影絵
ねぐらにしている廃屋の外から、ホーホー、と梟の鳴き声が聴こえる。
夜行性の鳥の声と樹々のざわめきを耳にしながら、頼迪は掌の上の魂玉を見つめた。
魂玉は青く深くまるで海そのもののようだ。
掌の上をコロ…、と転がすと、輝きも移動する。
「本当にあのお嬢ちゃんの心臓を使うのかい?」
獺の庄吉が、横から頼迪に尋ねてくる。
「条件に該当するのが、あの娘しかいないからな」
「あんたにそれが出来るのか?」
「未廣を蘇らせる為なら何だってやるさ」
「なら何でこの間、話し込んでた時に殺らなかったんだ」
「………」
窓から夏の蒸した夜風が入り込んでくる。
庄吉は言い募る。
「なあ。どうしてあんたは俺を助けた?たかが獺の精一匹、放っておくことも出来ただろうに。俺はよう、思うんだが。元来、あんたは奪う側の人間じゃない。与える側の人間だ。あの子の身体から肉塊を掴み出すなんてあんたに出来るのかよう?未廣のお嬢さんはそんなこと望むのかよう。あんたはまだ迷ってるんじゃないのか?口では切り捨てたこと言いながら」
頼迪は庄吉をちらりと見て、また魂玉に目を戻した。
庄吉の言葉に、今度は是とも否とも答えなかった。
丁度その時、近くの樹の枝に留まっていた梟が、羽音を立てて飛び去った。
潮騒が聴こえる。
曙光の中で男はむくりと身を起こした。
彼の周囲を、蝶の形をした折り紙がひらひらと舞っている。
男はそれを捕まえると開き、記された文面に目を通した。
「魂玉が盗まれた…?おいおい、参ったね、こいつぁ…」
男は胡麻塩頭をがりがりと掻く。
それから立ち上がり、のっしのっしと階段を下りて行った。
「あ、城さん!宿代のツケ、何時になったら払ってくれるんだい!?」
「今度今度」
ひらひらと手を振る男は、嘗て死術士と呼ばれていた者の末裔だった。
常人の世は知らず、夏の真っ青な空が眩しい一日の始まり。
和行は大蛇の後始末をつけ、流された川原にいた纐纈と道風と合流した。
その時には既に発熱していた纐纈を、道風が負ぶって三人、帰路に就いた。
纐纈は再び病床の人となっていた。
「流石に守りを固めるしかありますまい」
林葉家嫡男・朝日路の言葉には、筆頭白術士にして林葉家当主でもある玄隆にも感ずるところがあった。
朝の明るい光に満ちた玄隆の私室で、彼は父である玄隆と今後の方針について話し合っていた。黒光りする床の間の上には、木槿の花が赤紫の花器に活けてある。
艶やかな赤紫の陶器は美しいが、何処か血をも連想させ、不吉だと朝日路は思った。
「しばらくは纐纈を我が家で厳戒態勢の中に囲い込むべきです。それでなくとも纐纈は騒動と縁があります。この際ですから道風もうちに置きましょう。あれも纐纈を自分で守りたいでしょう」
朝日路の直線的で濃い眉はいつも以上に凛然としている。
「…頼迪が目論見を知って尚、纐纈を任務から外さなかった儂を冷たい父と思うか」
「いいえ。思いません」
筆頭白術士として、父親であるゆえに娘に甘い、などと言わせる隙を見せる訳には行かないのだ、と朝日路は正しく理解していた。
寧ろ一時期でも藤埜と道風を組ませたことが異例であったのだ。
「父上。私は、纐纈がまだ首も座らぬ内から産湯に浸からせたりしました。あの子の成長を見守ってきたのです。…人の心臓は二百五十グラムから三百グラムあるそうです。纐纈の中に息衝くそれを、決して禁呪の道具になどさせません」
林葉家の門前では警備隊も護衛に就くこととなった。
灰色の上下の制服に茶色い革ベルトを締め、左胸には瑠璃、翡翠、瑪瑙の三色の宝石が警備隊の証としてついており、それが子供らには憧れの対象となっていた。
無論、飾りだけでなく彼らは特殊警棒と拳銃も携帯している。
宝物館では頼迪に遅れを取ったが、次はそうはさせじ、と警備隊の面目が掛かってもいるのが、今回の事件だ。警備隊の十人の長の内の一人である林葉玄隆の娘を、むざと殺させては隊の信用が甚だしく失墜してしまう、という思惑も絡んでいる。
その昼過ぎ、病床にある纐纈を、再び藤埜が見舞いに来た。
漆黒、真っ直ぐの纐纈の髪とは対照的に、藤埜の栗色の巻き毛からは甘やかな匂いがして、熱の為に髪も洗えない纐纈は同性として密かに気後れしていた。
「林葉家の皆様と道風様と警備隊が護衛に就かれるなら、これほど頼もしいこともありませんわね」
おっとりと皮肉の無い口調で藤埜が言う。
それからやや目線を逸らし、指で畳に何やら書きながら切り出した。
「ねえ、纐纈さん。私も貴女をお守りするから、その代わりに、道風様を私にくださらない?」
纐纈は一瞬、言われた意味が解らず、解った時には戸惑いと興奮で頬が赤くなった。
「何を仰るの…」
冗談だと言って笑って欲しかったが、藤埜の目は真剣だ。
「だって。ね?私の実力のほどもご存じでしょう?それは、貴女に勝てるとまでは申しませんけど。私は私に出来るやり方で貴女をお守りするわ」
滔々と真面目な顔で藤埜は語り続ける。
「駄目…。道風おにいさまは、何と引き換えにしたってあげられない」
藤埜はその答えが解っていたかのように、曖昧に軽く小首を傾げた。肯定するように――――――或いは否定するように。傾けた拍子に揺れた栗色の一房が群青色の着物を滑った。丁度、花柄の意匠があるあたりだ。
「そう、何と引き換えにしても……」
しばらく気まずい沈黙が落ちたあと、藤埜の唇が動いた。
「立花頼迪もきっと、そんな想いなんでしょうね」
藤埜の何気ない言葉は纐纈の心に刺さった。
纐纈の枕元には金色の折り鶴がある。
道風が握り潰した物を丁寧に皺を伸ばし、再び折り直したのだ。
川から纐纈を救出した道風が言った言葉を思い出す。
―――――私は頼迪兄さんの心が解ってしまったかもしれません――――――
藤埜の言葉が刺さった纐纈の心は、次はひんやりと冷えた。
(本当は誰にでもあることなんだわ)
失えない、掛け替えがない、という想いに闇の色が混じることは。
決して他人事ではないのだ。
倫理の枠組みを超えさせてしまうのが人の想いだ。