第6話 美しき涙
「お引き取りください」
森の深く深い奥に存在するためか、まるでこの空間だけを残してぽっかりと消えてしまったかのような静寂と薄暗さの中、凛とした声はハッキリと鼓膜に届いた。アニタはいつも通りの無表情のままだったが、その声にどこか刺々しさを含んでいる。
「森の夜道は危険です。どうぞ、今日の所はお引き取りを」
相手が口を開くのも待たぬまま、アニタは鋭く言葉を連ねる。口調こそ柔らかだが、まるで、有無も言わせぬとでもいうのか、その言葉はきっぱりとしていた。
"魔女"はつまらなさそうに口を尖らせ、机を覆うように前のめりになった。頬杖を突き、パイプを軽く指先で弄ぶように振りつつ、伺うようにアニタを見詰める。ふたつの灼眼から放たれる視線が交錯すること数秒、先に動いたのは"魔女"の方だ。そっとパイプを袖の中に収めた。
「そうじゃのぅ、気持ちの整理がつかずとも構わぬが……答えを急かすつもりもないけん」
「ご理解頂き、感謝申し上げます」
アニタは素早く"魔女"の座る背もたれに手を添える。手慣れたエスコートにされるがまま"魔女"は立ち上がった。そんな様子ですら現実味がないというように困惑し、あからさまに目線を泳がせるモードを横目で見る。
「森の麓に酒飲みの店がある。シャガを訪ねて来い」
捨てるようにそう言い残すと、シャガは背を向け、左手をひらりと優雅に振った。東洋の衣装を着崩したかのような重そうな衣装を引きずりながら、彼女は穴だらけの床を迷うこと無く早足で歩く。
アニタが立て付けの悪い玄関の扉に手をかけ、何度か押したり引いたりしながら開けてどうぞ、と促すとシャガはぴたりとアニタの前で足を止めた。
「………………気をつけてお帰り下さいませ」
疑問に思いつつ別れの言葉を述べるも、シャガは足を進めることはない。彼女はまじまじとアニタの足先から頭の頂までをゆっくりと何度も舐めるように視線を滑らせ──そして、少し深い赤色に輝く両の目をまじまじと見つめた。
無表情でこそあるが、アニタは何事かと相手を見つめ返し首を傾げる。口を開こうとしたその瞬間、す……とシャガの右腕が伸びた。
彼女はアニタの後頭部に手を乗せ、くしゃり、と乱暴に一度撫でた。腕に巻かれている赤色の腕輪が額を軽く叩く。すぐに手を降ろすと、シャガは灰色の髪を揺らしながらくるりと踵を返し、何食わぬ顔で一歩右足を進めた。
「ありがとな」
その一言だけを残し、シャガの背は段々と小さくなっていく。暗い森の中に派手な格好が溶け消える頃にこの家に残されたのは、ぽかんと口を開けたモードとアニタ、ふたりだけだった。
木の生い茂る先の暗闇を暫く見つめた後、アニタはハッと目を見開き、我に帰る。玄関を一度閉めるも立て付けが悪いためか隙間が出来てしまい、もう一度開けて勢いをつけて閉めた。大きな音が部屋に響くも、モードは微動だにせず、ただひたすらに一点を見つめている。少し膝を折って隙間がないのを確認すると、モードに早足で近寄った。
「モード様、大丈夫ですか」
「…………ああ、アニタ、ごめんなさいね。そういえばわたくし、客人をお見送り出来ませんでしたわ」
口では謝っているものの、その表情はどこか心伴わないといった様子だ。背に手を添えるも、モードは特に反応を見せない。ぼんやりと明かりを振り撒く簡素なランプに視線を注いでいる。
アニタはそんな横顔から顔色を伺う。恐らく想像もつかないことを言われ、未だ混乱しているのだろう。彼女は父が大好きで、そんな父が愛し、貢献しようとしていた国が大好きだった。だからこそ今回も理不尽を呑んだが、それは恐らく──どこか、現実ではないと思っている甘さがあった。
モード自身が気づいているかは分からないが、彼女は分かっているようで、分かっていないのだ。現実を受け入れているようで、実は受け入れていない。掃除を積極的に手伝っていたのも悔し紛れと、こんな生活が一生続くことはないだろうという慢心。
気づいてはいたが、アニタは貴族の令嬢、加えてチヤホヤと持て囃されて生きて来た身としては仕方のないことなのかもしれないと見過ごしてきた。
しかし先程の話の返答をするのであれば、現実を受け入れざるを得なくなってしまった。受け入れたくないという逃避。権力を失い、誰にも頼れなくなってしまう恐怖。大好きだった人達に裏切られた孤独と、理不尽に対する悔しさ。もう二度と元の生活には戻れないという、現実。そして、大好きだった筈の故郷と両親に反旗を翻そうという、提案。
そんな想像もつかないその全てが、たった今の今まで甘えて生きてきた彼女に流れ込み、精神を蝕む。
何も出来ないもどかしさに、アニタはどうしようかと周囲を見回す。机の上にふたつ置かれた、一口分だけが残ったティーカップに目を留めた。暖かな飲み物でも作ろうとティーカップに両手の人差し指を通した時──モードが小さく唇を割った。
「アニタ……あなたは、どうしますか」
どういう主語なのかは正直分からない。モード自身も何を言っているのか分かっていないと言った様子だ。ただ、道標が欲しい。こうするべきだと、先導して欲しいだけだ。若しくは、それが嘘であっても、元の幸せな生活に戻れると──安心感が、欲しい。そう訴えかけるモードの弱々しい視線に、アニタは自身の唾液を飲み込んだ。
「────私は、」
どう答えるべきだろう。何が正しいのだろう。何をすれば彼女はまた、幸せになれるのだろう。そもそも何故、彼女は今こんな目に遭っているのだろう。サッパリ分からないが、ただひとつだけ、アニタは確信して言えることがある。絶対に変わらない、命に変えても揺るがない、たったひとつの覚悟がある。
「何があろうとも、貴方に着いて行きます」
──絶対に、独りにはさせません。
そう返すと、青い瞳は潤んだ。みるみる内に大粒の雫を溜め、堰き止められていたダムから溢れ出すかのように、次から次へと白い肌を伝い、幾度もの線を残す。モードは桃色の唇を開き、赤い舌を覗かせると、子どものように声を上げた。
自身の名を呼んでくれる彼女の笑顔が脳裏に過ぎる。鼻の頭がツンと痛み、目の表面がじわりと暖かくなった。思わずティーカップから指を離し、その手を彼女の細い首筋へと回した。肩に顔を埋め、強く力を籠める。
────嗚呼、神様が本当に居るのだとしたら。
私はつくづく、愛されていない。




