第11話 美しい風景
足を楽な位置まで開く。
ペンダントの先に手を添え、やや肩と腰に力を入れる。瞼をそっと降ろし、頭の中でイメージを膨らませる。魔力がペンダントに集まり、掌が少し暖かくなって来た頃に──呪文を、唱えるのだ。
「"プロテガー・フェンド"」
口を閉じるが早いか、視界が真っ白に染まる。瞳が眩み、何が起きたか分からないまま、足が地面を離れた。全身に痺れるような痛みが走る。皮膚が焼け落ちそうだ。
────不味い。
思った時は既に遅い。咄嗟に頭を下げるが、完全な受け身は間に合わないだろう。後は壁に打ち付けられるだけだ。衝撃に備えて目を強く瞑り、唇を引き結んだ。
──痛い。
────いや、痛くない……?
そのほんの一瞬だった。腰に何かが鞭打たれる。それは唐突に輪を描き、靭やかに二重に巻き付いた。反対方向へ軽く引っ張られ、勢いを無くしたモードは重力に流れ、下へと向かう。恐る恐る碧い瞳を覗かせると同時に、滑り混んだ赤いクッションがモードを抱き留めた。
いや、クッションではない。赤い豪奢な和装に身を包んだシャガだ。彼女は一息吐くと、すんなりとモードから手を離すと、何食わぬ顔で立ち上がった。崩れた灰色の髪を乱雑に片手で直し、服を払う。その後ろ姿を、モードは呆然と見つめた。
何が起こったのか分からないが、この様子だと、恐らくモードは失敗したのだろう。そして、どこからどう見てもシャガが助けてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます」
「いんや、構わん」
ゆっくりと半身を起こしながらお礼を言うと、シャガは振り返ることもなく素っ気なく返す。少しツンとした物言いだ。ヒラリと片手を優雅に一度上げると、彼女は反対側の壁まで向かった。踵を返し、そこに背を預ける。赤い瞳がモードを舐めるように見据えた。その視線はどこか冷たさを感じる。モードが口を開くより先に、赤い紅で彩られた唇が割れる。
「休憩しんさい」
どこか優しさも含まれたその声が、今のモードには攻撃的に感じられる。胸が張り裂けそうに痛み、抑え込むように胸元に触れた。眉根を寄せ、反抗するようにシャガに視線を向ける。彼女は素知らぬ顔でその場に腰を降ろすと袖口から細く長いパイプ──煙管というらしい──を取り出した。
座り込んでいるモードにシャロンがぱたぱたと駆け寄る。その手には可愛らしいキャラクターが刺繍されたタオルが握られていた。額から頬を通り、顎から幾度となく伝う雫を、そっと拭ってくれる。小さくお礼を言うと、シャロンは無邪気にはにかんだ。
ここは酒屋の扉を潜り、地下へと続く階段を降りた先の薄暗い一室だ。石造りの部屋で勿論窓はなく、重たそうな鉄の扉だけが取り付けられている。一見牢屋のような部屋だ、とは思ったものの、あまりに失礼だろう。モードが腹の底に仕舞い込んだのは記憶に新しい。
──わたくしの、覚悟よ。
そんな格好良いキメ台詞を言ったはいいが。あれから3夜明けたにも関わらず、モードは何の成長も変化も遂げられていない。片鱗でさえ見えていないのだ。
3日後に予定されているのはあくまで体験お試し版のようなもので、誰かが傍に着いてくれている、序でに自分は見ているだけで良いとの話だ。だが、それでも万が一に備えて劣らずとは言えない程度には何かが出来るようになりたい。──いや、勝手に自分は、なれると思っていた。
にも関わらず、今のモードはまだ自信満々にアニタに披露した、"魔力を光として放出する"魔法でさえ上手く使いこなせていない。
この調子で大丈夫なのだろうか。うっかり自分が足を引っ張ってしまったらどうしよう。自分がこんなにぐずぐずしている間に、他の人が刑に処されてしまっているかもしれない──自分のせいで。そんな思いが脳裏を早足で駆け巡り、モードは膝を叩いて腰を上げた。
「いえ、まだ出来ますわ。何か掴めそうなの。もう一回お願いします」
「休・憩・じゃ!」
シャガの眉根が近くなり、深い皺が刻まれる。一言一言を強調するようにピシャリと言い放たれ、思わず怯んでしまう。眉尻を下げておずおずと一歩近寄り、言葉を選ぶ。どうにか反論しようと小さく口を開いた。
「でも……」
「でもじゃない。休憩じゃ」
言い終わる前に窘められてしまった。シャロンが優しく肩に手を置いて座るように促してくれる。
あくまで自身は教わる身である。ぐっと堪え、その場に腰を降ろした。足裏から伝わる無機質な石の冷たさが、自分を責めているようだ。情けないのか悔しいのか、自分でも分からない。もどかしさに下唇を強く噛んだ。目頭が熱くなり、堪えるように強く瞼を伏せる。文字を眺めていた冒険記のように、自分の人生も上手く行くのではないかと思い込んでいた。その甘さを痛感する。
