拉致
道風が凶行に及ぼうとしたのは、自分の為だと纐纈は理解している。
温厚な彼が、頼迪を殺そうとまで考えざるを得ないほど、思考が追い詰められたのだ。
纐纈は夜の闇に光る金色の折り鶴を見つめる。
それに託された道風の想いを。
獄舎からの帰り、道風はそうと見て取れるぐらいに消沈していた。
纐纈の手に怪我をさせてしまったこと、決意を貫き通せなかったこと、これまでの経緯、諸々が彼を打ちのめしていたのだ。
送り鼠に家まで送られる間中、晩夏の風に吹かれながら、道風が俯いた横顔を纐纈は横目でこっそりと凝視していた。道風の長い前髪が彼の睫に掛かり、それを払ってやりたいと思った。今日も陽射しは強く、送り鼠の曳く車は幌が被せられていたが、それでも暑気は感じられた。纐纈は道風の通った鼻梁に涙がこぼれることはあるまいかと、心配してしまったが、大人の男である道風が、そう容易く泣く筈もなかった。
彼は車に乗っている間も、別れ際も纐纈の手を傷つけてしまったことを詫びていた。
(道風おにいさまは、優し過ぎるんだわ)
例え頼迪がどんな悪事を働こうと、自らの手で殺そうものなら必ず後悔するだろうと纐纈には確信出来るのだ。
それもあって、纐纈は道風を止めた。道風が纐纈を守りたいと思うのと同じように、纐纈もまた道風を守りたいと願っている。道風はそのことを知っているだろうか。
庄吉が人の形を取ったのは、獺の姿のままだと警備隊の目についてしまうだろうとの配慮からだった。元々獺の精だった庄吉は、その気になれば人間に変じて大衆に混じることも出来るのだ。このあたりではそう珍しい話でもなかった。彼は頼迪から魂玉を託された時、万一の時には卓磨が定宿としていた旅館に行き、自分たちが脱獄するまで潜伏するようにと指示を受けていた。
とは言え、警備隊の見張る獄舎からそう容易く脱出することが果たして可能なのかどうか、庄吉は頼迪らを待ちながら危ぶんでいた。
布団の中で寝返りを打つ。
人型は慣れないが、寝る内にだけ獺に戻るという油断も出来ない。
かさり、という物音が庄吉の耳に届いた。
外に面した障子に、何か軽い物がぶつかったような音だ。
頼迪か、と思った庄吉は、布団から飛び起きると障子をそっと開けた。
そこにいたのは頼迪でも卓磨でも晃賀でもなかった。
今宵も月が半分ほど出ている。
明るい夜に立つのは卓磨や晃賀に似た白い修行者めいた衣服の人間だった。
それも一人や二人ではなく、群れるほどにいる。
月下を埋めんばかりの死術士の数に、庄吉は声を失った。
「纐纈」
翌朝、纐纈は朝日路の声に起こされた。
まだ空が白む未明の頃だ。部屋の四隅まで見通すことが出来ない。
「朝日路あにさま…。どうされたのですか?」
答えながら身を起こす。
「良かった、無事だな」
「え?」
「頼迪らが脱獄した」
纐纈が小さく息を呑む。
「だって、あんなに厳重な警備の獄舎を…」
だが朝日路は冗談を言う性質でもなければ、軽率な間違いを犯す粗忽者でもない。
だとすれば、その情報は確かなのだ。警備隊たちを出し抜いて、頼迪たちは獄舎を出た。
再び纐纈の心臓を狙うだろう――――――――。
纐纈が身震いしたのを見た朝日路が、その肩に手を置く。
「死術士の仲間が、脱獄を手引きしたらしい。だが案じるな、纐纈。お前はこの家にいる限りは安全だ。俺たちがお前を守り抜く」
顎のしっかりした顔の朝日路に、低く決意に満ちた声でそう言われると、少なからず安心する思いが湧いてくる。
「警備隊の長たちの会合が今日、この家である。お前は部屋で大人しくしていろ」
「……はい」
朝日路が溜息を吐く。
「父上もこのところ心労が絶えない。早くこの件が片付けば良いのだがな」
玄隆は白術士筆頭であり、警備隊の十人いる長の一人である。
加えて禁呪を犯そうとする立花頼迪に心臓を狙われる纐纈の父でもある。
その心労は、纐纈にも察して有り余るものがあった。
朝食を終えてから、纐纈の部屋にも、林葉邸に警備隊の長たちが集う気配が感じられるようになった。朝早くからの会合は、事態がそれだけ差し迫っていることを表しているのだろう。何せ警備隊の守る獄から目下最重要とも言える犯罪者たちを逃してしまったのだ。長たちが焦るのも無理は無かった。
纐纈は一度、和行の部屋を訪ねたあとは、朝日路に言われた通り、部屋で大人しくしていた。朝日路の言う通り、家に籠っていさえすれば、身を危険に晒すこともないだろう。
纐纈は金色の折り鶴を眺めながら、時を過ごしていた。
そうしてどれほどの時が経ったか、集った人々が散会する物音が聴こえてきた。
会合は終わったようだ。
纐纈がその首尾を訊こうと父の元に行くべく立ち上がった時、部屋の障子の向こうから声が掛かった。
「纐纈さん。おいでかな」
それは父と同じく、警備隊の長の一人である山岸陽治の声だった。纐纈が幼い頃から見知っている相手だ。遊んでもらった思い出もある。
「はい。どうかされましたか?」
障子を開けると、顎髭を伸ばした温和な顔が現れる。
「申し訳ないね、纐纈さん。これも儂の務めでね」
「はい?」
纐纈が問い返すのと、腹に山岸の拳が入るのとは僅かな差だった。
山岸は気を失った纐纈を痩身に似合わぬ腕力でひょいと抱え上げると、纐纈の部屋を横断し、外に通じる障子を開け、外に出た。




