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浅見家の新しい家族となった白猫の「すかい」は想像していたよりずっと速やかに家に馴染んでしまった。猫を飼うのが人生で初めてなのもあって、当初は母の助言を頼りに餌やりやスキンシップを続けていたものの、段々と「すかい」の方が私に気を許してくれるようになり手術をした前脚で動くのは見るからに大変そうではあるがなんとか呼びかけに応じて近づいてきてくれるようになっている。母の観察ではこの家では私が「すかい」の世話をする役割であるという事を猫なりに認識した結果だろうとの事。
時々「すかい」を移動させたりする都合で胸に抱きかかえる必要が生じると流石に抱っこになれていないので身をよじらせたりするのは少し焦る。それでも明らかに『嫌』という声では鳴かないので、綺麗な毛並みやその体温を手のひらに感じながら夜はなんとか自室まで運んでゆけば、ベッドの隅の方で静かに寝息を立てている様子を見ていることが出来る。
じー
「すかい」と目が合うと何となくお互いに確認し合っているような状況になる。それはまるで、
『わたしはここに居ていいの?』
と問うような視線で、
『もちろん。ここに居ていいんだよ』
という気持ちを込めてその視線に応える。猫の仕草で分からない事があるとすぐにネットや購入したばかりの書籍で調べてみるのだが、最初は書かれてある事に半信半疑であるものの、段々と猫も人間と同じような反応をしているんだろうという了解になってくる。それでも例えばよくある『猫動画』のように、人間にとってはコミカルに感じられる不思議な行動を実際に目撃すると、『彼女』が一体何を考えているのか想像が自然と膨らんでくる。
研修の間はマリアさんが家に来て「すかい」の面倒を見てくれるとの事だが、自分としては一週間で大分「すかい」の事が分かってきたところだからこういう場面で家を離れたくない気持ちが出てきていて、せめてもの抵抗としてマリアさんにお願いして「すかい」の写真や動画を送ってもらう事にした。
『OKです。わたしの写真も送りましょうか?』
お願いした時にこんなDMを貰ったのだけれど、それはどういう気持ちで書かれた文章なのかちょっと想像しかねる。文面を確認したPCのディスプレイを前にコーヒーをゴクゴク飲みながら、
『やぶさかではないです』
と敢えて分かり難い表現で応酬。マリアさんの語学力だとこの位は普通に伝わっちゃうんだろうなと思いつつも、場合によっては意味を調べたりしているかも知れないなどと考えていた。忙しかったのか、それとも何か別の理由があるのか大分時間が経ってから、
『要らないなら送りませんよ』
と返ってくる。
<いや、要らないとは言ってないんだよなぁ…>
というツッコミをしたくなるけれど、この微妙なラブコメ波動が出ている時の塩梅が色々難しい。ちょっと笑いをこらえながら、
『要らないとは言っていません』
などと返信。自分の性格上、この位で勘弁してほしい。
『仕方ないのでサービスしてあげます』
二重の意味でマリアさんに『サービス』してもらった感じ。こういうやり取りをしているとその何とも言えない心地よさに安住してしまいたくなるけれど、本当にどうして自分はそこから先に踏み出そうとしないのか不思議で不思議でしょうがない。後から思えば『当時の自分』には何かはっきりした『タイミング』が必要だったのだと分かる。身体中に染みついた『煮え切らなさ』を振るい落とす程の運命的な何か…
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
そんな『運命的な何か』は案外仕事の方では起こらないもので、あれだけソワソワしていた研修も始まってしまうといつだかも経験した事のある圧倒的退屈さを押し殺すのに必死で他の事はあまり考えられなくなる。職場にその学びを持ち帰る気持ちで意気込んでみたところで、そこで自分がリーダー的な存在になって皆を引っ張ってゆく気概があるのかどうか、むしろ研修後のレポートをどうしようかに追われているようでさえもある。
研修用の一室でやり取りのあった人とか、かなりやる気に満ち溢れている若手を見ていると自分を改めなきゃダメだなと感じたりもするけれど、多くを求められると『仕事って何なのか?』という根本的な問いがやってきてしまってそれもまたダメである。ただ一つ言えるのは自分のする仕事の質は高いところに持ってゆくのが満足に繋がるだろうという事と、やはり得意先の人に満足してもらえるならやりがいも生まれるだろうという事である。最近かなり好きなとある缶コーヒーのCMのコピーライティングのように…まあそのコピー自体も『いい仕事』の一つではあると思うけれど、社会を自分も創り上げるんだという気持ちは持っていたい。
休憩時間に建物内に設置された自販機でそのCMのメーカーのものを選んで購入してみる。
「浅見さんでしたっけ?」
その際、研修中近くに座っていた男性に声を掛けてもらった。年齢は自分と同じくらいに見える。
「はい。郡山の〇〇に勤めている浅見卓馬です。そうだ名刺」
丁度よかったので名刺を交換する。相手は『佐藤道隆』というらしい。奇しくも彼も郡山に勤めているらしい。
「じゃあ僕はこれを…」
佐藤さんはブラックコーヒーを選んだ。
「せっかくだからお昼一緒しません?たぶん同い年くらいじゃないかなって思って」
「いいですか?ありがとうございます」
このお誘いは正直ありがたかった。別に一人で昼食を摂る事については何も感じないタイプなのだけれど数日でも一緒に過ごすのだから色々と心強い部分がある。午前の日程を無事終えてから、スマホで近くで食事できる場所を探して一緒に移動する。幸い歩いていける距離なので都合が良かった。昔ながらの定食屋にてこんな会話が始まる。
「浅見さんはご結婚はなされてるんですか?」
「いえ、まだ独り身です」
「まだ、という事なんですね。なるほど」
本当に何気なく「まだ」と言ってしまったのだが、こういう所にこそ自分でも知らなかった気持ちが隠れているものだと実感した。
「佐藤さんは?」
「僕はそうですねぇ…なんか色々面倒くさいなって最近は思うようになって。周りは相手見つけて結婚してゆくんですけど」
かなり男前の部類に入る人がこういう発言をすると妙な説得力があるのは何故なのだろうか。
「まあ最近はあんまり拘らない人増えたような気がしますね。時代が『何でもあり』になっているような気がしますし」
「僕は結構凝り性でねまだ色々やりたい事あるし、もしかしたら仕事も独立するかも知れないし…」
「え…そうなんですか?」
初対面ではあるが結構つっこんだ話もしつつ昼食が進んでゆく。基本は自己紹介がてらの雑談ではあるが全体的に『価値観の多様化』についてお互いに意見を述べ合うような機会になったかも知れない。そんな中、スマホが小さく振動した事に気付いてチラッと確認するとSNSの通知なのでおそらくはマリアさんからだろうと思われる。
「あ…」
「どうかしましたか?」
「いえ、今家に居る猫の写真送ってもらったんですよ。本当についこの間飼い始めた猫で」
「…見せてもらってもいいですか?」
何故か喰いつきがいい佐藤さん。
「うぉー!白いですね!可愛いなぁ!!」
先程のやや硬い印象とはどっしりとしたトーンから百八十度変わって突然テンションが上がったのを見て一瞬動揺してしまったが『猫好き』な人はどんな猫でも好きなのか「すかい」を飼い始めた経緯を手短に説明しようとすると、
「よし。詳しい話は明日聞きましょう!」
と謎の提案される。
「え…?今説明してもいいんですけど…」
この疑問に佐藤さんはニヤリと笑ってからこう答えた。
「この三日間を乗り切る話題をここで使ってしまっては惜しいですよ」
「なるほどなぁ…」
その発想は無かった…出会いとは学びをもたらすようである。




