釣瓶落とし
こんな非常時だと言うのに、頼迪の顔に切羽詰まったものは見えない。
今から殺されるかもしれないという時に、悠然と構えている。
「優等生のお前が、よく其処までの境地に辿り着いたもんだ。褒めてやるよ」
揚句、皮肉混じりの賛辞を贈る。
道風は黙って袖から紙の棒を取り出すと、息を吹き掛けた。
現れる白刃にも、頼迪の態度は揺らがない。
鉄格子には十分、白刃を通す隙間がある。格子から遠ざかれば良いだろうに、頼迪はそうはしない。
「いけません、おにいさま。頼迪さん、離れてください!」
しかし頼迪は動かない。それどころか刃の切っ先が身に届く範囲に、平気で身を晒している。纐纈が刀を握る道風の手に手を置く。二人の視線が交錯する。
「私は貴女を守りたいのです」
「頼迪さんを殺してもですか」
「そうです。これで貴女が私を嫌うと言うなら、それでも構いません。――――――纐纈さんを喪うことに比べたら」
その二者択一をせねばならないほど、道風は追い詰められている。
纐纈は道風の心がここまで切迫しているとは思わなかった。
これではまるで―――――まるで頼迪の心と鏡写しのようだ。
「お願いです。やめてください」
纐纈の必死の懇願にも、道風が刀の柄を握る強さは変わらない。
纐纈は意を決すると、刃のほうに手を滑らせた。赤い血が滴る。
「纐纈さん、何を…っ」
ポタポタと纐纈の右手から血が落ちる。
「…やめてください、おにいさま」
これで道風がやめない筈はない、との打算に基づいた自分の狡猾さに対する呆れも、今は置いておく。ぐぐ、と刀身を握る手に力を籠める。掌が焼けるように痛い。
「纐纈さん…、解りました。解りましたから、刃から手を放してください」
懇願する立場が逆転した。
道風は辛そうに顔を歪めると、纐纈の手を退かせて白刃を引っ込め、元の紙に戻した。
「そんなものかよ」
怒気を孕んだ声を頼迪が出す。
「お前が喪えないと想う気持ちは、そんなものかよ、道風!」
それは自らの、未廣への想いに照らし合わせた頼迪の叫びだった。
「想いの在り様は人それぞれではないですか。…貴方は道風おにいさまに、御自分のおられるところまで堕ちてきて欲しかったのですか」
纐纈が静かな口調でそう言うと、頼迪は押し黙った。
気持ちの奥深く、彼は確かにそう望んでいたのではないかと纐纈は思う。
しかしそれで報われるものなど、何一つ無いのだ。
道風が持っていた手拭いで、纐纈の手の傷口を縛る。
収穫なしに獄舎から戻った纐纈は、和行の様子を見に行った。
「和行あにさま。お具合はどう?」
「暇」
「もう」
布団に横たわったままの和行は、打てば響くように一言で心情を言い表した。
纐纈が苦笑する。
「……まだ顔色が悪いですね」
だが和行は手を振りながら答える。
「朝日路兄や纐纈が大袈裟にするから、父上も大事を取れなんて言うんだよ。実際には大したことないのにな」
そうだろうか、と纐纈は思う。そう言う割りに、和行の顔色は一向に良くならない。
なまじ女顔で整っているだけに、憔悴すると判りやすいのだ。
「そんなことよりお前、その右手の包帯はどうしたよ」
ちろ、と和行が目を遣る。さりげなく彼の視界から外していた積りだが、和行は目敏く気づいた。
「お料理をしていて火傷しました」
「あ、そう。見え透いた嘘吐くなよ」
「………」
「まあ、言いたくないなら無理には訊かないけどな。白術士は手が命、だろ。それでなくたってお前は女だ。道風が嘆くような無茶するんじゃないよ」
「…はい」
丁度日暮れ時で、障子窓を開けた向こうには綺麗な西の夕景が見えた。
烏が飛び違い、夕餉が作られる匂いがする。
和行が好むそんな情趣も、頼迪の目には届かないのだろう。
彼は心の檻に囚われているから――――――。
潮騒の聴こえる旅館で、男が一人、早い夕餉を取っていた。
威勢よい食べっぷりに、給仕の仲居が感心する。
「流石、城さんの知り合いだねえ。食欲旺盛なとこまでそっくりだよ」
少年と言っても差し支えない若い男は、皿から顔を上げると、にこっ、と人好きのする笑顔を浮かべた。
「俺は色気より食い気だって昔から言われるんだ」
「おや、そりゃ女泣かせだねえ」
世辞めいたことを言ってころころと笑い、仲居は空になったお櫃を下げようとした。
「―――――ところでお客さん。あんた、腰に後生大事に何か下げてるね」
「うん?ああ、こりゃ大切な預かり物なんだ。俺の相棒が必要としてる」
彼の締めた帯には小さな袋が括りつけられている。
「そうかい」
「うん。本当はなあ。こんなの使わないで済めば、一番良いんだけどよう…」
そう言って庄吉は嘆息した。