第7話 美しくない魔女
黒く塗り潰された小窓のついた扉の隅に、金色の複雑な模様が掘られた重たそうな取っ手がついている。白く細い腕が宙をふわりと舞い、躊躇うように指先が模様をなぞる。きゅ、と唇を一文字に結ぶと、大胆に掴み、勢い良く引き開けた。
扉の向こうは薄暗く、やや狭い。長方形に伸びる床の上に背の高いカウンターと椅子が並ぶ。壁にはいくつもの棚が並べられ、お酒のボトルが所狭しと座っていた。酒屋──と聞いていたが、想像とは少し違ったようだ。陽がまだ登っているからか、店内に人の姿は見当たらない。
「いらっしゃい。おひとりさまで?」
カウンターの中でグラスを拭いていた華奢な女性が、声をかけて来た。灰色──ではなく、赤味のかかった、紅茶を思わせるブラウンの髪の女性だ。女性というよりも、女の子と言った方が相応しいかもしれない。くりくりと丸く大きい、エメラルドの瞳が愛らしい。
「あの……シャガ──」
モードが扉に半身を隠すような形のまま訪ねようとすると、言い終わらない内に女の子が眉根を寄せ、目を細めた。思わず口を噤み、見つめ合うこと数秒。不意に女の子は目の前の席に手の先を向けた。
「どうぞ。立ち話も何だし、座って」
「あら……ありがとう」
ぎこちなくモードは椅子の背もたれを引き、よっこらしょと手間取りながら席に着く。足が地面に届かず、どこか違和感だ。女の子の方へとチラリと目を配らせると、先ほど拭いていたグラスに氷をたっぷり入れ、何やら黄味がかかった液体を注いでいる。黙ってその様子を見ていると、女の子の方が先に口火を切った。
「呼んでくるから、ゆっくりしてて。おかわりあるから遠慮しないでね」
女の子は口を動かしながらモードの目の前にコト……と小さな硬い音を立てつつグラスを差し出す。頭を軽く下げると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。無邪気に頬を緩め、はにかむように歯を見せて笑う。幼い顔立ちからか、とても愛らしい。
ぶんぶんと手を大きく振り、女の子は店内の奥の扉へと姿を消した。スキップのように軽い足取りはどこか小動物を思わせる。カウンターの奥に段があるらしく、彼女の全身像は想像よりも小さかった。モードより頭ひとつ分程違うかもしれない。
扉が閉まったのを確認して、そっとグラスを手に取ると、中で液体がゆらりと波打った。アルコールが入っていないだろうか、と鼻を近づけると、フルーティーな香りがする。どうやらジュースのようだ。
「いただきます……」
呟くと、静寂の中に声が響き、思ったよりも自分の声が大きく聞こえた。ぐいとグラスを傾けるれば、トロトロとした液体を喉へと注ぎ込む。くどい程のやわらかな甘味が一気に広がる。
──美味しい。
普段は両親の真似をしてティーカップでゆったりと飲めるものばかりを嗜んでいたモードにとって、それは初めての感覚だった。森の中をひとりで抜けてきた為、丁度渇いていた喉が潤い、冷たさが尚心地良い。一気に飲み干し、グラスを戻すが早いか、扉の向こうからバタバタと物音がした。勢い良く開かれた扉から、雪崩れ込むように二人の人影が飛び込む。
「ごめんね、お待たせ!もう、お嬢ったら起きないんだから!」
女の子が呆れたように首を左右に振りつつ苦言を呈すと、えへへ、と口角を上げてみせた。後ろから引っ張られるように連れてこられた女性は腑に落ちないとでもいうような様子で、後ろ首を掻いている。少しはだけてはいるが、東洋の民族衣装を思わせる豪奢な衣装に身を包んだ女性──シャガだ。
──いや、シャガではない?
