面影は粉雪に咲き
藤埜と道風が組んだ仕事の噂が、纐纈の耳にも入るようになった。
藤埜は纐纈ほどの白術士としての才は無いが、丹念に術を繰る少女だった。
活躍の噂を聴く度、纐纈の胸は鈍く痛んだ。
その間に纐纈がしていたことと言えば、料理に掃除、洗濯などの家事仕事だった。
母の他にそれらをする女中がいることにはいるのだが、いずれ嫁に行く身なのだからと、この機会に厳しく仕込まれていた。
母より言付かって親戚宅に届け物をした帰り、纐纈は偶然、道風と藤埜が連れ立って歩いているところを見てしまった。
道風にしなだれかかるような藤埜を、道風がやんわり押し遣っている。けれどそれは、藤埜に手を添えているようにも見える。
「―――――…」
道風が纐纈に気づいた。
「纐纈さん、」
声とは真反対に踵を返して、纐纈は駆けた。
着物の割りに足の速い纐纈を、道風は往来で見失った。
纐纈は、そこから随分距離のある石橋のたもとに佇み、水の流れを見ていた。
この橋を渡って少し歩くと稲荷神社がある。
石橋は白い石を組んで作ったもので、小さな弧を描いている。
ちろちろと、銀の小魚の影が見える。
水面に先程の二人の様子が浮かんだ。まるで似合いの一対だった。
「どうした、白術士のお嬢さん」
声にはっとすると、立花頼迪がいつもの着流し姿で、石橋の向こうに立ってこちらをじっと見ている。慌てて目元を拭った。
上から楠の生い茂る影が二人を覆う。淡い緑だ。
蝉の声が聴こえる。
「立花頼迪さん…。貴方、私を尾行してたの?」
「そうだ、と言いたいところだが全くの偶然だ。こっちが尾けられてたんじゃないかと思うくらいだぜ。あんたとはよっぽどの巡り逢わせだな」
纐纈は袖の中の鷹の折り紙を掴んだ。
「おい、今日はそういうのは無しだ。腹、減ってないか。何か買って喰うか?」
纐纈はぶんぶんぶん、と音がしそうなほど頭を左右に振った。
とんでもない申し入れだ。急に軟化した態度を見せられても疑惑の念しか湧かない。
「無理もねえがそう警戒するなよ。何なら、あんたの知りたいことを教えてやるよ」
理由は解らないが、この景気の良い申し出は魅力的だった。いつも一緒の獺は、今は別行動なのだろうか。
――――…今日の頼迪は穏やかな顔をしている。
頼迪はゆっくり歩いて橋の欄干に腰掛け、纐纈はその斜め前に立った。
人通りの少ない長閑な場所である。
昔語りをするにはうってつけのような。
ざざ、と楠の葉が鳴る。
「未廣さんのことを聴いても……?」
恐る恐る、尋ねてみる。
頼迪は着流しの懐から煙草を取り出して、ライターで火を着けた。マッチを擦るものとばかり思い込んでいた纐纈には少々意外だった。
ふぅーーー、と紫煙を吹かして、遠い目になる。
「そっちか。道風のほうかと思ったんだが。まあ良い。未廣は林葉分家の娘だった。まだ少女の内から才媛として名高かった。あんたみたいにな。当然、俺も興味があって道風を使って近づこうとしたが、けんもほろろだったな。道風は姉貴の番犬だったぜ」
纐纈は和行の話を思い出す。
番犬みたいに姉に寄る虫を追い払っていた、と。
「……だが、興味を持ってくれたのは、未廣のほうも同じだった。秀才と名高い弟と競り合う男がいる、と聴いたようで、あちらから声をかけてくれたのさ。…まだ寒い時期、梅の花びらがちっせえ粉雪みたいに見える季節のことだ。―――――綺麗な女だった。あの時のことは何度でも思い出す、何度でも」
繰り返された言葉に頼迪の想いがある。
今は暑い時分だと言うのに、話に引き込まれた纐纈は梅の花びらの幻を見た気がした。
ちらちら、ひらひらと。
「道風おにいさまに似てらした?」
「ああ、面影があった」
ではきっと、しとやかな佳人だったのだろう。
「見た目と違って気が強くてな。俺がちょっと羽目を外すと容赦なく平手打ちが飛んだ」
予想と違う。
「羽目を外す…?」
「浮気だ」
ぷかり、と煙の輪が浮く。
纐纈は呆れた。
「未廣さんのような素敵な方がありながら、他の女性ともお付き合いしてたのですか!?」
纐纈の声に、近くにたむろしていた雀たちが一斉に飛び立つ。
「それはそれ、これはこれだ。尤もそれも、あいつが寝込むまでの話だがな」
都合の良い頼迪の言い様に呆れていた纐纈だが、話の後半に至って、は、と固唾を呑んだ。
「早かったよ」
死ぬまで。
「俺はそれでもあいつを諦められなかった。もう一度、笑ったり怒ったり拗ねたりして欲しかった。そんな未廣の顔を見たかった。…いや、そんなんじゃなくて良い、そんな贅沢でなくても良い、ただ息をしてさえくれればそれで良かった。それで俺が禁呪を行うのを阻むべく、道風が未廣の骨から髪から滅却した。完全に、」
頼迪が左目の横の傷を掻いてから、煙草を持った掌を天に向ける。
「この世から亡くしてしまった」
紫煙が昇る。
頼迪は泣いてはいなかった。
寧ろ口調は恬淡として乾いていた。
――――――――そのぶん一層、傷口の深さが纐纈には察せられてしまった。
幼子を慰める要領で、実際には背伸びした。
煙草の匂いをさせる大きな子供を柔らかく抱き締める。
帰らないものはある。
それは絶対的な真理で、誰にも覆すことなど出来ない。
嘆き悲しみに暮れても良いだろう。
遺された人の権利だろう。
暮れが過ぎれば明けが来る。
「纐纈さん――――」
道風の声がして、纐纈は驚き頼迪から身を離した。
今まで纐纈を捜し回っていたのだろうか、珍しく息を乱して、道風が橋の近くに立っていた。
「道風おにいさま、あの」
道風は纐纈の声を聴かず、怖い顔になるとずんずん二人に近づき、纐纈を頼迪から更に引き離した。
左手で纐纈の身を抱き、右手はいつでも折り紙を取り出せるように臨戦態勢だ。
対して頼迪はゆったり構えている。
「おおっと、怖いのが来た来た。んじゃあ間男は退散しますか」
頼迪は緩い笑みを頬に浮かべると、石橋の向こうに渡って行った。
カランカラン、と下駄の小気味良い音が響く。
「纐纈さん。頼迪兄さんと…」
続く言葉はなく、道風はただ纐纈を抱き締めた。
「何も無いわ、道風おにいさま。昔のお話を伺っていただけ。ごめんなさい、ごめんなさい……」
これでは最初とあべこべだと思いながら、纐纈は素直に謝った。
それぐらい、道風の様子には鬼気迫るものがあったのだ。
鬼気迫るものの中に、頼りなげなものが揺れていた。