001. 故郷を背中に
「……マ。トーマ。起きなさい、トーマ」
誰かに肩を揺すられて、僕はゆっくりと目を覚ました。
まぶたを開くと、朝日に照らされた女性の横顔が視界に写る。僕は彼女の顔を眺めながら起き上がり、体にかかっていたシーツを押し退けた。
「まったく、母ちゃんよりも起きるのが遅いだなんて。あんたはその年になってもまだまだ寝坊助さんだね」
「……すみません」
「今日は出発の日だろう? 表へ出て顔を洗ってきなさい。迎えの方に失礼だよ」
「……ええ」
寝台から降りて、浮かない顔の女性の横を通りすぎていく。
生まれてから15年。誇るほど長生きではないが、短い年月ではない。それだけの時間を経てなお、僕は彼女を母親だと思えずにいた。
家を出て、井戸から水を汲み上げる。ロープに繋がれた桶の水面には、自分の顔が写り込んでいる。これが自分だと実感するのには、しばらく時間が必要だった。
この村では、僕は変わり者扱いだ。事実僕は変人なのだろう。そのことはもちろん自覚しているつもりだ。
水面に写る顔をじっと眺める。
これが僕なのか。いや、これが今の僕なのだ。
トーマ。それが僕の名前。
けれど僕の記憶に強く刻まれているのは、ここではない世界で暮らしていた男の、短い人生の全てだった。
高垣斗真。それこそが僕の名前。
名前が同じなのはどんな奇跡なのだろうか。たった二十数年で命を落としたはずのその男は、間違いなく僕自身である。けれど僕じゃない。高垣斗真は既に死に、ここにいるのはトーマなのだ。
確かに自分は一度死んだはず。その認識が、僕をどんどん普通から遠ざけていた。
汲み上げた冷水で顔を洗っていると、馬蹄の音が聞こえてきた。目を向けると、黒い馬に引かれた小さな馬車が家の前に停まっていた。
馬車の扉が開き、誰かが降りてくる。ウェーブがかった短い青髪の、美しい女性だ。黒に金の縁取りがされたローブをまとい、手には象徴的な三角帽子を持っている。
彼女の姿を見た僕は、桶を置いてそちらへ歩いていった。
「お久しぶりです、クレセント先生」
そう言って僕は頭を下げる。クレセント先生――ジェニファー・クレセントは腰を屈めて視線を合わせ、両手で僕を包み込んだ。
「おはよう、幼き魔導士よ。昨晩はよく眠れたか?」
「そう見えますか?」
「いいや。目の下に隈ができている。悩みを抱えるのは結構だが、健全な精神は健全な肉体に宿るもの。夜更かしは感心しないな」
「心にとめておきます」
ジェニファーは僕を離すと、右手へ視線を送った。僕もそちらを見ると、不安げな顔をした僕の母親……の姿があった。
母は胸元に手をやり、片方の手でもう片方の手首を強く握っている。なにな不安や心配事を抱えているときの癖だ。
「ご夫人。トーマは私が親代わりとなり、貴女の分まで立派に育て上げると誓いましょう」
「……ええ。よろしくおねがいします」
母は声を震わせて言った。それから僕を見て、瞳を揺らしながら語りかける。
「トーマ。あんたはついにあたしをお母さんと呼んでくれなかったけれど、あたしはあんたをとても大事に想っていたつもりよ」
わかっているとも。端から見れば、僕はおかしな子供だったのだから。そんな子供を見捨てずにいてくれたのは、他でもないこの人なのだ。
「……エーデルガルドへ行っても、どうか元気でね。あの人みたいには、ならないでね」
「……ありがとう。それから、ごめんなさい。いつか必ず立派になって戻ってきます。そちらこそどうかお元気で」
母の頬に一筋の雫が流れた。それが嬉しくて流れたものなのか、悲しくて流れたものなのか、僕には判断がつかなかった。
「……そろそろ行くぞ、トーマ」
「ええ。……それじゃあ、また」
ジェニファーに促され、馬車に乗り込む。背の高い魔女がドアを閉めると、窓の向こうでたくさんの涙が流れるのが見えた。
「親不孝ものめ」
魔女が呟く。
「……わかってる」
僕には返す言葉もなかった。
僕があの人の息子で、あの人が僕の母親であるのは疑いようもない事実なのだ。なのに、いまだそれを受け入れられないのは全て僕のせいだ。僕が別の人生の記憶を持っていたばかりに強いてしまった、理不尽な苦悩なのだ。
