ささやかな光
道風と和行、朝日路が金色の折り鶴に導かれて海沿いの洞窟に辿り着いた時には、全てが終わっていた。死術士たちは去り、そこにいたのは頼迪と庄吉、横たわる纐纈の亡骸。そして―――――――――――。
「道風?貴方、道風なの?」
道風の記憶と寸分違わぬ姉の未廣がそこに立っていた。頼迪の外套を身体に羽織っている。
彼女はまだ事態が呑み込めていないようだった。それも当然だ。自分は病で死んだ筈なのに、今、こうして生きている。そうして弟や頼迪たちは自分が知るよりずっと年齢を重ねている。何より。
「…纐纈さん」
蘇生した姉を呼ぶより先に、道風は動かぬ許嫁の名を呼んだ。顔色は生きている人間のそれではない。首には大きく切り裂いた跡があり、胸には惨たらしい空洞がぽっかりと空いている。
よろめきながら道風は纐纈に歩み寄ると、彼女の上半身を抱きかかえた。
誰より愛しい命だった。
今から先の未来も、彼女と共に歩んでいくのだと信じて疑わなかった。
例え頼迪が纐纈の命を狙おうとも、自分ならそれを阻むことが出来ると思っていた。
だがしかし、今やそれらの思い込みは全て瓦解し、砂塵の如く脆く崩れ去った。
「纐纈さん、起きてください。後生です。何でも言うことを聴きますから。また夜市に共に参りましょう。貴女のお望みの物を買って差し上げます。纐纈さん。もう、陽は高いですよ。何時まで眠っておられるお積りですか?余り私を困らせないでください………」
言い募る道風の頬を涙が濡らしている。彼とて解っているのだ。纐纈はもう二度と目を覚ますことはないと。
「殺してやる」
和行が頼迪を激しく睨めつける。
「――――――お前を許さない、立花頼迪」
朝日路も憤怒の表情で告げる。
一人事情を呑み込めていない未廣は、頼迪に抱きすくめられた。
「未廣。―――――――逢いたかった。…逢いたかった」
「姉上を離せ、頼迪!」
赤く充血した目を頼迪に向けて道風が吼える。
道風の袖から鷹が現れ、未廣を抱く頼迪の腕を鋭い嘴で突く。頼迪の緩んだ腕から姉の身体を道風は引き寄せた。現在の自分より年下、十八歳の姿の姉を。
未廣は思案するような眼差しで弟たちを見ている。
「これで俺の気持ちが解っただろう、道風。未廣、何をしてるんだ。俺と共に来い!」
未廣は固い、蒼ざめた表情で首を横に振る。彼女は現状を把握したのだ。
「―――――出来ないわ、頼迪。……何てこと」
未廣は足元の纐纈を傷ましげに見つめる。
「禁呪を使ったのね。彼女は…ひょっとして纐纈さん?私の為に何の罪もない纐纈さんを犠牲にするだなんて」
未廣は言葉の途中から大粒の涙をこぼし始めた。
「こんなことしても、誰も幸せにならないわ!これで私が生き返って、喜ぶと思ったの!?貴方と安穏と幸せになれるとでも思ったの!?頼迪、貴方は間違っている。取り返しのつかないことをしてしまったのよ…皆が不幸になるだけの………」
海鳥の鳴き声に未廣の泣き声が混じる。
頼迪は最初は茫然とした顔で、次に歯を喰いしばるように表情を立て直した。
「俺は後悔していない。未廣、お前は俺を想っている。共に来ない筈がない」
「ええ。私はこんなことになった今でも、貴方を愛しているわ。だから、一緒に行くことは出来ない。道風」
二人の遣り取りを凝視していた道風は、呼ばれてはっとしたように姉を見た。
「はい」
「纐纈さんを連れて林葉本家に戻りなさい。私も一緒に行くわ」
「その前に俺はこいつを殺す」
和行が袖に遣ろうとした手を、朝日路が止める。
「和行。今は未廣さんの言う通りにしよう。…このままでは纐纈が不憫だ。未廣さんの恰好もあることだし、送り鼠を使おう」
こんな非常時だと言うのに、素肌に外套を羽織っただけの未廣に朝日路は気遣いを忘れなかった。
洞窟から去ろうとする道風と纐纈、未廣、和行、朝日路を止める手立てを頼迪は持たない。彼は未廣が蘇れば当然、自分と来るものだと考えていたのだ。
「未廣お嬢さん…」
泣き顔の庄吉が呼んだ声に未廣は振り向く。
「庄吉さん。懐かしいわ。…頼迪を、お願いね」
庄吉が何度も頷くのを見届けて、未廣は微笑した。
弟の腕に抱かれた纐纈の姿が胸に痛い。何と罪深いことを頼迪はしてしまったのかと、慄いてしまう。未廣が生きていた当時より、弟が纐纈を愛しく掛け替えのない存在だと思っているのは明らかだ。それは嘗ての自分と頼迪のように――――――――。送り鼠の曳く車に乗り込みながら未廣は思う。このままでは生涯、道風が笑顔を忘れて過ごすことになるかもしれない。頼迪が捻じ曲げた摂理の為に。林葉本家に向かう間中、未廣は自分に何が出来るかをじっと考えていた。
林葉本家の檜の門前に車が着いた。欅の大きな樹影も記憶と何ら違わず、夏の強い日差しが照りつける。未廣は背筋が一瞬、震えた。
自分が歓迎されない存在だと知るからだ。今の未廣は纐纈の犠牲の上に成り立っている。朝日路や和行はそれを責めない。玄隆とてそれは同じだろうが、娘の亡骸を見ると理屈では割り切れない感情が喚起されるに相違なかった。
家の玄関の戸を引く和行が、そんな未廣の心中を推し量ったように声を掛ける。
「未廣さん、大丈夫だ。誰も貴女が悪いだなんて思っちゃいない」
未廣は涙ぐんで、頷いた。和行の気遣いが嬉しかった。彼は妹を亡くしたあとであっても、人を思い遣ることが出来るのだ。
纐纈の死に顔を見た玄隆はよろめき、右手を額に置いた。その妻である纐纈の母は唐突な娘の死に泣き叫んだ。
まるで未廣の死んだ時の再現のようだ、とぼんやり和行は思った。
弔問に訪れた和行を、やはり気落ちした未廣の父と、悲嘆に暮れる母が出迎えたのだ。
それでも纐纈の母は未廣への気配りを忘れず、彼女に淡い桃色の着物を貸し与えた。
その前に風呂に入ることを勧められた未廣は、有り難くその好意を頂戴した。
檜の浴槽に湯が張られ、中に身を浸すと温もりが沁みる。そうしている間にも、今頃、纐纈の亡骸を浄める行為が彼女の身内の手で為されているのだと思うといたたまれない。
自分を迎えてくれる人々の温もりが沁みるほどに、未廣の内で静かに固まっていく決意がある。彼女は生き返ったことを僥倖とは考えていなかった。
ただ、懐かしく慕わしい人たちと再会出来たことだけは嬉しかった。
そしてそれで十分だった。それでももう少しだけ、欲張りが許されるものなら――――――。
湯から上がった未廣は、葬儀の支度をしようとする玄隆たちに言った。
「纐纈さんの葬儀は待ってください」
「どういうことですか、姉上」
幽鬼のような表情の道風が姉に問う。まるで纐纈の魂に伴い、道風の魂まで連れて行かれたようだった。
「…大きくなったわね、道風」
道風の頬に手を添える未廣の目には慈しみがあった。
「頼迪と過ごす時間を、少しだけ貰いたいの。それから私は貴方に、纐纈さんを返すから」




