その34
さまざまな感情が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返すさまは、まるで万華鏡のようであった。
だが万華鏡と大きく異なるのはそれがN2、ギアックの心情の話であり、見る者の心を躍らせるものではないということだった。
それは目を背けたくなる人の業そのものであった。
憎い! にくい! ニクイ!! よくも僕を騙したなッ!!!
裏切られたことによる憤怒の炎が絶えることなく燃え盛る。
なんで、どうして、なぜもっと早く決断しなかったんだ?
僕はいったいなにをしていたんだ? 死ぬべきなのは僕のほうだったんじゃないのか?
その隙間を縫うように己自身へのあきれ、自虐がべたべたと貼りついていく。
あの時こうしてさえいれば……なんで、なんで……
それらに重なるように悔やんでもくやみきれない後悔の波が押し寄せてくる。
だがそれらすべての感情を合わせても万分の一にも満たないほどに大きな情動―――それは喪失感であった。
すべてを覆いかくし包んでしまう分厚いかなしみの帳。
それ一つでギアックは全ての気力を根こそぎ奪われ立ち上がれなくなってしまう。
なにをどうあがいても、どれだけ時間が経とうとも、絶対にこの胸に穿かれた隙間は埋まらない、そう確信できてしまうほどの深い溝。
セシリアさま
たとえ何度その名を読んだとしても溝が埋まることはない。反響を繰り返しその深さに愕然とするだけだ。
「……セシリアさま……セシリア……」
やがてそれらの負の感情にさらされズタボロになったギアックは、冷たい闇を抱きかかえながら静かに朽ちていくのであった。
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「これで全部だ」
石造りのテーブルには数本のナイフと不思議な光沢を帯びた金属球が置かれていた。
それらを険しい表情で眺めていたアイリーンはやがてワナワナと震え出し、
「これが私たちに残された最後の希望ってワケさっ……これだけだぞっ!? たったのこれだけっっ!!」
頭を振りながら何度もテーブルに拳を叩きつける。
「信じられるかっ!? なあっ? 私が精魂込めて作り上げた武器が持ち出され破棄され、残ったのはたったのこれだけなんてさ!? こんなのっ、こんなことっ、これだけでっ、なにを、どうしろっていうのさぁぁぁ」
加減を忘れているのか叩きつけられた拳から血が飛び散る。
それを見たノーマはアイリーンの前まで歩を進め、そして無言で平手を放つ。
「少しは落ち着きなさいって。しょうがないでしょ。あれだけ離反者が出たんだから」
「だ、だからってここまでするかっ!? 一時は仲間だったんだぞ!? それをこんなさ!!」
「今さらダージル派に寝返るんだから手ぶらじゃいけないでしょうが。そういうところに気が回らないのがアンタの敗因よ」
「だ、だからってさぁ、こ、ここまでしなくてもさぁ、うっ、うぅぅうわぁぁん」
「あーうるさいうるさい……ったく泥舟どころかもはや沈没しかかってるじゃない……かといって今から鞍替えはさすがに……まったくつくづく私は―――」
ノーマは天を仰ぐ。
そしていつ何時でも悟ったようなしたり顔で、どんな窮地に置かれても凛々しかった冷徹の女の笑みを思い浮かべる。
『アイツは向こう見ずなところがあるからな。万が一の時は頼むぞ』
「……頼むぞ、って、どうすればいいのよ……まったく、つくづく私は上に恵まれない……」
「あ、あの、お取込み中のところワリィだが、その、ダージルたちがよぉ」
その時、険悪な雰囲気の二人の間にマッチョハゲが割って入る。
彼はアイリーン側に残ってくれた唯一の囚人だった。
どこか自信なさげで絶えずキョドっているその様子からただ単に逃げ遅れただけにも思えるが。
「どうしたの? なにか動きがあった?」
だがとりあえず関係性は良好のようだった。
「あ、ああ、あったどころの話じゃねぇよ。アイツらぞろぞろと監獄の外に出てきてよぉ、なにかをおっぱじめるみてぇな雰囲気だっただ」
「!も、もっとくわしく聞かせてくれっ!?」
その話を聞いた途端、泣きじゃくっていたアイリーンは我を取り戻す。
そして報告を聞き終わるや、すぐさま絶望に満ちた表情を浮かべる。
「なんてこった……港から死角になる地形に包囲陣を敷いているなんて……と、とうとう慰問船が来ちまったんだ―――」
