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定点オルガン

作者: アロウネ

 風に乗ったメロディが、Kをいつもの空想遊びから引き上げた。聞こえた子どもは息まいて、音の出所へ集まっていく。さほど音楽に気がなくても、出所を確かめずにはいられないのはKも同じで、おもしろそうなら食いつくあどけなさは残っていた。

 Kは運動も勉強もできない。のべつまくなし空想ばかりしている。一人でものが決められない性格がにじみ出た顔つきに、まともな友達つきあいをしようなんて物好きはいなかった。まわりの大人連さえ「こいつはしょうがない」という雰囲気で、いてもいないものとして扱った。


 音の源泉にたどりついた子どもは、もれなく頬を紅潮させていた。男の回すそれは車ほどもある木製の箱で、装飾された出窓が開くと、中でミニチュアの楽団が行進している。クリーム色した箱も、そこかしこに鳥や獣の彫りものが隠れていて、人の顔が浮かぶ車輪まで手抜かりがない。上がった屋根から降り注ぐ音律のしぶきは、集まった人の心を躍らせた。

 Kの興味は、ハンドルを回す男に向いていた。やたら長い手足を窮屈な煙管服に押しこんだようで、みているこちらが落ちつかない。うつむいた顔は野球帽のひさしに隠れてわからないが、一生懸命に回しているのは、その背中と肘の動きでうなづけた。機械は男の一部で、男は機械の一パーツだった。

 だから男は休まずに回し続けた。あきてひとりが離れていっても、新たな客がふたりくる。前に置かれたレタスの段ボール箱に、いくばくかの投げ銭が入っていた。メロディはゆっくりはやく、高くて低い。荒れた海にもてあそばれた小舟のようで、飲み物片手に聞き惚れているような客はおらず、音律の次の動きを無視できない。

 そうこうしているうちに、夕方を告げる町のチャイムがかぶさって、ようやく男の楽器も勢いを失ってきた。終わりとみえてボール箱に銭をいれて背を向ける客に、手回しオルガンのしめやかな響きが見送った。

 首をかしげる間もなく、男は視線に気がついた。まわりの流れに逆らうように、小さな双眸は、機械ではなく男をとらえて離さない。

 こいこいこい、と男は手招きすると、ひょいひょいひょいと近づいてきた少年こそ、Kだった。

 近くで接するオルガン弾きは身の丈が大きく、楽器を演奏するような柄ではない。それでも黒髪の下からのぞくまなざしはおだやかで、表情と心中にまるで差がないことに、Kは独特の感覚で判断した。純真な子どもの感覚というより、同族が仲間とわかる嗅覚に近い。

「帰らないのかい」

 帰らない、とKは応えた。このあとで男がどこへ引っこむのかを見届けるのだと、思いついたばかりの理由を口にしてはばからない。

「それは困るな」さして困ってなさげに男は肩を揺すって含み笑いを漏らすと、その場に腰を下ろしたので、Kも地べたにしゃがんだ。

「じゃあ楽しいお話をするので、そいつでゆるしてくださいよ」


 はじめのうちこそ世界のあちらこちらといろいろ巡っていたのだけど、しばらくすると、どこも同じだと気がつく。すると、汗ばかりかいて移り歩くのがバカみたいになので、この土地に腰を落ちつけた。どうしてここだったのかはおぼえていない。ずっと昔の話だからね。

 春におぼえているのは宮参りのことだ。木綿の産着にくるまれた赤ん坊は愛らしくて、神さまの涙みたいな清らかさがあった。その左右でほほえむ両親ともに、さいわいあれとばかりにオルガンを回した甲斐があって、目を見張るほどの娘ぶりになった。幼なじみの火消しと祝言を挙げて、七人の子宝にも恵まれたのが、ちょうど新しい病いが流行しだした頃だった。

 自分一人だけが生き残ってしまうのは、つらいものだ。旦那と子供たちを河原で荼毘に付した後は、そのままお救い小屋に残って、ほかの患者たちの面倒をみるようになった。逆に気ふさぎにならずによかったのかもしれない。

 あるとき、疱瘡よけのつもりか、赤い着物に顔には紅殻をたっぷりつけて、まわりの生き残ってしまった連中を巻き込んで歌い、踊り始めた。とうとうおかしくなったかと心配したが、意外と客には受けていたよ。

 しばらくして病いの流行は一段落したが、人を元気づけるのが楽しくなったらしく、祝いごとがあると聞くや、日帰りも効かぬ土地まで出向いていった。ほら、オルガンの角についてる赤い染みは、彼女が騒いだときにぶつかったあとだよ。