正確にはシャガだ。シャガなのだろう。だが、ふわふわと緩く、シニヨンのように組まれていたはずの灰色の髪はあっちへこっちへと跳ね、だらしなく肩ほどまで垂れている。やや重たそうな瞳から覗いていたはずの灼眼は、最早開いていない。
彼女は開いているのかどうかも分からない瞳でぼんやりとモードを見つめると、へらりと笑みを浮かべた。だが、その笑みは弱々しい。いつしか読んだ怖い絵本に出てくる亡霊を思い出し、背筋に冷たいものが走る。
「……ああ、お前さんか。いらっしゃい」
今にも消え入りそうなか細い声でそれだけを言うと、ずるずると重たそうに身体を引きずりながらカウンターを周り、隣に座る。スローペースではあるものの、優雅さは天に召されたようだ。シャガが座り、カウンターを覆うように首を凭れると、女の子が頬を膨らませた。
「もう、お嬢ったら!低血圧なんだから!」
「仕方ないじゃろう……ところで、一人足りないのぅ?」
カウンターに垂れた髪の隙間から、赤い輝きが射抜いた。鋭く光るその瞳には、どこか無言の威圧感を感じる。思わずモードは背筋を伸ばした。
「ええ……アニタのことはあの子の意思に任せておりますの」
今頃アニタはといえば、掃除の続きに追われていることだろう。今日は床を拭いてまわるのだと張り切って袖を捲っていた姿を思い返す。心配性なアニタのことだ、もしかしたらモードの身を案じているかもしれない。
シャガは興味なさ気にふうん、と声を溢した。顔を上げると、どこからともなく取り出した、細く長いパイプを噛むように咥えた。そのまま、カウンターの内に居る女の子を顎で示す。
「この娘はシャロン。で、こっちがモード」
「あたしは主に情報収集や物資支援を担当してるよ。よろしくね!」
シャロンと呼ばれた女の子は両手を合わせ、うさぎのように飛び跳ねる。その度にサイドでひとつに結われた赤みのかかった髪が宙を舞い踊り、愛らしい。身近な女性といえば自身の母親かアニタのみ。女中とも距離や壁を感じていたモードにとって、口数の多い明るい女の子というのは新鮮だ。キャッキャッと高く響く声で挨拶をされ、モードも「よろしくお願いしますわ」と復唱する。
「うちは、あと3人入れて計5人のメンバーで構成された……うん、つまり──テロリストじゃな」
「テロリスト」
予想以上にハッキリと犯罪者宣告をされてしまい、思わず鸚鵡のように返す。ヴァルハサンに痛い目を見せる──その時点で分かってはいたが、どこか拍子抜けしてしまった。
「まあ実際みんな目的がたまたま同じなだけで、それぞれがそれぞれの理由で動いてるって感じだけどねー」
眉尻を下げて首を傾げ、困ったようにシャロンがはにかんで補足した。一方シャガは澄ました顔で口をもごもごと動かし、ぽ……と唇を弾かせる。白煙が、絵に描いたような円を結んで薄暗い空間を浮かび上がった。暫く宙を漂い、雪のように溶けて消えてしまう。そのぼんやりとどこか遠くを見つめている瞳に、問いかけた。
「あの、シャガさんは……」
──どうして、こんなことを?
にんまりと口の端を吊り上げ、狐のような笑みが刻まれる。それを訊きに来たんだろう、とでもいうように、瞳だけがモードを見た。見透かされているようだと感じるのはやはり気持ちのいいものではなく、腕にぽつぽつと粒が浮かび上がる感覚が自分でも分かる。眉根を寄せると、シャガは人差し指と中指でくるりと弄ぶようにパイプを回し──モードの額に、突き付けた。
「恥じることでもない。見せてやろう」
その言葉と同時に、視界が白く染まる。激しいフラッシュを炊かれた時のようだ。何度か素早く瞬きを繰り返すも──直後、落ちる感覚に襲われてしまう。飲まれるように闇へと意識が奪われ──
モードは、深い眠りへと落ちた。