アイリーンはよろよろと数歩進み、そのままがっくりとうなだれる。
「終わりだ……もう……なにもかも……」
「……ねぇ、そう悲観的になることはないんじゃない? たとえダージルたちが慰問船を乗っ取ったとしてもそんなに大事になるとは思えないんだけど。周辺海域はご存知の通り荒れてるし波の民はグラディアート家にしか忠誠を誓ってないんだからダージルたちになびくとは限らない」
アイリーンを励まそうとしているのか、ノーマはポジティブな意見を口にする。
「むしろムリヤリ脱獄したアイツ等を道連れにそのまま自滅してくれるんじゃなくて? だったらむしろ好都合じゃない」
「ダメなんだよ……そういうことじゃないんだ……そんな単純な話じゃないんだよ」
「なにそれ? どういう意味よ」
「これ以上罪を重ねる前に囚人たちを止めてほしいってセシリアの願いもあった。だけどそれだけじゃない……この問題は我々の生死にもかかわることなんだ。だからなんとかして止めたかった……」
「私たちのって……どういうことよ!?」
「この島は島じゃないんだ」
「…………………はぁ??」
その意味不明な発言にノーマはいらだちをあらわにする。
「この島は遺跡なんだよ。先史時代の」
そんな気分を知ってか知らずかアイリーンは膝を叩きながらゆっくりと立ち上がる。
会話をしている内に気が紛れたのか完全に冷静さを取り戻した様子だった。
「グラディアート家に代々伝わる古文書によってこの島は先史時代の遺跡だと判明している。……正確には遺跡の力で地層が幾層にも重なっているんだけどね。そう、遺跡は不思議な力を発していてそれが近海の海流があれている原因なんだ」
「は? は、初めて聞いたんだけど?」
「漏らすだけで極刑になる事項だからね。でもここまできたらもう関係ない」
「いや、でも、その、意味分かんないんだけど。遺跡? だからどうしたっていうのよ? それがさっきの話となんの関係があるのよ?」
「……この遺跡はオーガニックジェネレーター実験場、人の生態活動そのものをエネルギーに転換しているんだ。この時代においても機能が損なわれていない稀有な遺物なんだ。この島を監獄島として活用したのはその特性があったからこそだ」
「……………はぁ? オーガニック?? そ、それってつまり、私達の生活そのものが遺跡のエネルギーになってるってことなの??? それがいったい」
そこまで言ってノーマはハッと息をのむ。
「えっ、アンタさっき……ま、まさか……」
「……そういうことなんだ。この遺跡はもともと牢屋ひとつ分くらいの大きさしかなかったんだ。それが大勢の罪人たちの生活の積み重ねで島にまで肥大した。つまり絶え間ない囚人たちの活動がこの島を形作ったんだ」
「じ、じゃあ、もし、万が一、囚人たちが大量に脱獄でもしたら……」
そこまで言ってノーマは後悔した。
その先に待ち受けている真実が、途方もない絶望だという事を知りたくはなかったから。
だがアイリーンは人の気持ちなど何ら考慮せず真実を告げてる。
彼女の空気の読めなさを、ノーマは改めて目の当たりにするのであった。
「決まってるさ。人の活動が途絶えた瞬間、この島は崩壊していくだろうさ」
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N2は目をとじて身じろぎもしていなかった。
もう何も考えない、ただ死を待つだけの糞袋と化していた。
だが、何かが来た。
目を閉じているはずなのに、明かりもささない牢獄なのに、
どこからか明るい空間が近づいてくるのが分かった。
そして予感がした。
理屈ではない。
ただ分かった。
そして周囲が明るいモヤに包まれその中央に待ち望んだ人物が立っていた。
優しいまなざしでこちらを見つめながら。
声が出ない。
体も動かない。
もしかしたらこの空間では自分に発言権はないのかもしれない。
だとしても何か言わなくてはいけない。
そんなはやる気持ちを理解しているのか、彼女はやさしく微笑んだ。
そして語りかけてくる。
『おまえに出会えてよかった』
そんなはずはない。自分のせいで貴女は不幸になった。
そう言いたかったがそうではないと分かった。
言葉から包み込むような大きな愛を感じたのだ。
そして彼女が遠ざかっていく。
もう? こんなにあっさりと?