 そうやって祝いと門付けを渡り歩くのがよほど性にあったのか、八十八でめでたくなった折りも、棺は内側まで赤一色だった。せっかく悔やみにきたのに、仏は踊りの衣装と化粧のままだったから、経を上げに来た坊主も笑い出す始末。それがいけなかった。集まったみんなが生前の故人をしのんで、歌うわ踊るわ、飲むわ食うわの大騒ぎ。あんなにやかましいとむらいは、その後もついぞお目にかからなかった。だからよくおぼえている。


 夏といえば。やはりあの暑い昼下がりだ。

 相棒の調子が悪い日で、ブツブツ途切れるわ、変な音が高く飛びだすわ、さんざんだった。暑い盛りの中で苦心惨憺、やっとこさ機嫌が直ってくれたはいいが、曲を聴いてもらう客がいないのはどうしようもない。このあいだの空襲で、木造の家屋はもれなく灰になってしまった。あたりはまだ焦げたにおいが立ちこめて、黒いマネキンを積み上げた大八車を見ない日はなかった。もう爆弾は降ってこないのはありがたかったが、これからどうなるものか。町の人にわからないことが、オルガン弾きにわかるはずもないけれど、あの光景は、誰の心にも同じ問いかけをしてくるんだよ。

 力なくオルガンを回していると、陽炎の向こうに初めて人の影がたった。鉄くず拾いじゃない。曲を聴いてくれる客だ。たったひとり、君よりずっと小さい女の子だった。はじめはオルガンの造形に興味を示したが、音が鳴る機械だとわかると笑ったんだ。あの、驚きが混じった笑顔というやつは、どれだけ見ても飽きないものだね。

 曲をねだられるまま商売道具を回してやると、あとからあとから子どもの数は増えていくばかりか、とうとう大人もやってきた。中には赤い目をぬぐうお母さんもあったが、どこか顔は晴れ晴れとしていて、その気持ちが伝わってくるのがうれしくて、それはもう調子よく回しまくった。

 それをさかいに、焼け野原にはバラックがたちはじめて、外国に行っていた男手も加わって瓦礫が片付き、開けた道に車や電車が通うようになった。紆余曲折、決してきれいごとばかりじゃなかったが、とにかく「これでもう大丈夫」と人々の生活に自信が乗った。

 なにより美しかったのは、夜の明かりの増えるさま。底抜けの開放感が身に染みるようだった。やったやったとバカみたいにオルガンと手を取り合った。

 けれども、住んでいた人は今ではバラバラになってしまって、もうだれも残っていない。ついこないだ最後の方を見送ったばかりだから、よくおぼえている。


 秋はそう、宵宮のことだ。宮の夜には、各地から集まってきた芸人で活気づく。

 中でも猿回しの娘さんは若いながらの芸達者で、猿より身軽にとんぼを切っておどろかせた。もうどっちが回して回されているのやら。私さえ客を取られたのも気づかずに、すっかり彼女の芸に取り込まれてしまうほどだったよ。

 猿人一体の芸はいよいよ冴えわたり、それをみるために百姓からさむらいまで、仙人から海女まで、六部も左官も男も女も集まってきた。とうとう門前の広小路まで使うようになった。

 それでも真打ちの娘はちぢこまることなく、逆に客の方が飲まれていたからたいしたものだ。あくる年には土地の代官までが一族を連れてやってきた。今でもここに軽業がこないのは、彼女の評判がまだ残っているせいだよ。

 はじめて娘を目にしてから、そう、十年ばかりたったろうか。魚屋だったという、乱入して刃物を振り回したのは。ただのたわけだったのか、奴にもなにかしらの理由があったのか。

 さも当然とばかりに娘の盆に粛々と進み出て、包丁で殴るみたいだった。けど、そんな痴れ者にやられる姉さんじゃあない。からだを回して避けるさまは風に流れるいかのぼりのごとく、それが最初から仕組まれた余興だと思ってしまったくらいだ。

 もしも、もっと不器用にしくじってくれたら。年頃の娘のように悲鳴でも上げてくれたら。かぶり付きに若い衆も詰めてたんだ、猿がやられることはなかったんじゃあるまいか。

 ちょうど刃先に飛びこむように、腕の付け根から胸を一文字に払われると、噴きだした血潮が丸く太い筆跡を残して、大輪の花がかみつくように咲いた。それで客はようやく目を覚まして、狂い人の手をつかみ足を押さえて取り囲み、ついに代官の沙汰も待たずに打ち殺してしまった。

