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深夜の廊下に物音はしない。歩く度、衣擦れと足音だけがぽつんぽつんと落ちていく。左右どちらにも道が続いている。僕は一度左手側端まで歩き、それから戻る形で右手側を進んだ。
その最中、扉の一つ一つに、耳を近づけていく。壁は厚く寝息は漏れないが、この時間とあればみんな寝ているだろう。すべてを確認してから校舎を抜けた。
使われない校庭の真ん中で校舎を振り返る。どこにも明かりはついていない。そのまま、汚れることも厭わず寝転がると、風が適度に冷たく、頬を撫ぜる。空は高く、星が良く見えた。
慌ただしい日々を思い返しながら、それも次の試験で終わるのだと考える。唐突な出会いと、意思による別れ。もう二度と会うことがないのだとしても、それで気持ちが晴れるわけでもなかった。そこまで単純なつもりはない。
足音に視線を向けると、御子野瀬さんが立っていた。彼は煙草をふかしながら、ゆっくりと近くまで寄ってきて、隣に腰を下ろす。
「寝ないんですか?」
「そのまま返すよ」あぐらを組んで、あくびを漏らす。「身体は労わってやった方がいい」
「それも、そのまま返します」
言うと彼は笑った。
どうしてしきさんの来訪に気付き、どうしてキスをしたタイミングで部屋を開けたのか。そんな疑問を彼にぶつけても、無意味だろう。これは、彼個人によるものではなくもっと大きなものの縛りだからだ。あえて言葉にして問うことは愚かだし、それにむざむざ答えることも愚かだ。ただお互いがわかっていればいい。
自然、言葉数は少なかった。倍以上生きている人を相手にこのような姿勢のまま何も話さないのは失礼だろうか。いや、いまさら気にすることでもないか。彼も構わず煙草を吸い続ける。
「長いような、短い日々だ」地面に擦りつけて、携帯灰皿にしまう。「人生それ自体もそうなのかもな。あっという間に結婚して子どもまで作って、そういうのはもっと先のことだと思っていた」
「なんだか」目を閉じる。「死に際の台詞みたいですね」
「死なないよ」彼は鼻だけで笑う。「人は簡単に死ぬけど、死を意識している人間は簡単には死なない」
「意識しているんですか?」
「まあね。毎日ビクビクしているよ。怖がりな人間は、あらゆるパターンを想定して行動する。だから結果的に死を避けている」
「僕もそうかもしれません。怖いんです、毎日」
それに対し彼は返事をせず、代わりに、
「試験が終われば俺と君もまた、見ず知らずの人間に戻る。不思議な縁だ。確かに関わったのに、そのうち忘れて、なかったことになる」
「忘れませんよ」
「いや、忘れるんだよ。いつかはね」
「忘れません」語気が強くなる。今僕は、誰を想像したのだろう。「忘れたくありません」
物分りの悪い生徒を労るような視線だった。
「君はやはり優しい人だと思うよ。それはしっかり自覚しておいた方がいい」そして立ち上がると、「最後の試験だ。早めに寝なよ」
「……はい」
「最初の担当が君でよかった。それじゃあまた明日」
彼は何をしに来たものか、そうして早々と戻っていくのだった。
気持ちは落ち着かないままだった。それでも時間は過ぎていくし、試験は始まる。それに逆らうことは出来ない。
腰を上げると、校舎に向き直る。
どこかのカーテンが揺れた。
そんな気がした。