なんとかしたかったがどうすることもできなかった。
N2は立ち尽くすことしかできなかった。
そして夢が覚めるように光が薄くなっていく。
彼女は最後にうるんだ瞳を向け、もう一つだけN2に告げた。
『ありがとう。うれしかった。あとは―――お前の好きに生きろ』
そしてこの世ではない空間に風が吹く。
その風を合図に空間は消え去り、現実世界が舞い戻ってくる。
後に残されたN2はしばらく横たわっていた。
動くことができなかった。
体中が悲しみと歓喜にあふれていた。
そしてその姿勢のままぼそりとつぶやく。
「会いにきてくれたんだ…………僕がこんなだから…………」
そうつぶやいた瞬間、何かが吹っ切れた気がした。
そしてとりあえず立ち上がろうと思った。
ゆっくりと、ゆっくりとした動作で立ち上がるN2。
そして立ち上がると、次に自分が何をしなければならないかが分かった気がした。
「好きに生きろ、か。……フッ、アナタらしい」
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「見えたぞ。我らの希望の船が」
地平線の彼方から向かってくる光にダージルは興奮を隠せない。
鼓動の音が大きすぎて他に何も聞こえない。
かつてここまで胸躍らせる出来事があっただろうか。
「ダージルさぐはぁ」
近くで何か聞こえた気がしたが気のせいだろう。
それほどまでにダージルは己の輝かしい未来に陶酔しきっていた。
「よしっ! 皆の者そろそろ配置につけっ! 我々の夢がかなう時がきたぞっ!!」
そして覗いていた鏡筒から顔を上げ指令を出す。
だが、なぜか周囲には誰の姿もなかった。
「…………ん? どうした? なぜ誰もいないんだ?」
いぶかし気に辺りを見回すダージル。
すると闇の一角がぬるりと動いたのが見えた。
「ひっ! な、なんだ」
見間違いかと思った―――が、そうではない。
闇は明確な意思を持ってこちらへと向かってきていた。
そして至近距離でその闇を見たダージルは思わず口ずさんでしまう。
この世界において言ったが最後、絶対に助からないであろう言葉を―――
「あ、悪夢――――」
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アイリーンは机に突っ伏し寝息を立てていた。
あの後―――さんざん泣きわめき、そしてナイフを握りしめ特攻しようとしたところをノーマと囚人に全力で阻止された―――彼女は寝落ちしてしまっていた。
穏やかだがどこか諦念を含んだその寝息を聞きながらノーマは手にしたナイフをもてあそぶ。
「はたして溺れ死ぬのとナイフで死ぬの―――どっちが楽かしらね」
そう言いつつ自らの喉元にナイフの切っ先を当ててみる。
ノーマは、監獄島に転属になってから自分の命にあまり執着をしていなかった。
すでに未来は失われたと思っていた。
だというのにそれ以上ナイフを押し込むことはできなかった。
もはやどれだけ時間が残されているか分からない状況だというのに。
「ふふっ、なんだ、私、命が惜しいんじゃない。ぜんぜん平気じゃなかったんだ。あははは」
一人笑い転げるノーマ。その目尻から輝くものが流れ出す。
「ふふっ、それにしても最後がこんなヤツといっしょとはね。まったく、前世でどんな悪行をつんだって言うのかしら私は」
「すぴー、すぴー、おねえちゃんまっててね、すぴー、すぴー」
「……ナリだけでかいガキといっしょなんてさ……」
「すぴーこのテンタクルクラ―――で、ダテンシをぶっ殺しまくるから……ね、すぴーすぴー」
「いやどんな物騒な夢みてんのよこの子!? ホンっとにもう最後の最後までしおらしさと無縁なんだから………ふふっ、あはははははは」
「すぴー…………ん? あ、あれノーマ…………?」
「あら、起こしちゃった? 寝てていいわよ」
「あ、うん、じゃあお言葉にあまえて………………って、ダ、ダメだろぉぉ、そんなのぉぉぉ、ダ、ダージルたちはどうしたっっっ!?」
「どうしたって……知らないわよ。どうせ私達にできることなんてないんだから」
「それでも最後の最後まであがくのが人間だろっ!? 人の矜持を忘れちまったのかっノーマぁ!?」
「まったく最後の最後までいらつかせてくれるわね。理性があるからムダなあがきをしないのよ。むしろアンタも最後くらいちょっとは落ち着いてみたら?」
「バカ言えぇ! それにセシリアだってそんなことは望んでない」
「――――――だぁ」
「死んだ人間の望みなんてどうだっていいわよ。それより元をただせば貴女が島の真実をキチンと説明していればこんなことにはならなかったのよ!」
