表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/92

69

「しきさん」

 呼ぶと、彼女は硬い表情のまま、しかしすばやく部屋の中に入り込み、音を立てないようにそっと扉を閉める。そして口元に人差し指を立てた。

 彼女はシルクのパジャマに身を包んでおり、髪はシャワーの後らしく濡れている。そもそも余り化粧をしていないのか、印象はさほど変わらない。

 そんなことを考えて、それからゆっくり、この時間に、若い男女が二人きり、個室に居ていいのか、と心が揺らぐ。慌てる。でも、だからこそ馬鹿を演じ、

「こんばんは」

 挨拶をすると、律儀な彼女は声を潜めながらも、

「こんばんは。失礼します」

 そう返してくれる。

 どうして。

 その疑問は絶えず頭の中を駆け巡っていたが、とりあえずはベッドの上、僕の隣に彼女を座らせる。彼女も大人しく従った。

 シャンプーの香りが届くと、すぐにノックアウトされそうだった。

「どうしたの」

 なるべく意識を彼女自身から離そうと、視線を向けずに、訊ねる。

 すると彼女は真剣な顔のまま、

「夜這いです」

 そう言った。

「ヨバイ……、って、夜這い?」驚きで、心臓が痛む。「やばい」

「やばいじゃなくて、夜這いです」

「夜這いって、何で。何でしきさんが?」

「声が大きいです。少し落ち着いてください」彼女は扉のほうに視線を投げる。「電気も消したほうがいいですね」

 そして立ち上がると、何の躊躇いもなく明かりを落とした。

 夜這いだって?

「落ち着いて」しきさんは繰り返す。「私も緊張しているのです。だからどうか、落ち着いてください」

 なんだか矛盾したようなことを言ってから、本当に困惑しているのか、頭を抱えるように、手を伸ばした。

「どうしてこんな。いや」一つ屋根の下、と言うには規模が大きいが、男女が同じ場所で寝泊りしていればこのくらいのこと……、ましてや彼女たちは僕の妻となるためにここに着ているわけで、などと考えていたが、言葉にはしない。「わかった、一旦落ち着きます」

 深呼吸を三回。

 彼女も隣に戻ってくると、それを真似した。

 たったそれだけで落ち着けるわけもなかったが、それでも落ち着いた振りをする。

「とにかく、戻ったほうがいいよ」

「戻る? 戻りません。私は、夜這いに着ているのですから」

「夜這いって、だから、何で?」

「私は」しきさんは両手を強く握り締めた。「ここまでの試験を完璧に通過してきたと思っています」

 全く揺らぐことのない瞳をこちらに向ける。

「まあ、そうだね。そうかもしれない」

「下調べも、準備も、完璧に行ってきたつもりです」

「それは、なんとなく伝わるよ」

「その私にして、このような手を使わざるを得ない、その状況を、考えてください」

 このような手?

 使わざるを得ない?

「私は長嶺さんの妻となりたい。それは、当初の目的である卒業より、今は胸のうちを占める大きな事実として、しっかりと存在しています。あなたは、あなた自身がどう思っているかはともかくとして、魅力的な男性です。ここまでの試験で落ちてしまったみんなも、きっと同じことを考えているのではないかと思います。長嶺さん、あなたは自分で思っているより、絶対的な存在で、唯一なものなのです。どうか私を妻として迎えてください」

 そしてしきさんの手が、震えながら、僕の唇に触れた。

 濡れる瞳は、恐れか。

「待って、待ってくれよ」

 身を引く。

 彼女も手を下ろした。

「やっぱりよくわからないよ。わからない」

「長嶺さんはわからなくてもいいんです。そのうち、あなたの今の疑問は、全て解消される。今は悩んでも悩んでも出てこない答えが、すっきりと解決される。あなたは今、流されるままに、身を任せればいいのです」

「だって、そんな、どうして」

「こうでもしないと……」

 しきさんは続けなかった。

 僕の頬に手を触れ、その目をこちらに向け、ゆっくりと、唇を合わせてくる。

 それは、今までのどんなものとも感触の異なる、未知な体験だった。

 だが。

「失礼するよ」

 それは一瞬で終わる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