 娘は女どもに介抱されて大事ないとわかったが、猿が身代わりになってしまった。悔やむ言葉もありゃしない。娘がその後どうなったのか、もう宵宮自体がなくなって調べようもない。名前を聞いておけばよかったと思う、唯一の人だった。忘れられない。


 冬はあまりおぼえていない。人が出てこないから。だから閉め出された人の相手ばかりしている。なにより哀れなのは、親から出て行けといわれた子と、自縄自縛でどうしようもなくなった大人だ。真面目ばかりがそんな目にあう。

 さいわい機械は回すとほのかに暖かいので、客がひとりきりでも、いいや、ひとりのときは逆に景気よくやった。踊る阿呆にみる阿呆。踊ってなにかが変わるじゃないが、せめて今だけでも心配に気が向かないよう、汗をかきかき回していると、あるときふいに客がいなくなる。遠くで親に手を引かれて帰っていく子、なにかを思い出して駆け出す人、いろいろだった。その背中に向かって、私はオルガンを回した。次にやってくる客たちに――ここが暖かいぞと知らせるため――に――――。


 そこまで話すと、急に男はうなだれて話をやめてしまった。Kが顔を上げると、反対に男のからだは空気が抜けたように崩れて、その足下にひれ伏した。なにが起こったのか見当もつかない。肩も首も、膝までねじ切れているのに、オルガン弾きの細面は血色よく、くちびるはまだ語りを続けていたが、声が乗っていない。

 Kがその生死を問わんとした矢先、楽器の屋根が飛び上がった。左右の側面が外れて、底を支えていた面が落ちる。その様子は細工物のようによどみなく、よって中から次々と現れる人形もまた細工物に相違あるまいと、当惑のるつぼにはまって妙な落ちつき方をしていたKをうなづかせた。

 よくよくみるとその造形物にはおぼえがあった。オルガンの窓から現れては消えていく、あのミニチュアの楽団で、おのおのの楽器を小脇に抱えたまま、あわてて外へ様子をみに飛んできた様子だった。もはや演奏どころではない。オルガン弾きの残骸を取り囲み、あるいは瓦礫によじ登ってくわしくあらためているものがいて、何名かが協力して男の背中や、野球帽に隠れた扉を開けていた。

「どうかね」口ひげの楽員がいった。その得物はタクトである。責任者の求めに応じて、現場チームが返答する。

「よく動いた方だね、だいぶ寿命がきてしまっている」

「でも全とっかえはしなくてもいいんじゃない」

「一番近い工場はどこだったかしら」

「クーポンあったでしょ」

「だめだ、期限が切れている」

 楽団指揮はひげをつまみながら、

「だれかにみられては迷惑だ、早々に片をつけて……」

 ふっと視線を向けると、思わぬ巨人と目が合った。

「なんと、公演中でありましたか」

「いいえ、もう終わったあとです」

 気づいてしまったKも、さしておどろく様子もなく、お互いに場違いなほどゆっくりと会釈を交わした。Kは今までのことを話して聞かせようと身を乗り出したが、制する方がはやかった。

「少年、オルガン弾きは客の前では常に公演中なのであります。けれどもこれは好都合だ」

 そういってタクトを振り上げると、その他の楽団員たちは、どこにいてもすぐに手の中にそれぞれの楽器を構えた。指揮者の揃った指先がツバメのような軌跡を描くと、まずバイオリンとマリンバが威勢よくはじまりを告げた。

 それを合図に幾千幾万の靴音がとどろいて、オルガンの下の口からどっと群衆が躍り出た。今度のミニチュアははじめて目にするものだった。なのにKには見覚えがある。むしろ、それぞれを知っているからこそ、楽団たち以上に身近だった。

 

 赤い顔と着物の女が髪を振り回しながら踊っている。それに導かれるように繰り出す中で彼女の三男四女が手を叩く。見合いでいっしょになった連れ合いは仕事仲間にかつがれて、巨大なまといを高々とふるっていた。あとに続くだれもかれも粗末な着物にやせたからだをしていたが、笑顔でないものはない。老いも若きも顔をくしゃくしゃにしかめて、中には泣きながら笑うものまである始末。かれらの視線の先では、赤い赤い女が火玉になって乱れ舞う。