暫くそんな姿を眺めていたシャロンが目の前に膝をついた。膝の上にタオルを置き、モードのきめ細かな白い頬をそっと、挟むように手を添える。そのまま何度か力を入れて、頬の柔かさを楽しんだ後、歯を見せてはにかんでくれた。優しく言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「大丈夫。最初はみんなこんなもんだよ」
「………………はい」
「モード。貴方は自由なんだよ。時間なんて無限にあるの。ゆっくり習っていけばいいじゃん。何にそんな焦ってるの?」
「焦ってなんか……」
──ない、とは言い切れない。
早く力にならなきゃ。早く役に立たなきゃ。そんな思いがモードを責め立てているのは事実だ。焦っているとは自覚していないが、焦っていないとは言い切れない。何かに追い立てられている。そんな心境だ。
自分のように、大切な人を失ってしまう人が居るかもしれない。いや、居るのだろう。それも、自分のせいで。
自分は咎められるべきだ。レイラ・ジーヴァスを傷つけた。でも、それでは、巻き添えになった人達はどうなのか。嫉妬を買っただけの人ならば、どうなのか。ただ自分の美貌を恨むことしか出来ないのだろうか。それならそれでもいいのかもしれない。だが──自分の遺伝を、親を、恨むかもしれないとしたら。
──私に娘は居ない。
いつもなら優しく呼びかけてくれたテノールの重厚な声が、やけに冷たく感じたのを覚えている。笑い皺の刻まれた暖かく碧い瞳が、白く濁っていた。愛していたはずのその表情を自分はただ、見つめることしか出来なかった。捨てられたのか、裏切られたのか。そんなことすら考えられない程の絶望が、黒い渦となって自身を飲み込み、咀嚼する。それはあまりにも──耐え難く、怖すぎることだ。
ぼんやりと明後日を見つめるモードにの鼻先で小さな手が左右する。シャロンの呼びかけでハッと我に帰った。口角を上げてみるが、頬が引き攣っていてぎこちない。そんなモードの笑みを見て、シャロンは眉で八の字を作ると、困ったように微笑み返してくれた。
「大丈夫だよ、モード。うちには魔法が使えない子だって居るんだから。見捨てたりなんてしない」
「…………えぇ、そうね」
「例えば、センセーが変わるだけだよ」
悪戯っ子のようにうしし、と笑うシャロンを前に、背筋に冷たいものが駆け抜ける。思わず自身を抱き締めると、二の腕にぽつぽつと粒が浮かび上がっていた。
魔法の糧になるものは人の精神であり、心であると聞いた。故にそれを上手く使いこなせる人を魔法使いと称し、コツさえ掴めば誰でも使えるのだと。使えないというのは一体どういう状況なのかは分からないが、噂の人はどうやら剣の道に進んでいるらしい。流派などはなく、『暴れている』と称されるほど無茶苦茶らしいが。細身で背が高い女性が剣を振り回す姿は圧巻だと語っていた。──但し、敵味方問わずぶった斬る程の戦闘狂だと。序でに沸点もかなり低いと。
──何としてでも魔法を習得せねば。
嘘だと言って欲しい。シャロンに瞳で訴えかけるがピースサインを返されてしまった。硬直したまま、金魚のように口をパクパクと動かす。
そんなモードを見て、シャガが口をぱかりと大きく開いた。無機質な部屋に盛大な笑い声が響き渡る。一頻り笑い終えると、ふぅ、と満足気に深い息を吐いた。
「いいのぅ、そっちのが"らしい"けん」
「…………らしい、ですか?」
「ああ、らしいとも!今の気持ちを忘れんようにせぇよ」
正直言っている意味はサッパリ分からない。だが、とりあえず自分が焦っているということは二人にお見通しだったらしい。肩の力を抜け、ということなのだろう。精神力を使いすぎてしまっているのは、自分でも分かっていた。目を見開いて呆然と見つめるモードに相反して、シャガの目は細められる。片側の口角だけがにやりと引き攣った。
「何じゃ、呼んできてやろうか。オリヴィアって言うんじゃけどのぅ」
オリヴィアとは確か平和のシンボル、オリーブの樹が由来ではなかっただろうか。噂と違いすぎて逆に怖い。名前負けとかいうレベルではない。最早対義語だ。ぶんぶんと首を左右に大きく振ると、それを見たシャガが堪え切れず喉の奥からくつくつと笑いを零した。
「会う前から嫌われとるんじゃな、可哀想に。あんなに平和主義なのに。………名前は」
「完全にネタにされてますのね」
──いいのか、これで。
そう思いシャロンにジロリと視線を向けるも、可笑しそうに口を抑えて肩を震わせている。特に気にはしていないようだ。予想外に、噂のオリヴィアさんは常日頃からいじられているタイプなのかもしれない。段々自分の中のオリヴィア像が曖昧になってきた。
シャガは「あー面白かった」などと失礼すぎることをサラリと言うと、重たそうな装飾を揺らしながら腰を上げた。
「さぁて、ええか?休憩も終わりにせんと」
「…………あっ、はい!」
自身の声が響き渡り、壁が何度も復唱する。瞼を閉じ、深呼吸をする。
モードはそっと、ペンダントの先に手を添えた。




