死闘
約束の刻限は午後九時だった。
纐纈は長い髪を一つに結び、動きやすいように袴を穿いた。
緊張しているのが、強張って普段より動きにくい手からも解る。折り紙が折りにくい。
頼もしいのは道風の他に、朝日路と和行が同道してくれることだった。
もちろん表向きは纐纈一人の風を装う。
この町では自動車の代わりに送り鼠という妖が交通手段として用いられる。
人の世では人力車であるところを、巨大な黒い鼠の妖が引くのだ。
纐纈たちは佐倉森の近くまでそれぞればらばらに、送り鼠の車で乗りつけた。
一人、森の入り口まで歩を進めた纐纈が声高に言う。
「林葉纐纈、参りました!藤埜さんをお返しなさい!」
すると木立の中の闇が動いた。
立花頼迪が木陰から出てくる。
「お前一人か。そんな筈もあるまい」
纐纈が唇をきゅ、と引き結んでから尚も主張する。
「藤埜さんを返しなさい」
「良いだろう」
頼迪の後ろから、眠る藤埜を抱えた卓磨が歩み出て、近くの樹の幹に寄り掛からせる。
今夜は月が明るく、暗い森でも細かい点まで視認出来た。
藤埜の顔色は健やかで、単純に眠っているだけに見える。
纐纈はほっとした。
それから見慣れない卓磨の顔を凝視する。
卓磨は苦い顔つきだった。
ああ、人間だ、と纐纈は思う。
人の命を無作為に刈り取れる死神ではない。情を持つ、情を解する人間の顔だ。
それに比べて今夜の頼迪の顔は、極北のように凍てついていた。最初に頼迪を見た時、長兄である朝日路と同い年くらいに見えたのは、底知れぬ嘆きが、彼を歳経て見させたのだと今なら解る。道風に聴いたところでは、本来なら頼迪は次兄の和行と同年なのだ。
「…使うのはこの娘さんの心臓かい」
「ああ、そうだ」
答える頼迪の声は硬く、揺るがない。
心臓を取られる、という事態がここに至り、纐纈にもようやく逼迫したこととして感じられた。頼迪は本気だ。本気で自分を殺そうとしている。震えそうになるのを必死で堪えた。
「じゃあ、お嬢さん。来てもらおうか」
頼迪が纐纈の腕を掴もうとした時―――――――。
纐纈の後方より飛来した鷹が、頼迪の腕を鋭く突いた。
「そういう訳には行かないんです、頼迪兄さん」
そう告げた道風の顔は、これまで纐纈が見たどんな時より戦闘的だった。
道風に続いて朝日路、和行も姿を現す。
「道風だけでなく兄貴共も連れて来たか」
「これでも大事な妹だ。簡単にくれてやることは出来ないんでね」
和行があえて軽い口調で言う。
対になるように朝日路の口振りは重かった。
「森の周囲は警備隊に囲まれている。今の内の投降を勧める。…お前は誰だ?」
最後の問い掛けは卓磨に向けてのものだった。
「城ケ崎卓磨。死術士の末裔だよ」
次の瞬間、卓磨が袖から出した折り紙は、纐纈はおろか朝日路でさえ目にしたことのない異形と成った。
それは小さな民家ほどもある、岩の鬼神だった。
鬼神の咆哮が森に轟く。
「死術士……っ。頼迪に加担するか!」
朝日路の袖から出た折り紙は龍となり、和行の折り紙は強大な鷲となった。
龍と鷲は果敢に鬼神に立ち向かっていく。
道風は纐纈を背後に庇い、頼迪と対峙した。
〝道風。お前、頼迪を殺す積りは無いと纐纈に言ったそうだな〟
佐倉森に向かう前、朝日路が道風に質した。
〝…はい〟
〝出来れば救いたいと考えている、とも〟
〝…ええ〟
〝纐纈を殺そうとしている奴に、そんな甘い考えは通じんぞ。良いか。人は死ぬんだ。望まずとも、呆気なく喪われる命の何と多いことか。――――――お前の姉上・未廣どのとてそうだ。だが。だからこそ、一度死んだ者の為に、今生きる命が毟られることがあってはならんのだ〟
その時道風は、朝日路の双眼を見据えて答えた。
〝朝日路どの。確かに私は頼迪兄さんを救いたいと望みます。けれど私は纐纈さんにこうも言いました。纐纈さんに害を為すのであれば、私は彼に容赦加減をしない、と〟
朝日路が目を眇めて道風の面を凝視する。
〝いざとなれば奴を殺す心算も覚悟もある、ということだな〟
二人が話をしていたのは林葉邸の客間の一室。
天井に続く欄間彫刻の梅を睨むようにして見ながら、道風は言った。
〝その積りです〟
命の重さを背負う覚悟を、道風は定めていた。
纐纈は道風から紛れもない殺気を感じた。
後ろから顔は見えないが、今の道風はきっと、纐纈がこれまでに見たことのない顔をしているに違いなかった。
(道風おにいさま…)
いつも穏やかな彼が、本当はそれだけの気性ではないと解ってはきていたが。
道風は頼迪と殺し合いをするのだ、と思い知らされた。
道風の袖から白虎が現れると、頼迪に襲い掛かる。
「纐纈さんを殺すと言うなら。死ぬのは貴方だ」
一瞬だけ、道風の目は苦しげに細められた。けれどそれはほんの瞬時のことだった。
道風の言葉を受けた頼迪の袖からは数羽の鷹が現れ、それに対抗した。
夜の佐倉森で、死闘が繰り広げられる。