 それに負けじと右の戸から現れたるは、白装束の旅芸人。囃子の音に突き動かされ、娘と猿の軽業は計算され尽くされていた。猿人一体、曲と芸の融けあった盆の上で、みるものは残らず魂を底までさらわれた。身分のちがいはどこへいったか、代官農民、棒手振りに左官、神主と乞食坊主、狂うしかしょうがなかった魚屋まで含めた、大きな一輪の花で空と大地が鳴動した。その花弁の中心で、娘と猿は腹一杯に芸の麻薬に酔いしれて、ふたりの体内は人型の空白。このまま手足がちぎれても、おそらく永遠に気づくまい。

 赤と白の芸に熱狂する客は、ひっきりなしにあふれていた。国民服の男は諸手を挙げて、しわだらけのスーツの男と喜びを持て余すまま、下手なワルツを踊っていた。逆に女たちは落ちついたもので、着物はもとより、すすけた顔と化粧映えした顔、まとめ上げただけの髪の女が、パーマネントの女が泣く背中に手を添える。タクシーの連発クラクションを路面電車が鐘の連打で打ち返し、進軍ラッパがかたっぱしから亡者をたたき起こしていく。子どもにいたってはすでに新旧が入り交じって楽員の前後を走り回っていたいた。大きい子が小さいのを負ぶさり、女の子が男の子の手を引く。そこにあったはずの断絶は、すでに永遠を旅する風琴の中で消失していた。今はただ当たり前のように昨日していたことを繰り返す、どこまでも透明で無自覚、あきれるほど放縦な愛があふれているばかりだ。

 オルガン自体も負けていない。彫りものの鳥も獣もじっとしていられず、車輪の顔はお互いに目配せを交わして歌い上げる。クリーム色の箱枠さえも、いてもたってもいられずに前後左右にリズムを取ってスイングした。草木も地蔵も踊り出す。つむじ風も飛行機雲も、何事たるやと立ちどまる。

 かれらの熱狂を支えているのが、情熱を氷でくるんだような楽団と指揮者だった。いつもの本拠地よりも通る音は、群衆ひとりひとりの胸を刺し貫いて、ある定まった軌道を植えつけていった。

 疲れた六部がオルガン弾きにとりつくと、そのパーツを剥いで、後ろの片足のない軍人に手渡した。軍人はさらに後ろの名主の道楽息子へ、モンペ穿きの女へとパーツが送られていく。そのラインがいたるところではじまって、まるでオルガンが触手を伸ばして男を分解しているようだった。細切れのエサは、次々と生きている大箱の腹に消えていく。

 Kの見つめる先で、男はいよいよ小さくなっていき、投げ銭のレタス箱に続いて、ついに野球帽まで収められると、群衆は現れたときと同じ勢いで帰途についた。中にはKの姿に気づいて手を振る子もあったが、返事をする前に姉だろうか別の娘に手を引かれていってしまった。ついで楽団たちが音楽を続けたまま引きあげていき、最後のシンバルとティンパニーの背中が消えると、指揮者はあらためてKを振り仰いだ。

「これもなにかの縁。どうか助力をお頼み申す」

 そういうときびすを返して、縁からオルガンの中へ飛びこんだ。あとからふたがぱたりと閉じて、さっきまでの喧噪がきれいさっぱりなくなった。だからよけいに呼びかける声が際だってまっすぐ届いた。

「少年、すまないが運んでもらえないだろうか」

 待てが解かれた犬のように、すぐさまKは大装置に飛びついた。他のだれでもない、自分がやりたい信念が細腕に充ち満ちていた。

 押されるままオルガンはぐんぐん速度を上げて、長年のエサ場をあとにした。


 それから十年をへて、Kが帰ってきた。

 伸びた身の丈を仕立てのいい服が包み、灼けた肌はなめし革を張ったような光沢があった。当時の様子をわずかながら残しているのはまなざしぐらいで、はじめは親でさえKとは気づかなかった。

 神隠しだ誘拐だと騒がれたが、本人は一言も真相を語ろうとしなかった。嗅ぎつけてきた記者たちは先を争って取材に挑んだが、どこも不首尾に終わった。

 なにより彼らをいらだたせたのは、Kの微笑だった。果物に刃を入れたような笑みの前では、どんな真剣な問いかけも不真面目になった。子供の取材ごっこに付き合う父親でも、そこまで残酷に相手のあどけなさを笑ったりはしなかったろう。

 どうしたものかと仲間内で相談していると、本社から別の大ニュースが飛びこんできて、これさいわいと記者たちが一斉に引きあげていった。

 だれもいなくなった玄関にKがふらりと現れて、散歩だろうか、どことも告げずに出かけていった。

 そうして二度と帰ってこなかった。

(了)

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