「――――――だぁよぉぉ」
「しょうがないだろトップシークレットだったんだからっ!! それにこんな荒唐無稽な話どうせ言ったって誰も信じないよっ!!」
「―――――――へんだぁぁよぉぉぉぉ」
「そうねアンタ人望ないもんね! きっと頭のおかしいかわいそうな人って思われるのが関の山でしょうよ!」
「なんだとこのっ」
「――――たいへんだぁよぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「「ん?」」
その時、つかみ合いののしりあう二人の間をマッチョハゲ囚人が割って入る。
かなりの距離を走ってきたのか全身汗まみれで息も絶え絶えであった。
「ど、どうしたの??」
「と、とにかくきてくれぇぇぇたいへんなんだよぉぉぉぉ」
「この距離で叫ばなくていいわよ! おちついて話しなさい」
「はぁはぁはぁ、た、た、み、みんな死んでるだぁよぉぉぉぉぉ」
「「はぁあああああ????」」
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マッチョハゲにいざなわれ旧監獄棟から外へ出たアイリーンたちは絶句する。
「これ……全員……なのか……?」
ミレニム漁港の魚市場をアイリーンは目にしたことがある。
水揚げされた魚が漁港の床を埋め尽くさんばかりに並べられていた。
それと似たような光景が今目の前に広がっている。
だが大きく違うのは目の前に並べられているのが魚ではなく人間であることだった。
視界の端から端まで等間隔に、数列にわたって並べられており、その全てがピクリとも動かないさまは壮絶だった。
「うっ、おぇっ」
気丈にふるまっていたノーマさえこの凄惨さに耐えられなかったのかえづいてしまう。
アイリーンは、しばらく黙ってこの地獄絵図を眺めていた。
「これ……N2がやったのか……? そうだよな、そうとしか考えられないよな……でもお前約束したんじゃなかったのか……もう人は殺さないって。それなのに、こんなに大勢をやっちまって……いくらどうしようもなかったからってこんな……こんなこと……ふざけるなよ……」
拳をぎゅっと握りしめ、アイリーンは叫ぶ。
「ばっきゃろぉぉぉ!!! セシリアとの約束をやぶりやがってぇぇぇ!!! おまえなんてN2じゃねぇぇぇぇ!!!」
その叫びは風に乗り平原を駆けていった。
そして―――
「―――――――テェ」
「クソ野郎がぁぁぁぁぁ!!!!!!!!! はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ………………ん? あれ……今なんか言った??」
「いや、なんも言ってねぇだ」
「――――――――テェ」
「いや、でもなんか聞こえて…………アレ??」
「―――――――イテェ」
「…………………………んん??」
「「「「「「イテェェヨォォォォォ」」」」」」」
その叫び声が呼び水となり一斉に声が上がる。
「ああっ、ほ、ほしが、ほしが見えるよぉぉ―――――」
「ごめんないごめんなさいごめんなさいごめんなさいもう殴らないで殴らないで―――――」
「ほねがぁぁぁほねっほねぇぇぇ」
「アァーーーアッァァーーーーーー」
「こ、こないで、こないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「おっ、おっ、おっ、おっ、おっ、おかあちゃ~~~~~んんんんん」
「あ、あくむが、あくむが――――」
並べられた死体から上がる苦悶の大合唱。
彼らはすべからくアンデッドなのか。
いや、違う。そんなはずはない。
すでに東の空は白み始めているのだから。
「これまさか、これ、全員……生きてる……? 生きてるの……? この大人数を一人も殺さずに制圧したっていうのか……?」
アイリーンはその場でどっと崩れ落ちる。
そして慌てて駆け寄るノーマとマッチョハゲを手で制す。
彼女は泣いていた。
泣いている顔を見られたくなかったのだ。
だが、悲しくて泣いているわけじゃない。
嬉しくておかしくて、それで泣いているのだ。
「ははっ、前言撤回だよ。間違いない。間違いなくアイツはN2だっっ!!!」
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アナタはもうどこにもいない。
涼やかな声を聞くことも、
やさしいほほ笑みを見ることもできない。
だけどアナタがくれた言葉がこの胸の中に残っている。
コートの中にはたくさんの想いが詰まっている。
それだけあればきっとどこまでだって歩いて行ける。
悪夢はまだ終わらない。
「夜明けだ―――」