㉚
スマホに掛かってきた獣医さんからの電話で白猫「すかい」の手術は無事に完了し、日曜を挟んで月曜日には退院できるとの事。出社前に引き取る事を考えたが時間的にバタバタしてしまうだろうから思い切ってその日は早退させてもらう事に決める。
猫の事はどうしても気になるけれど、それを除けば前の週とは違って特に予定のない日曜日。翌々週には研修の予定が入っているので少しずつ準備を始めて、SNSでニュースなどをチェックしながら過ごしているとあっという間に昼。その日が仕事のマリアさんにはDMで「すかい」の状況を知らせてあったのでおそらく休憩中に、
『「すかい」手術成功したんですね。よかったです!』
と連絡が入る。
『明日退院なので仕事早退して病院に行く事にします』
返信して様子を窺い『既読』が付いたのを確認してから階下の居間で家族とテレビを見て過ごす。3時頃になってふとある事を思い出し、おもむろにチャンネルを変える。
「あ、競馬見るの?」
母が一言。
「今週から福島開催だったんだよ」
「へぇ~」
前の週もそうだが大きいレースの時には何となく競馬中継を見ていたりはしていて、パーティーで知り合った渡邉さんの言葉から福島開催だと気付いたのだが、番組自体も福島に出演者が集ったりしてなんとなく面白い。少し雨が降っているようで、<お客さんも大変だなぁ>と思ったりしたが、画面越しからでも熱気は伝わってきていた。結構賑やかそうなので渡邉さんの誘いも悪くないなと思い始めるが、「すかい」の事を考えると今はちょっと難しそうな気がする。
競馬中継が終わった頃にマリアさんから再びメッセージ。
『時間が合えばわたしもタクマくんに着いていきます』
既にマリアさんが会計を済ませているので当日は引き取りに行けばいいだけなのだが、やはり見届けたくなるのが人情というものかも知れない。快諾してマリアさんのスケジュールを確認した結果、私が昼に早退する事にすれば13時から16時の間ならどうにかなりそうな感じ。その時マリアさんがこんな提案をしてきた。
『いつも送ってもらってばかりなので、今回は電車でタクマくんの家に行ってみようと思います』
なるほどその手があったか、と一瞬思ったが送迎自体大した距離ではないし、あまり意味がある事ではないという事に気付く。
『え、大丈夫ですよ?俺送りますって』
『タクマくんの住んでいる場所を歩いてみたいんです』
『そうですか…』
そういう思惑があるという事ならその気持ちを尊重すべきだなと感じてここは了承する。実はここに『ある秘密』が隠されていた事をこの時は知る由もなかった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
月曜、職場で早退する旨を伝えた時に上司に少し理由を訊かれ、「実は猫を保護しまして…」と説明するとちょっと感心気味の「へぇ~」という反応があった。その時、猫ではないけれどその人が犬を飼っている事を教えてもらい、こちらもなんだか感心してしまった。せっかくだから「すかい」の怪我の様子など詳細を語ったところ、
「ペットは何だかんだ出費が多いからね、そして時間も。こっち犬だから散歩してあげないと」
という経験談を話してくれた。この話を聞いている時に自分は既に「すかい」を家族に迎い入れる気持ちなのだなと気付く場面があった。昨今はSNS上でも飼い主を募集する投稿を結構見掛けるし、もしかしたら根気よく探せば「すかい」も貰い手が見つかるのかも知れない。だけど「すかい」との『縁』はきっと大事にしなければならないものだと思うし、何よりもマリアさんの心情を想像するときっとその方がいいだろうという気持ちになるのだ。
心積もりがそのようなものになったらなったで、具体的に自宅で飼う際にどういう事に気を付ければいいのか、例えば自宅に誰もいない時間帯などはどうすればいいのか、等は早いうちに考えておかなければならない問題だなと感じた。母は平日は半分くらい休みの日もある働き方をしているが、研修が始まってしまうと完全にその間は任せきりになってしまう。飼うと決めた本人がそんなんでいいのか、と思わなくもない。
<とりあえず自分がやれる事はしっかりやってゆく事が大事だよな…何事も>
気持ちを新たに午前は職務に集中…英語で言うと『コンセントレイト』をしていた。そして昼になりマリアさんとの約束の時間に遅れないように帰宅。これまでその時間にバイパスの下りを走った経験が無かったので混雑の具合が想像できなかったけれど、思いのほか早く二本松に戻ってくることが出来た。家に着いたのが12時45分。
「全然余裕だったな」
その日は母の仕事が休みなのでマリアさんが少し早く着くことの心配はしていなかったが、電車の時刻表を調べた時におそらく丁度こちらの駅に到着した頃だろうと考えていた。事実、離れた距離で電車が通り過ぎたような音がしている。
「ただいま」
玄関に入ると強烈な違和感を覚えた。明らかに『靴』…しかも見覚えのある女性ものの靴がそこに並べてある。
「え…?」
「タクマくんおかえりなさ~い!」
居間に続く襖を開けて現れたのはブロンド碧眼の女性…。
「え…?マリアさんもう来てたんですか?」
驚愕している私に続いて現れた母がこう言った。
「マリアさん、11時頃から来てるよ」
「え…?なんで?」
混乱中。しかしながらマリアさんは私の手を引いて、
「とにかくこっちに来て下さい!」
と居間に誘導する。そこで更に驚愕の事実を知る!
すーすー
「え…!?猫もう連れてきてたの!?」
そうそこには患部を包帯で巻かれ、スヤスヤと寝息を立てて眠っている白猫「すかい」の姿が!!
「ごめんなさい、タクマくん。わたしこの間お父さんとメールアドレス先交換してて、今日薫さん(母の名前)がご在宅だからって聞いたものだから、早めにご挨拶にこようと思って」
「え…と…お母さん、そういう事なの?」
母は何でもなさげに「うん」と頷いた。今の話から導き出される結論はつまり…
「そんで二人だけで病院行ってきたの?」
「ザッツライト!」
「え…じゃあ俺何のために早退したの?」
「ソーリー…わたし「すかい」の事考えたら我慢できなくって…」
「あ…まあそれもそうですけど…」
理解はできても困惑が続いている私に母が追い打ちを掛ける。
「卓馬、わたし「すかい」飼う事にしたからね」
「はえ」
こうなってくると最早殆どの事は些事になってしまう。そこで一切の思考を断ち切る事に決めた私はゆっくり「すかい」の元に近付いてゆき、静かに背中を撫で始める。スラっとしていて顔つきもどこか穏やかに見えるタイプの猫であるけれど、獣医さんから雌猫であるという事を聞かされていた。段々と心が落ち着いてきたところで何気なく、
「そういえば俺来週から研修なんだ。大丈夫かな?」
と言った時マリアさんが急に真面目な表情に変わった。
「タクマくん、研修の日程は?」
「え…?月曜から水曜までですけど…いわきの方で」
するとマリアさんはスマホを取り出して何やら操作し始める。
「タクマくん…いえ、薫さん」
「どうしたの?」
「わたし、タクマくんが研修の間ここに来て「すかい」のケアをしたいです!」
この申し出は母の二つ返事で承諾された。展開が早過ぎる気がするが、それからは夕方まで三人で「すかい」を見守りながらのんびりお茶をして過ごす時間となった。




