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7月の第3日曜日の朝。ある人物に伝えられたアドバイスに従いやや早めに出掛ける準備を始める。ちょっとした初体験になるが故のそわそわが「すかい」に伝わっているのか、いつもより鳴く回数が多いような気もする。相変わらず綺麗な白い毛並みを背中からなぞるように愛撫して、
「今日もちょっと出掛けてくるよ。おやつ食べるか?」
と話しかけてみるとまた一鳴き。「すかい」を抱きかかえて階段を降り、そのままキッチンに移動。「すかい」を一度そこに降ろして床の一画に置かれている猫用のご飯皿にこれまた猫用に作られているという「かつお節」のおやつを乗せると、自分から進んで皿の前にやって来て首をつっこみ始める。その動作が前に比べて段々と自然なものになっており、脚も状態もかなり回復してきた印象。月を跨いだらギプスを外しにまた病院に行く必要があるのかも知れない。
そんな事を考えながらトーストを焼き始めながらコーヒーなどを用意する。この時期になっても梅雨明けがまだでせっかくの日ではあるが曇ったり小雨が降るような予報で、『現場』の状態を想像するして少し厚着の装い。
<何か持ってゆく必要のある物あってあるかな?>
など考えながら朝食を摂っているとぼちぼち約束の時間が近付いてくる。食べ終えて10分後に自宅の前の道路に自動車が停車したのを窓から確認。
「じゃあ、行ってくるよ!すかい!」
車の中で待っていたのは数週間前のパーティーで知り合った渡邉誠さん、その人。「乗ってください」という言葉に従って助手席に乗り込むと、渡邉さんは今日は黒のコーデでかなり男らしさの伺える雰囲気になっていた。
「なんか気合入ってますね!やっぱり競馬場は人多いんですかね?」
「今日が最終日だから多分多いですよ。じゃあ行きますよ!」
やはり前に感じたように張りのある声だなと感じたがそれが『頼れる人』という印象を作り上げるのだろうか?ナビはテレビ画面になっていて、かなりリラックスした感じで運転慣れしている。動き出してからややあってこんな会話が始まる。
「卓馬さん、競馬場初めてなんでしょ?」
「そうですね。テレビではちょこちょこ見てるんですけどね」
何を隠そう、今日はこの人と福島競馬場に参戦してくるのである。一週間前にメッセージを送ったら、福島開催の最終日である日曜日が「アツい」からという理由でこの日が選ばれたのだが、テレビからも確認できるレースコースではなくて競馬場内の雰囲気は未体験だし、おそらく買うであろう『馬券』についてもどう買ったらいいのか分からないので色々教示していただく予定である。
「福島県人は何だかんだいいつつ競馬見てるんじゃないかな?何て言ってもJRAを福島市に呼び込んだのは競馬が好きだからだし」
「なんか知識が昔やったゲームで止まってるんですけど、全国に競馬場って一杯あるんですよね?」
「ん…一杯ではないかな。地方もまあ盛り返してはいるけど、前よりも減っちゃったし」
「そうなんですか。今日は大きなレースとかありましたっけ?」
「いや、福島は今週重賞ないです。でもオープン戦がありますよ」
「オープンって、確か一番レベル高いクラスですよね」
「そんな感じです。でも最近『リステッド』っていう格のレースが設定されたりしてますよ」
「リステッドって英語ですよね」
「『リスト』されているっていう感じじゃないかな?まあこういうのは慣れですね」
そこから怒涛の勢いで最近の競馬事情についての情報を繰り出す渡邉さん。好きな事には饒舌になる種族の人とかネタになるけれど、聞いている方は頭がヒートアップしそうになりながらなんとか受け取っている。色々話し終えた上で渡邉さんが一言、
「まあ行けば分かりますって!」
その『俺に任せなさい!』という得意そうな表情は漠然とだが信用していいような気がした。競馬場の開門の時間に合わせるように福島市にやって来ると渡邉さんがこう説明してくれる。
「駐車場に停めたかったのと、第一レースを見届けたかったから早く来たんですよ」
「午前中の競馬は見る機会がないから分からないんですが、そこも「アツい」もんなんですか?」
「カオス」
