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「しきさん」
呼ぶと、彼女は硬い表情のまま、しかしすばやく部屋の中に入り込み、音を立てないようにそっと扉を閉める。そして口元に人差し指を立てた。
彼女はシルクのパジャマに身を包んでおり、髪はシャワーの後らしく濡れている。そもそも余り化粧をしていないのか、印象はさほど変わらない。
そんなことを考えて、それからゆっくり、この時間に、若い男女が二人きり、個室に居ていいのか、と心が揺らぐ。慌てる。でも、だからこそ馬鹿を演じ、
「こんばんは」
挨拶をすると、律儀な彼女は声を潜めながらも、
「こんばんは。失礼します」
そう返してくれる。
どうして。
その疑問は絶えず頭の中を駆け巡っていたが、とりあえずはベッドの上、僕の隣に彼女を座らせる。彼女も大人しく従った。
シャンプーの香りが届くと、すぐにノックアウトされそうだった。
「どうしたの」
なるべく意識を彼女自身から離そうと、視線を向けずに、訊ねる。
すると彼女は真剣な顔のまま、
「夜這いです」
そう言った。
「ヨバイ……、って、夜這い?」驚きで、心臓が痛む。「やばい」
「やばいじゃなくて、夜這いです」
「夜這いって、何で。何でしきさんが?」
「声が大きいです。少し落ち着いてください」彼女は扉のほうに視線を投げる。「電気も消したほうがいいですね」
そして立ち上がると、何の躊躇いもなく明かりを落とした。
夜這いだって?
「落ち着いて」しきさんは繰り返す。「私も緊張しているのです。だからどうか、落ち着いてください」
なんだか矛盾したようなことを言ってから、本当に困惑しているのか、頭を抱えるように、手を伸ばした。
「どうしてこんな。いや」一つ屋根の下、と言うには規模が大きいが、男女が同じ場所で寝泊りしていればこのくらいのこと……、ましてや彼女たちは僕の妻となるためにここに着ているわけで、などと考えていたが、言葉にはしない。「わかった、一旦落ち着きます」
深呼吸を三回。
彼女も隣に戻ってくると、それを真似した。
たったそれだけで落ち着けるわけもなかったが、それでも落ち着いた振りをする。
「とにかく、戻ったほうがいいよ」
「戻る? 戻りません。私は、夜這いに着ているのですから」
「夜這いって、だから、何で?」
「私は」しきさんは両手を強く握り締めた。「ここまでの試験を完璧に通過してきたと思っています」
全く揺らぐことのない瞳をこちらに向ける。
「まあ、そうだね。そうかもしれない」
「下調べも、準備も、完璧に行ってきたつもりです」
「それは、なんとなく伝わるよ」
「その私にして、このような手を使わざるを得ない、その状況を、考えてください」
このような手?
使わざるを得ない?
「私は長嶺さんの妻となりたい。それは、当初の目的である卒業より、今は胸のうちを占める大きな事実として、しっかりと存在しています。あなたは、あなた自身がどう思っているかはともかくとして、魅力的な男性です。ここまでの試験で落ちてしまったみんなも、きっと同じことを考えているのではないかと思います。長嶺さん、あなたは自分で思っているより、絶対的な存在で、唯一なものなのです。どうか私を妻として迎えてください」
そしてしきさんの手が、震えながら、僕の唇に触れた。
濡れる瞳は、恐れか。
「待って、待ってくれよ」
身を引く。
彼女も手を下ろした。
「やっぱりよくわからないよ。わからない」
「長嶺さんはわからなくてもいいんです。そのうち、あなたの今の疑問は、全て解消される。今は悩んでも悩んでも出てこない答えが、すっきりと解決される。あなたは今、流されるままに、身を任せればいいのです」
「だって、そんな、どうして」
「こうでもしないと……」
しきさんは続けなかった。
僕の頬に手を触れ、その目をこちらに向け、ゆっくりと、唇を合わせてくる。
それは、今までのどんなものとも感触の異なる、未知な体験だった。
だが。
「失礼するよ」
それは一瞬で終わる。




