第8話 美しい追憶
セーレム──ヴァルハサン帝国の東の隅に飛び出るように存在する、小さな町にて生を受けた。
数十年前に戦争に敗れ、ヴァルハサン帝国の支配を受け始めたばかりの国だった。支配者が変わり、法が変わり、紙幣が変わった。町並みも暮らしも激変していく──幼い頃の"わたくし"はそれが当たり前だと思っていたものの、大人たちは皆一様に不安気な表情で染まっていた。特に奴隷法が整えられたことに対する反発は、強かったように思う。
とはいえ、この小さな町では事件も少なく、飢えることもなく、それなりに幸せに暮らしていた。
"わたくし"は遠い東洋の地で生まれ育ったという母に似て、黒い髪と赤い目を持って生まれてきた。母ほど濃い色素はしていなかったが、それでもやはり珍しかったと思う。しかし町の人たちは皆、母にも"わたくし"にも優しかった。人とは違う美しさを持つ──そう言ってくれたのは、酒屋の奥さんだっただろうか。
父は物心ついた時から既に記憶にない。姿形も母と瓜二つなので、容貌の想像すら出来ない。そこに疑問は抱けど、特に気にせず日々を重ねていた。
母は町で医者をやっていた。とはいえ、やってくる人々は咳が出ているわけでも、身体が熱いわけでも、どこかを怪我している訳でもない。母は見えない病気を治す、と言っていたが幼い"わたくし"は首を傾げ、笑われてしまった。けれど"わたくし"は、不安気な表情で訪れた客人が帰る頃には笑顔になる──そんな、魔法のようなことが出来る母が大好きだった。
──しかして、世の中とは不条理なもので。
魔法のようだと思ってたのは"うち"だけではなかったのだ。
いや、実際は別に魔法だ何だなんて信じていなかったのかもしれない。魔法じゃなくても良かったのだろう。ただ"魔法かもしれないと思わせるような理由があれば"──それで、よかったのだ。
「やめて、やめて、やめてよ……」
絞り出した、声ともいえないようなか細い音は、周囲のざわめきで掻き消された。酒屋の奥さんが回すように肩に乗せていた手を、強く握ったのが分かる。
そろりと目を向けると、視線に気づいたのかピクリと肩を揺らした。眉根を寄せ、何かに耐え忍ぶかのような表情を浮かべたまま、彼女はそっと膝を折った。しゃがみ込み、"うち"の両の目を覗き込むと──頭を抱えるように、強く抱き締める。
「大丈夫だよ。大丈夫──私達が、居るからね」
そう言い聞かせるように囁く彼女の声は鼻にかかり、震えていた。声だけじゃない。後頭部を押さえつける様に添えられた手も、まるで極寒の地に放り込まれたかのように、小刻みに震えていた。
ひとつに縛られた、赤味のかかった髪が首元を擽るが、嫌悪感はない。抱き締め返す余裕もなく、されるがままになった。
「帰りましょう──シャガ」
右手にそっと手が添えられ、背中に暖かいものが触れる。奥さんは"うち"を促すように歩きだそうとしたが、足が動かない。大きく痙攣する足を見て、奥さんは暫く考え込むように顎に手を当てた後、そっと脇の下に腕を通す。意図せず身体が宙に浮き、思わず力を込める。
軽々しく"うち"を持ち上げ、右腕の上に座らせるような形を取るなり、奥さんは後頭部に手を置いた。髪を梳くように優しく何度か手を往復させて撫でる。最後に再度、頭を包み込むように寄せると、大きく前へと一歩、踏み出した。
「大丈夫よ。大丈夫。大丈夫だからね」
呪文のようにそう繰り返す彼女の瞳には、暗い影が宿っていた。まるで心ここにあらずだ。ただ、繰り返さなければならないという様子で、ブツブツと口だけを動かしている。口角は上がってはいるものの、彼女の表情は到底笑顔と呼べるものではなく、強張っていた。
ふと身体を捩り、惜しむように後ろを見ると、一目見ようと人だかりが押し合っていた。祭りのように賑やかに前へ、前へと詰め寄り、声を上げている。
その中心には、一本の川が流れている。よく暑い時期になると母と水浴びをしに来ていた記憶がある。誰が手入れをしているかも知らないが、エメラルドブルーに輝く姿にはゴミひとつ落ちて居なかった、はずだった。だが、今日は違う。その水面には──
──黒い髪が、流れるように踊っていた。
手足は麻縄で強く縛られ、雪のように白い肌に食い込んでいる。小さな鼻を挟んだ重い瞼からは微かに赤い瞳が、遠くなる"うち"の瞳を、覗き込んだ気がした。




