば…



<いや…むしろどうせならこれを最大限に活かすんだよ!!>




何故か自分は時々不思議な方向にひらめきが爆発する事がある気がする。この時思い付いたアイディアは、後で考えるとちょっとズルいなと我ながら思った。私は興奮気味にこんな事を口走る。



『マリアさん。この夏を乗り切ったら伝えたい事があります』



『え…?それはどういう…』



『多分マリアさんが聞きたい言葉だと思いますが、とにかく夏の終わりに俺はそれをマリアさんに伝えます』



『え…?』



困惑している様子だが、ほとんど誰でもこれがどういう事を意味するか分る筈である。たとえ文化が違っていても。そしてそのシチュエーションを想像する自分の脳裏にあるはっきりとしたイメージが。夏の終わり、花火…そうか…『あれ』なのか…。




『マリアさんにヒントです。フジファブリックの『若者のすべて』という曲を聴いてください』



『若者のすべて、ですか?』



後で思うとこのひらめきは自ら思い入れによる興奮だけが先走ってしまっている感がある。それでもヒントも含めて素晴らしいアイディアだという確信はあって、問題はこのテンションがマリアさんに伝わるかな、という事と…



『分かりました。聴いてみます』



『じゃあ、また明日!』



流石に様々なものに耐え切れずそこで通話を終えた。つまり問題なのは途中から意識されてしまった『こっぱずかしさ』である。再び静まった部屋で「すかい」の身体を愛撫しつつ、一言。



「すかい…俺に勇気をくれ!!」



『すかい』は眠そうに大きなあくびを一つ。

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