「え?」
「福島競馬は『荒れる』事がありますからね。いきなり万馬券とか飛び出しますよ」
「マジですか?」
「まあ近年はネットとかで色んな情報が入るからみんな馬券上手くなりましたよ。あと馬場も綺麗になりましたし」
「へぇー」
そうこうしているうちに遠目からでも巨大と分かる建物が見えてきて、車もその建物がある道路の方に入って行った。案内してくれるおじさん達に導かれ、有料の駐車場に入り車を停める。車を降りて渡邉さんに、
「今日は車出していただいてありがとうございます」
と礼を言った。
「いえいえ。一人で行くときには電車とバスだったりもするんですが、車で来ると色々楽ですからね。酒は飲めませんが」
「本当に競馬場って巨大ですね。建物の入り口って正面ですか?」
エスカレーターも見えるけれど、人の流れはどちらかというと一階側である。一階側に歩き出した渡邉さんが「指定席とかもあるのでそちらを利用してもいいんですが…」と言ってから、
「今日はどちらかというと混み具合も含めて体験してもらいたいので入場料の100円だけでいいです」
と伝えてくれる。競馬場内に入ってからは圧倒されっぱなし。とにかくその広さと設備の規模が普通の施設とは比べ物にならず、しかも一昔前のイメージとは似ても似つかない清潔感を感じることが出来る。2階の空いている席に一旦座り、そこからの眺めを確認する。前面ガラス張りの窓で移動してきた通路も広いしここが混雑するなら相当の人数が居るという事になろう。
「外はちょっと寒そうなんですが、レースが始まったら外と中を行き来することになりますから」
その後、施設内の案内…フードコートに始まり、ビギナー向けの説明が行われるところ、競馬グッズが売られている場所、展示など、一通り見回って一応建物の構造は理解できた。何というか一番すごいなと感じたのは地味に『トイレ』だったりして、それこそ至る所にトイレが設置してある印象。しかも綺麗。
「競馬場のイメージが変わりました」
「まだレース始まってませんよ!」
そうやって案内してもらっているうちに、1レース目の『パドック』が始まったらしい。
「しばらくするとテレビで見ている騎手とか出てきますからね。有名になった女性ジョッキーも福島で初勝利を挙げたんですよ」
彼の口から情報は尽きる事がないけれど、目の前を悠然と闊歩する巨大な体躯の馬たちも視覚情報として圧倒される。時々嘶きなどが聞こえてきて、ここだけが『別の世界』のような錯覚をしそうになる。そして『オッズ』などが表示されている電光掲示板にズラッと並んだ馬名。あまり意識はしてこなかったが馬の名前には英語が関係している名前が多く、意味は分からなくても響きが恰好いい名前が結構存在するなと感じる。これはいわゆる『厨二心』とも関係する感覚なのだろうか?
「よし、〇〇さんを買おう。福島出身騎手ですよ」
「あ、福島出身の騎手っていたんですね」
「それどころか二本松出身の騎手もいますよ。あ…今週は出てないですけど。確かちょっと前に重賞も勝ったんですよ」
「え…?そんなところで二本松が!?」
何故かよく分からない表現で受け答えをしてしまったけれど、スマホで「騎手 二本松」と打ち込んで検索してみたところ、見事に該当する結果が得られた。
「うわ!この人だったのか!年代が近い!」
何重もの驚きで呆然としていたのだが渡邉さんがそろそろ馬券を買いに行くとの事でパドックからは移動。そしてその後はかなり苦戦する事となる『マークシート』との対面となった。買い方を教えてもらっても本当に正しいのか不安になり、とりあえず一レース目は見送る事にして渡邉さんの結果を見守る事にした。
渡邉さんが選んだ2番の馬は…5着。渡邉さんは苦笑しているがおそらくはこういう姿が標準的なものなんだろうと了解した。ただ外に出て観戦したレースはテレビで見るよりも迫力があって、馬の一団が駆け抜けてゆくときの音とか騎手が鞭を使う音とか、凄いものを見せられているんだなと感じた。
<すげえ…この規模の事を毎週やってるのって控えめに言って神じゃね?>
浮かんできた言葉をSNSにでも投稿したらどんな反応をされるのか?とある女性には知られない方がいいなと判断してそれは控えておいた。




