第4話 美しき追憶
──神が存在するのだとしたら、きっと私は愛されていない。
縛られた両腕では抵抗することも出来ない。
元より、抵抗する気もないのだが。
一枚、また一枚と服にナイフが通される度、嘲笑にも似た喝采が響き渡る。
前を向いても、右を向いても、左を向いても人の目。人の目。人の目。煌めく金色の装飾が私には、眩しすぎる。やり場がなく、強く瞑る。言い聞かせるように何度も同じことを繰り返し念じる。
──そうだ、感情を捨てろ──名前すら無い私には神を拝む権利すら与えられない──私は神に愛されていない──神が本当に居るのだとしたら、私は
「キミは、娘のお友達になれるかな?」
──神?
「不器用な子でね。友達が居ないんだ」
──私は神に会ったことがあるのではないか?
「歳も近いから、きっと良い友達になれる」
──私は、何かを忘れていないか?
「そうだ、娘の名はね、■■■」
──そうだ、忘れてはならない。私は──私の名は。
「────アニタ?」
身体が上下にビクンと跳ね、意識が勢い良く現実に引き戻された。状況を把握出来ず周囲を見回す。
木で作られた骨格が剥き出しの天井。4畳ほどの部屋に、歪なフローリング。少し古く、埃を被った、引き出し付きの小さなサイドテーブル。その上に簡素なランプが置いてあり、少し心許なく部屋を照らしている。そして覆い被さるように覗き込む──
「………………モード、様……?」
「大丈夫?魘されていました」
高鳴る鼓動を落ち着かせようと、ゆっくりと上半身を起こそうとすると、モードはアニタの背に手を添えてくれる。片手で枕を引き寄せ、敷いて座った。モードもベッドの隅に腰を降ろす。
「大丈夫です」
答えると同時に、額から暖かいものが流れ落ちる。その汗は顎に溜まった。右手の甲でそれを強く拭うと、ヒリヒリと焼けるような痛みでこれが現実なんだと実感する。
優しく微笑みを浮かべるモードの表情を見て、胸を撫で下ろした。安堵からか、思わず深い溜息が口を吐いて出る。我にかえり、口を片手で勢い良く覆った。
「すみません、つい溜息が……安心してしまって」
「気にしないで。大丈夫ですか?」
アニタの表情を見て、モードは喉の奥でくつくつと笑った。普段、眉ひとつ動かさず口を一文字に結んでいるアニタの姿を見慣れたモードにとって、このように表情を見せるのは珍しい光景なのだ。自身を見て安心してくれる嬉しさも含んでおり、どこかこそばゆい。
優しく問いかけられ、アニタは無言で素早く頷いた。宝石のように輝く、明るい碧眼をまじまじと見詰める。先程の夢の続きが、ぼんやりと思い出される。
──名前がないのは不便だな……ローレンスなんてどうだろうか。
重厚なテノールボイスは先程の夢にも出て来た。丁寧に手を加えられた顎髭が思い浮かぶ。彼は自慢の髭を擦りながらうんうんと首を捻らせていた。これは旦那様の癖だ。
──あら、この子は女の子よ。可哀想だわ。
そう厳しく言い放つ、しっとりと絡み付くようなこの声は奥様だ。艷やかな金色の髪に毎朝櫛を通すのが、アニタは大好きだった。三つ編みを円を描くように固定した髪型がお好きで、気合を入れる時はいつもアニタを呼びつけていた。
──アニタなんて、どうですか?変かしら?
そう無邪気な笑顔を浮かべて、両手でアニタの両手を包み込む。思わずビクリと肩を震わせるアニタにぽかんと目を丸くした後、微笑みを向けてくれる。この方の、まるで女神のような優しい笑顔を、ずっと忘れない。
今よりもずっと幼いモード・オドネルの笑顔を、アニタは目の前に座る女性に重ねて見る。
「……美しいかしら、アニタ?」
穴が開きそうな程凝視され、茶化すようにモードが首を傾げる。糸のように細く、艷やかな金色の髪が宙に舞い、彼女の白い頬にひと房かかった。はにかむように笑う頬は血色が良く、赤みがかかっており愛らしい。
あえて視線を逸らし、サイドテーブルの上に鎮座しているランプの光に目を配らせると、微かに頬が緩む感覚がした。一体今、アニタはどんな表情を浮かべているのだろう──笑えるように、なっただろうか。
「いつも美しいですよ。モード様」
そう茶目っ気を含ませて返すと、モードは完敗するかのように両手を肩の位置まで静かに上げた。その姿を眺めながら、改めて痛感する。彼女がたったひとり居てくれるだけで、こんなにも幸せになれる人間も居るのだということを。
モードは両の掌をひらひらと振りながら、弧を描く唇を割った。凛と美しく、ハッキリとした声がいつもよりも少し、柔らかい。
「明日は掃除をするのでしょう?あなたが手伝えと迫ったんですもの」
言葉の最後でモードは眉尻を下げ、苦々しく笑ってみせる。
その通り、この家の汚さは尋常ではない。辛うじて形が残っている、といった状態で家具はあれど埃が積もり、茶色の棚がペンキでも被せられたかのように真っ白になっていた。床は酷く軋み、所々抜けている。とても住めたものではない。
故に、今夜は疲れを取り、明日はたった2名の総出で全力で綺麗にすると約束したのだ。
アニタが頷くと、モードは片手を伸ばす。細く靭やかな指を揃え、そのままアニタの赤い瞳に封をした。
「疲れが取れないでしょう。安心して寝なさい──わたくしが傍に居ますわ、アニタ」
促されるがまま、アニタはそっとベッドに背を預ける。モードは手を退けて、アニタがシーツの波に溺れ瞳を閉じたのを見守ると、音を立てないようにランプから垂れる紐に手を伸ばした。
カチ、カチ、と硬く小さな音を立てて視界が失われていくその瞬間、アニタはひとつの決意を固める。
──明日は寝坊してやろう。
どうせもう、自分もオドネルの使用人ではないのだから、と。




