波紋
「それでまあ、最近は物取りが流行ってるんで、注意をしろという父上からのお達しなんだが」
長兄の朝日路が、困ったように太い眉根を寄せて寝込む妹を見た。
纐纈が風邪をひいて寝込んだのだ。
「あにさまたち、お出掛けなさるの?」
次兄の和行がにっこり笑う。
「色々と野暮用もあってね。大丈夫、早めに帰ってくるさ」
和行の〝野暮用〟は大体が女性絡みであり、そんな場合、早めの帰宅など望めないと纐纈は知っている。
「お母様もお父様もお出掛けになるのよね?」
「外せん用事でな。お前ももう、一人前の白術士なんだから、子供のように不安がるんじゃない」
「はい…」
朝日路に諭され、纐纈は力ない返事をした。
去年の冬にも似たようなことがあった。
あれは、〝鏡なる湖の当代様〟と呼ばれる湖の主の婚礼の日。
熱を出して一人、留守番の纐纈を気遣い、あの時は道風が訪れてくれた。
その際に貰った色鮮やかな留め物のピンブローチは、今でも大事に仕舞ってある。
こんこん、と咳を出して檸檬ジュースを飲むのは同じ。
ただ、道風がいない。この違いは大きい。
違い棚の置時計の音が無情に感じられる。
きし、と鴬張りの廊下の音が聴こえたのは、昼近くのことだった。
(あにさまたちが帰ってこられた?)
しかしそれにしては足音が潜められている。
纐纈が布団から抜け出して障子の隙間からそっと窺うと、やや離れた廊下を獺が二本足で立って家の中を物色しているようだった。
纐纈は即座に寝床に取って返すと、枕元に置いていた折り紙で犬を折った。
ふう、と息を吹き掛けて障子の外に放つ。
「それ、お行き!」
毛並まで細かに具現化した犬は獺に飛びついた。
あとは喧々囂々(けんけんごうごう)たる騒ぎとなり、何とか獺を荒縄で縛るところまで終えた時には、纐纈もほっと脱力した。
(私一人で、泥棒を捕まえられた!)
熱は少し上がったようだが、意気のほうがもっとずっと揚々と上がっていた。
だが―――――――――。
廊下で縛り上げた獺の前に陣取っていた纐纈の横手から、長身の影が飛び出してきた。
あ、と思う間も無く、折り紙を掴む手を捩じり上げられる。
「痛いっ」
見ると相手は割合に整った容貌の若い男だった。朝日路と同じくらいの年齢で、顔立ちは和行より厳しめの造作だ。
左目の斜め横に古傷があって、それが男の迫力を増している。
「油断するんじゃねえって言っただろうが」
男が獺に言う。言葉遣い、態度、風格、どれをとっても男のほうが獺より格上だった。
こちらが物取りの頭目なのだ―――――――。
「白術士の娘か。こいつぁ高値で売れそうだ」
男が着流しの懐から取り出したのは、折り紙だった。
ふ、と息を吹き掛けると頑丈そうな縄になり、纐纈を縛り上げる。
丁度、纐纈が獺を縛ったのと同じように。
この男もまた白術士なのだ。
(どうしようどうしたらどうしたら)
纐纈の恐慌状態に陥った頭を、同じ疑問符ばかりがぐるぐる廻る。
男が言ったように、術士は高値で売れる、と聴いたこともある。
部屋で大人しく寝ていれば良かったのか、という悔やみが生まれる。
男の人差し指が纐纈の頤に掛かり、上向かせられた。
「面も悪くねえ。は」
満足そうな短い呼気と一緒に笑った男の指を、突如として飛翔した鷹が突き掠めた。
そのまま、ばさばさ、と纐纈と男の間を飛び、男を威嚇する。
纐纈の術でも男の術でもないのは明白だ。
「ナウボ・タリツ・ボリツ・ハラボリツ・シャキンメイ・シャキンメイ・タラサンダン・オエンビ・ソワカ」
最高の法でもある太元帥明王法の修法に伴う真言を一息に唱えたのは道風だった。
道風の足元には見舞いの花らしき鉄線が散らばり落ちている。
たちまち光の帯が生じ、男と、縄が解かれていた獺を拘束しに掛かる。
男が顔を巡らせ道風を見た。
「嘗ての兄弟子に容赦ねえなあ、道風」
「嘗ての兄弟子であらばこそ、です」
答える道風の顔は、これまで纐纈が見たことのないほど険しいものだった。
この白術士の盗賊は道風の知己なのか。
しかも兄弟弟子の仲だったとは。
纐纈は驚愕した。
兄弟子、という男を睨み据える道風が、いつもと違う人間に見える。
「しゃあねえなあ」
男の着流しの懐からするするする、と白い紙で出来た棒が現れ出て、彼らを拘束する光の帯を断ち切った。
その勢いですかさず纐纈の首に腕を引っ掛けると、道風はぴたりと静止した。
「へーえ。このお嬢ちゃんがそんなに大事かよ、お前が?」
「纐纈さんを放してください」
「俺らの跡を追うな。それが条件だ」
「………良いでしょう」
「今日は面白いもんを見られたな。泣く子も黙ると言われた林葉道風が、こんな手緩い奴に成り果てているとはなあ!」
そう言って道風に向けて纐纈の身をどん、と押し遣ると、男は獺と共に縁側から外に出て姿を消した。
「纐纈さん、大丈夫ですか?」
跪き、纐纈の顔を覗き込む道風は、もういつも通りの彼だ。
怖いような険しさが綺麗に拭い去られている。
けれど纐纈は道風の、知らなかった顔を見てしまった。
熱に浮かされて朦朧とした意識を、纐纈は道風の腕の中で手放した。