思慕
纐纈は紫紺の闇の中にいた。
探せど光は見当たらない。
何か恐ろしいものに追われて逃げている。それだけは自覚があるのに。
その恐ろしいものは纐纈を見つけると鋭い牙を剥き出しにして、纐纈を頭からばりばりと食べてしまうのだ。
早く、明るいところに逃げなくては――――――。
やっと認めた明かりに駆け寄ると、それは道風だった。
後姿の道風に手を掛けると、道風が振り向いた。
しかしその表情はまるで氷柱のように凍てつき、口からは牙が覗いていた―――――――――。
「立花頼廸が」
「はい」
その晩、電灯の明かりのもと、林葉玄隆と朝日路、和行に道風が集い、声も低く話し合っていた。
主題は今日、纐纈と道風が出くわした盗賊についてである。
「未だ術の衰えは無かったか」
「太元帥明王法の真言を破りました」
声さえ出さないものの、玄隆も朝日路も道風のこの言葉に表情筋のどこかしかを剣呑に動かし、和行は口笛を吹いた。
「厄介な」
一言、評したのは朝日路。
「頼迪は道風君を恨んでいるか」
「恐らくは」
林葉当主の問い掛けに、道風は躊躇いなく首肯した。
目が覚めると汗を掻いていた。
纐纈は右手の甲を額の上に置く。
昼間、あのまま道風の腕で気を失って倒れたのだ。
着物は母の手によってであろう、浴衣に着替えさせられている。
枕元を見ると、鉄線が鮮やかな橙色の硝子の花瓶に活けられていた。
道風は病床の纐纈を見舞おうとして、あの場に居合わせたのだ。
もしそうでなければと、その可能性を考えるのは恐ろしい。
纐纈たちの住まう土地とそうではない土地では種々の差があって、例えば術士のような存在が、異郷の地では大層、珍しいと聞く。かどわかされ囚われ、高値で売られることもあるという話を、今までは大袈裟に思っていたが、今日の一件でそうではないと知れた。
道風が来なければ纐纈は今頃、どうなっていたか解らない。
売られたその先を想像することもまた、とても恐ろしい。
纐纈は気弱になっていた。
「纐纈さん」
部屋の外から道風の声が聴こえた時、纐纈がまず最初に感じたのは安堵だった。
あんな夢を見たあとでさえ、道風は頼れる、慕わしい許嫁に違いないのだ。
だが彼には、纐纈の知らぬ過去があると、それはもう察せられるものがあった。
「道風おにいさま。どうぞお入りください」
道風が部屋に入ると、入り口のあたりで丸く寝こけていた紫の小鬼が、驚いたようにわたわたと部屋の隅に行き、姿を消した。
「お加減は如何ですか」
「はい…」
気分は悪かったのだがそれを直截に言うことは躊躇われ、纐纈は返事ともつかない返事をした。
「本日は危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
まずは頭を下げて礼を述べる。
だが顔を上げて見た道風の顔には憂いがあった。
「気づいておいででしょうが、昼間の、あの盗賊の男は私の知己です」
「はい」
「嘗ては兄弟子でもありました」
「はい」
それから道風は纐纈に床に入るよう促すと、再び口を開いた。
「彼の名前は立花頼迪と申します」
「立花…」
道風が頷く。
「聴かれたこともおありでしょう。この林葉にも劣らぬ白術士の名家です」
「そんな方がなぜ泥棒なんて」
「彼が身をやつした要因に、私の姉の死があります」
「お姉さまがいらっしゃったのですか?」
纐纈には初耳の話だ。
「もう、鬼籍の者ですので」
「――――――…」
「彼―――――立花頼迪は姉の恋人だったのです。将来を誓い合うほどの仲でした」
「………」
「しかし、姉は病死しました。元来が、身体の弱い人でしたから」
纐纈には言う言葉が見つからない。
道風は淡々と話を進める。
だが、その眉が微かにしかめられた。
「立花頼迪は、禁呪を行おうとしました。死んだ姉を蘇らせようと―――――…」
死者を呼び戻すこと。
それは出来る出来ない如何に関わらず、術に携わる者として絶対の禁忌だ。
「私はそれを止め、頼迪が気の迷いを二度と起こさないよう、徹底的に姉の遺骸を滅却しました。頼迪とはその際、激しい闘いとなりました。彼の左目の横の傷は、私がつけたものです」
「………」
「当時、私と頼迪は姉を挟んで互いを牽制し合っていました。私と彼を繋ぐ架け橋が姉だったのです」
「あの、泣く子も黙ると言われていたというのは…」
恐る恐る纐纈が尋ねると、道風が苦笑した。
「私も今でこそ多少、丸くなりましたが、昔は、特に術に関しては相当に強く自負し、矜持を持っておりました。性格的に、とてもいけ好かない人間だったと我ながら思いますよ」
道風から聴くのは意外な話ばかりで、纐纈は目を何度も瞬かせた。
道風と許嫁になったのは幼い頃の話だが、当時は顔を合わせることも少なかったのだ。
「おにいさま。あの方と、仲直りなさりたいですか?」
纐纈らしい無邪気な言葉に、道風は、今度は形ばかり微笑んだ。
「出来るものなら。けれど彼は私を許さないでしょうし、犯罪に手を染めてもいる。この落としどころはとても難しいのですよ、纐纈さん。それに」
言葉を区切って、纐纈の双眼を覗き込んだ道風の瞳は真剣だった。
「貴女に害を為すのであれば、私も頼迪に加減や容赦は出来ません」
あとはしばらく沈黙が場を支配した。
「頼迪さんは、本当にお姉様のことがお好きだったのですね」
「………ええ」
「私が死んだら、道風おにいさまも同じように思われますか?生き返らせたいと」
「………思うだけなら自由です、人は、どこまでも。だがその一線を実際に超えることとは雲泥の差があります」
古来より、白術士の流れの中には紙術士、死術士とも呼ばれ蘇りを生業とする一派も存在したのだ。