だから、というわけではないが、僕は親元を離れる決断をした。ジェニファー・クレセントが村を訪れたのはまさに運命の悪戯というほかにない。
「あ……」
見慣れた景色がどんどん遠ざかっていく。大して思い入れもない小さな村だとばかり思っていたが、不思議と胸にこみ上げるものがあった。
「寂しいか?」
笑みを浮かべたジェニファーが顔を覗き込んできた。僕は表情を取り繕うと、
「別に」
適当に誤魔化し、そっぽを向いた。
○ ○ ○
地球と違って、この世界には魔法が存在する。……いや、魔法という呼び方は正確ではないのだったか。
この世界には魔導と呼ばれる技術が存在する。魔導とはエーテルという根源物質を別のモノ・現象へと変換するテクノロジー全般を指す言葉だ。
僕がそれを知ったのは、生まれてからおよそ3年が過ぎた頃だった。当時の僕は既に自分の中に別の記憶があることを認識し始めていて、幼子らしからぬ言動が目立ち始めていた。
とにかく、魔導とはエーテルをリソースとして何らかの超常現象を起こすものだ。考えずともそれは非常に危険な力であって、同時にこの世界には必要不可欠なものである。使うためには当然許可が必要だ。
「やれやれ、馬車で1週間も移動してると腰が痛くなって困るな」
「ジェニファー先生も老齢のようで」
いま目の前で腰をさすっているジェニファー・クレセントも、そうした許可を持った人物だ。魔導を使うことを許可された彼女のような人たちを総称して「魔導士」と呼ぶ。名は体を表すわかりやすい呼びかただ。
「憎まれ口を叩くものじゃないぞトーマ。それから、私のことはジェニーと呼ぶように」
「なんで」
「他人行儀はやめてもらおうと思ってな。これからは姉と弟の関係になるのだから」
「……はぁ」
姉と弟。確かに間違ってはいないのだけれど、実感がまるでない。そもそも厄介な記憶のおかげで肉親にすら心を許しきれていないのに、いきなり姉が出来たと言われても。
「まあ、努力はしてみます。それでジェニファーせん……ジェニーさん」
「30点。合格ラインは80点だ。敬語もやめるように」
呼び方に点数をつけるな。
「で、なんだい弟くん」
「随分冷え込んできたなと思って。外に見えるのは雪、ですか?」
外に目を向けると、白い綿毛のようなものが灰色の空からゆっくりと地面に積もりはじめていた。道を囲む針葉樹の森の木々はどれも帽子をかぶっいて、見ているだけで凍えそうな風景だ。
馬を動かす御者は寒くないのだろうか。ふと思い浮かんだが、要らぬ心配だった。手綱を握っているのは人間そっくりに作られた魔導人形だ。寒さを感じることはないだろう。
「ああ、エーデルガルドは山の奥にある学院だからな。冷えてきたってことは、もうすぐ着くってことさ。寒いのは苦手かい?」
「村に雪が降るのは冬の終わりの時期だけでしたから。こんな春先に雪が降るのはなんだか意外です」
日本にいた頃もそうだった。北の方の地域なんかは全然事情が違うのだけど……。
「……遠い目をしているな。違う世界のことを考えていたのか?」
「はは……お見通しですか。本当、何なんでしょうね、これ。どうして僕はこんな記憶を……」
「焦るなよ。学院での生活の中でゆっくり折り合いをつければいいさ。でも――」
外の景色から視線を戻すと、ジェニファーは物憂げな表情を浮かべていた。彼女は僕と目が合うと、喉元にまで出かかっていた言葉を静かに飲み込んだ。
「でも、なんです?」
「いや、大したことじゃないよ。それよりもほら、見てみろ」
ジェニファーが窓の外を指さす。さっきまで僕が見ていたのとはまた違う方向だ。
そこにはオレンジ色の明かりが揺れていた。雪でよく見えないが、その奥には石造りの重厚な関所のような門がそびえている。さらにその向こうには灰色の山の影。そこにたくさんの光が見える。
「……」
目を凝らして、息を飲んだ。山の影のように見えたのは、巨大な石の建物だ。本物の山はさらにその向こうから僕たちを見下ろしている。ということは、あれが。
「そう、あれがエーデルガルド魔導学院。如何なる国にも属さず、如何なる国をも受け入れる。現在の魔導技術の総本山ともいえる、エーテル研究の聖地さ」