花の命
真っ直ぐな漆黒の髪の下から、甘やかに匂う栗色の巻き毛がこぼれ落ちるのを見た時、頼迪は自分がしてやられたことに気づいた。
黒髪は、鬘だ。
廃屋まで攫ってきた娘は、林葉纐纈ではない。
そしてこれが偶然であろう筈もなく、娘が囮であったことは明白だった。
「慌てなさんな。周囲に追跡者の影はねえよ」
あたりを廃屋の唯一ある格子窓の隙間からざっと一瞥した、城ケ崎卓磨が言った。
「別嬪さんだな」
気絶している娘の顔を見て、卓磨は呑気に評する。
「顔形がどうだろうと、林葉纐纈でなきゃ意味がねえ。おい、起きろ」
頼迪が肩を乱暴に揺すると、彼女はうっすらと目を開けた。
今夜も梟の鳴き声が響く中、目覚めた娘はまだ茫洋としていた。
「あ…。此処は…?」
頼迪がその頤に人差し指を掛ける。
「お前は誰だ。林葉纐纈の縁者か。これは林葉玄隆、または警備隊の差し金か?」
頼迪の問いに、見る間に頭が覚醒した表情で、娘が頼迪の手を振り払い、身構える。
そして改めて廃屋内に目を巡らせた。
眼前には頼迪。その隣足元には獺の庄吉。
彼らの後ろには卓磨が控えている。
失敗した―――――――――。
野々宮藤埜は自らの目論見が裏目に出たことを悟った。
外からはまだ、梟の声がする。
「おにいさま……」
寝言で呼ばれる声を聴きながら、道風は纐纈のずれた掛布団を掛け直してやっていた。
あどけない寝顔に、白術士として一人前と認められているとは言え、まだ彼女は十五の少女なのだと思う。十五の少女が担うにしては白術士の任務は苛酷で、道風は花や薫風など優しいものの中に彼女を囲ってやりたいと願う。だが纐纈を苛酷な任務に向かわせ足り得るのは、他ならぬ纐纈自身の天稟なのだ。恵まれた才能が必ずしも本人の為になるとは限らない。纐纈はその典型ではないかと、兼ねてより道風は一抹の危惧を抱いていた。
人の才能ばかりは左右出来るものではない。
それを言うならば人生や寿命もそうだ。
未廣が今も健在であったならば、自分や頼迪、ひいては纐纈の現状も、もっと違ったものであっただろうに。
何を恨むべきなのか。恨む対象が在るとすれば、それは正しく天や運命であろうが、恨んだところで詮方ないこともまた、道風は十二分に知っている。
その晩、警備隊として夜勤に就いていた沢良宜芳美の足元に、矢が射かけられた。
芳美は咄嗟に自動拳銃グロック17を構えたが、的となるべき人影はどこにも見当たらなかった。
矢には文が結び付けられていた。
「矢文。今時、古風ね」
矢文の内容に目を通した芳美は顔を険しくして、警備隊の交代人員が来てから、林葉邸の中に入って行った。
とんだ番狂わせだわ、と思いながら。
「藤埜さんが頼迪さんに捕らわれた…!?」
朝、まだ微熱のある纐纈にもたらされたのは凶報だった。
「どうしてそんなことに――――――」
――――――私は私に出来るやり方で貴女をお守りするわ――――――
もしや藤埜は、自分が囮となることで、頼迪らをおびき出そうと考えたのだろうか。
そうして逆に囚われの身となってしまった。
そこまで思い至った纐纈は、傍らに侍る道風にもその考えを話した。
道風もまた、厳しい面持ちで、纐纈の話を聴いた。
「恐らくその推測は、正しいでしょう。しかし藤埜さんは浅慮です。相手の力量も知らぬまま、うかうかと身を危険に晒すなど―――――――」
彼女はそうまでして道風のことを望んでいたのだろうか、と纐纈は思う。
首尾良く纐纈を守り切る、という功の見返りに、道風を得られるなどと本気で考えていたのだろうか。
それともその行為の裏にはささやかな友情もあったのだろうか。
恋敵ではあるけれど、纐纈は藤埜が嫌いではなかった。
「矢文には詳しくは何と書いてあったのですか?」
道風に尋ねる。
「…今晩、町外れの佐倉森まで纐纈さん一人で来るように。そうすれば藤埜さんを解放する、と」
それでは畢竟、命の交換となる。
頼迪は纐纈と藤埜の命を天秤に掛けろと言っているのだ。
「―――――――お父様に会います」
纐纈が玄隆に何を掛け合う積りか、道風には容易に推測がついた。
今日も晴天だ。
ここのところ晴天ばかりが続いている。
余り続き過ぎると日照りになるな、と玄隆は考え、そこで肝心の急務から思考を逸らそうとしている己に気づき、溜息を吐く。
私室で飲む緑茶が今日ほど苦く感じられる日も無い。
目の前には据わった目つきの纐纈がいる。
まだ床上げには早いだろうに、縹色の単をきっちり着込んでいる。
「飽くまでお前が行くと言い張るか」
「無論です。藤埜さんは、私の身代わりになったのですから」
「野々宮の娘の軽挙ではあるが。佐倉森には警備隊の者にお前の恰好をさせて行かせる」
「それでは何の解決にもなりません」
「ならばお前は自分が行って―――――――」
次の言葉を言うのを、玄隆は一瞬、躊躇った。
「そうして心臓を奴に差し出すと言うのか」
今の玄隆は筆頭白術士でも警備隊の長でもなく、一人の父親の顔をしていた。
「道風おにいさまも隠密に同行してくださるそうです」
この頑固者め、と玄隆は嘆息した。
「ならば朝日路と和行も連れて行け」
「…隠密にでないと……」
「あ奴らも伴わねばお前を行かせることはならん」
恋仲であるというだけで、困難の全てを撥ね退けることが出来ると思うほど、玄隆は若くなかった。
もしそうであるならば、未廣は今でも生きて頼迪の隣で笑っていた筈なのだ。
想うだけではどうしようもない物事がこの世には数多ある。
(まだ若いお前には解るまい)
玄隆は歳経た者ならではの深い眼差しで、纐纈を見遣った。