濁流
胸を押さえればとくとくとく、と鳴る纐纈の心臓がある。
道風を想えば容易くそうなる、自然の摂理だ。
白い立方体の硝子を幾つも入れ子形式にしたもの――――――。
そんな風に人の心も形作られているのではないだろうか。
外側の立方体から順に開けていくと――――――自分の偽りべからざる本心に辿り着くのだ。
纐纈は自分の中核を知っていた。
「貴女の心臓が狙われる可能性が大きいのです」
そう、真剣な顔で告げる道風が誰より大事な人だということを。
頼迪の目論見を自室で聴いた纐纈は、比較的冷静だった。
だから急に頼迪の態度が軟化したのかと納得も出来る。
魂玉は警備隊の守護する宝物館に安置されていた。
町外れ、秋には薄野となる辺鄙な場所に宝物館が建てられた理由は解らない。
先だっての月の無い夜、二階建の宝物館の二階の窓硝子を割る、という手荒な方法で館内に侵入した賊は二人組。内、一方は獺に見えたと言うのが警備隊の証言だ。
賊のもう一方は成人男性で、折り紙を操ってまんまと魂玉を奪い去ったと言う。
警備隊所持の拳銃と警棒はまるで用を成さなかった。
「立花頼迪と見て間違いないでしょう」
「そう…そうだったのですね……」
ただ息をしてさえくれればそれで良かった――――――――。
この世から亡くしてしまった―――――――――――。
そう語った頼迪の顔を思い出せば、それは容易に得心出来る話だったのだ。
不思議なのは、なぜ二人で話し込んだあの時に纐纈を襲わなかったのかだ。
纐纈は完全に油断して話に聴き入っていた。
考え込む纐纈に道風が折り鶴を渡す。
それは金色に輝いていた。
「道風おにいさま、これは?」
白術士の折る最も基本的な折り紙が、折り鶴だ。
折り鶴は、息の吹き掛け具合によってそのままの折り紙として動きもすれば、羽毛を持った本物さながらに変化もする。
こつを掴めば、他の折り紙もこれらの違いを生じさせることが出来るようになる。
「持っていてください。いざと言う時、私をそれで呼んでください。それは雨にも破れない特別製です」
「はい。…おにいさま」
「何ですか、纐纈さん」
その声は意図して作られた穏やかさが感じられた。
道風はいつも纐纈に穏やかさだけを見せようとする。
今が特にそうなのは、最近、頼迪に関することで、普段と異なる険しい顔を纐纈に見せてしまっている自覚があるからだろう。
「頼迪さんを…殺められますか?」
道風の瞳孔が開いた。しかし驚きは一瞬。
「いいえ。私は、彼を…頼迪兄さんを、救いたいのです」
叶うかどうか解りませんが、と道風はつけ加えた。
それは道風の真実だろう、と纐纈は思った。
纐纈と道風の任務は通常通りに再開された。
玄隆の命令だ。
これには珍しく道風が強く抗議したが、決定は覆らなかった。
纐纈と再び組むことを望んだ以上、任務を全うしろ、と言う玄隆の言葉に道風は反論出来なかった。
今回、命じられたのは、川を荒らす一つ目の蛇の討伐だった。
本来、白術士は水場では戦闘しないのだが、強いて、と言う警備隊よりの要請があったのだ。
白術士はその気になれば水にも負けない折り紙を操ることが出来る。
但しそれには心身の大いなる力が必要だった。
今回は和行も援護に回された。
「別に水場だからってだけじゃなくてな、あれで纐纈が心配なんだよ、親父も」
くしゃりと纐纈の髪を和行が軽く撫ぜた。
任務を命じられた翌日の午後、三人は連れ立って件の川近くまで来た。
周囲には灌木が立ち並び、所々白っぽい岩が目立つ川だ。流れは速く濁流と言って良いだろう。
陽射しが強い。
纐纈たちが川に至ったところで、それまで鳴いていた鳥たちの声がやんだ。
「早速だな」
和行の声に呼応するように、川からは大きな一つ目を光らせた、灰色の大蛇が現れた。
何とも生臭い上に、予期していた以上の大きさだ。
そして金銀螺鈿細工の対極にあるような醜悪さだった。
大きく開けた口には鋭い牙が覗き、舌がちろちろと蠢いている。
だが纐纈は臆さず狼の折り紙に息を吹き掛けた。
道風も鷲の折り紙を、和行は獅子の折り紙を取り出す。
案の定、水場であることが三人の術士に負担を掛ける。
狼が蛇の目の下、喉笛のあたりに喰らいつき、鷲が爪と嘴で攻撃する。
和行の獅子は、真っ向から蛇と組み合っている。
大蛇もされてばかりではいられずに獅子に絡みつき、互いに牙をその身に突きたて引き裂こうとする。だが獅子の爪と牙のほうが勢いがある。
大蛇の鱗が剥がれ、血と肉が水と混じり、生臭さはいよいよ増した。
「嫁入り前の娘にさせる仕事じゃねえよなこりゃ!」
獅子を操りながら、和行が叫ぶ。実際それはその通りではあった。
一見、優勢の一途に見えるこれらの戦いだが、術士たちもぎりぎりの力を振り絞っていた。
狼も鷲も獅子も、水に盛大に濡れているのだ。激しい水飛沫を浴び、時に水中に潜り。
元は紙である彼らの仮初めの命を保たせることがどれだけ困難か――――――――。
集中力、持久力、精神力との戦いだった。
しかも操る対象の折り紙が強いほど、疲弊の度合いも強くなるのだ。
それでも、纐纈の放った狼が大蛇の喉笛に喰らいついているのが、功を奏しているようで、徐々に大蛇の動きが鈍ってきた。
そこに油断が無かったとは言えない。
三人の誰もが勝利を確信した時、纐纈の草履がつるりと岩の上を滑った。
あ、と言う間も無く纐纈は荒れた川に投げ出され、濁流に見えなくなる。
「纐纈さん!」
迷う間も無く道風が続いて川に飛び込む。
残された和行は二人の安否を気にしつつ、大蛇退治の後始末を余儀なくされた。
全身がぐっしょりと重い。
温かいものが唇に触れた。
纐纈はぱちりと目を開けると咳き込んで、飲んだ水を吐き出した。
目の前には濡れそぼった道風がいる。
人工呼吸されたのだ、という恥じらいの前に、彼の表情に纐纈は気を取られた。
涼やかで穏やかで――――――嘗ての未廣と似ているのであろう面差しが、今はずぶ濡れで暗く翳ってもいる。
(どうされたの)
「大丈夫ですか、ご気分は」
背をさすられながら先に問われ、また少し水を吐き、これまでの経緯を思い出した。
大蛇退治の場所からそれほど流されてはいないようだ。
まだ咳き込む纐纈の傍に金色の折り鶴が落ちている。
道風の願いの。
しかし、彼は纐纈が手を伸ばすより早くそれを拾い、ぐしゃりと握り潰した。
「あ…、」
「こんな物があっても、救えない時は救えない。私は、頼迪兄さんの気持ちが解ってしまったかもしれません」
道風に抱きすくめられ、纐纈は、言わせてはならないことを言わせてしまった気がした。
それでも濡れた体温と体温を寄り添わせるのは至福の心地だった。