#30 事実はゲームよりも奇なり
「――で、あるからこの公式を――数値をこのようにして当てはめ――」
窓の外、少し日が傾いてきた昼下がり。
ゲームでレイドイベントに遭遇しただとか歌の練習で時間がないだとかは関係なく、平日に学生は学校に行かなければならないのが当然だ。
初老の教師が黒板につらつらと文字を書き連ね、それを淡々と読み上げている。やる気がないのか教え方が下手なのか、内容は机に広げた教科書に載っていることそのままだ。脱線することもなく進むそれは、一種の子守歌で間違いなさそうである。
周りを見れば机に突っ伏しているのが大半で、残りもほとんどは黒板に視線は向いていない。かくいう私も手に持っているのは筆記用具ではなく携帯端末だ。液晶には歌の練習方法についての検索結果が表示されている。
……健全な学生の態度ではないけど、まあ、それも仕方がないと思うよ。
なにしろ連休明けで、今は本日最後の授業で、それに一つ前の授業は屋内プールでの水泳だ。皆々体力気力ともに限界なのである。今の状況が体力が切れた結果なのか放課後の為の充電なのかは人それぞれだろうが、少なくとも私は後者だった。
期限までは二週間。
歌などまったくの未経験である私にとっては、スキルの補助あるなしに関わらず色々と厳しいのは間違いない。リアルに近いからかレベルを幾つまで上げれば良いなんて基準がないし、しかし実際に歌う際には補助をアテにするなと言うのだから酷い話だ。
なので朝の発声練習に生かす為に色々調べてはいるけど、しかしうまく集中できていない。あ、授業に集中しろよと言うツッコミはなしでお願いします。
集中が阻害されている原因は二つ。
一つはこの授業が終わった後の事だ。鬼教官から、だいたいの学校は音楽に関する部活はあるはずだから、そこを入部もしくは見学してきなさいと指示されていた。私は一年かつ帰宅部なので見学と言えば見せてもらえるだろうけど、実際に入る気はない――と言うより、根本的な理由により入れない――ので二週間後にどうやって断ろうかと今から気が重い。
あと一つは、先ほどの水泳の授業。
何故かガン見された。それも一つ上の女子生徒に。
……これで相手が男だったら色々とアウトだった。
事は水泳の授業、その着替え。
体育はだいたい他の学年と被っていることが多く、今日のもそれであった。着替え終えた所で何か視線を感じると振り向けば、そこには私と比べると頭一つ分は違うスラッとした体型の人が――超至近に。
振り向いた瞬間、こう、ビクッと体が震える羽目になった。正直、悲鳴が出なかったのは奇跡に近い。
それはもう穴が開くほどと言うより、瞬きすらしていないレベルだったら普通は驚くだろう。あまりにも注視しているので逆に周囲から"何事!?"とドン引きされる事態になっていたほどである。
なんとか気にしないようにして授業に挑んだが、それでも見続けられて大変だった。主に私の精神の削れ具合が。
最後には当の女子生徒はクラスメイトにバックドロップでプールに叩き込まれていたが、それでも水中から見てくるのはホラーが入り過ぎでヤバかったと言うか夢に出そうだ。誰だ悪霊退散とか叫んだの。
「……うーん、ゲームは兎も角、リアルでは何もやってないんだけど。はずなんだけど」
幾ら記憶を探っても、私とあの女子生徒とは面識がないはずである。
他に考えられる理由としては姉か弟の関係者か。そもそも私の外見は悪い方で目立つのではあるが、向こうとは体育が合同なのは前からだ。今更それほど気にされる理由が分からない。
結局その女子生徒がどうして私を見ていたのか不明のままだったので、今も気になって仕方がないのだった。
「どうせ長くとも来週にはまた会う事になるか……」
一週間後にはまた同じく合同での授業だ。どちらかが休んでいない限りは顔を合わせることになる。
……厄介事でないことを祈っておこう。
そして最後の授業が終わり、ホームルームも一瞬で過ぎ去って。
「……ここか」
今、私は一枚の扉の前に立っていた。
他とは違い、音を漏らさぬようにと重厚な作りをした扉だ。事実、扉の向こうには既に何人かいるようだが、ほんの僅かしか内部の音は聞こえてこない。
無駄に広い校舎の一角。有り余っているが故に授業では使われていない部屋の扉上部に掛けられたプレートには、少し色褪せた紙にこう書かれていた。
音楽部、と。
「うん、入らないといけないんだけど、なぁ」
……やっぱり駄目だー。
ここ数日で色々あったので人見知りも一気に解消! とかしてないかなあ、なーんて思ってみたものの。当たり前ながらそんなに甘くは無いよねえ。ちくせう。
「あー……うー」
手が扉に伸びては引くという行為を何度も繰り返してしまう。いかん、傍から見れば完全に不審者だ。
……もう、いっそ帰るか?
いや、駄目だ。
せめて一回だけでも見学しておかないと鬼教官に怒られるだろうし、何より紹介してくれた夢見さんに申し訳ない。やはりここは思い切って入るべき――なんだけど。なんだけどね。
……別に今日じゃなくてもよくない?
今日はどうにも精神的に疲れているから、見学しても身に入らないだろう。なら今日は英気を養い、悪いけど鬼教官には今日は部活は休みでしたと告げればいい。
言い訳としては十分、と言いたいが。
「うー……」
こう、罪悪感とか自己嫌悪とか、少し前なら軽く無視できたものが足を縛る。
多少は前向きになっていると言ってもいいのか、それとも単にヘタレになってしまっただけか。
「はぁ……」
長い溜息を一つ。
仕方がない。ここは一先ず食堂にでも行き、無料のお茶でも飲んで落ち着こう。
そう思い、肩を落として踵を返して――
「……………」
「にひっ」
体を反転させた先にいたのは、満面の笑顔を浮かべた女子生徒。
何時の間にとか、その笑い声はどうかとか、あまりの精神的衝撃でそんな事すら考えられない。驚き具合で言えばレイドボスとの遭遇も大概であったが、音も気配もなく背後に立たれていた今の状況も思考を停止させるのに十分だった。
いや、それよりも私を驚かせたのはもっと別の要因。確かにいつの間にか後ろに人がいたことには驚いたけど、固まってしまった原因はそこではなく――
そしてそこからは一瞬の出来事である。
ひょいとその女子生徒の腕が私の首に回り、がっちりとホールド。彼女はもう片方の腕で音楽部の扉を勢いよく開けると、そのまま私を引きずって元気よく入室した。
「わたし、参上!」
部屋の中にいたのは楽器を持った生徒が数名。
突然大声で部屋に入ったにも関わらず特に驚いた様子がないのでいつもの事なのだろう、中の人たちは皆めいめいに挨拶を返す。
「あ、部長。こんにちはー」
「おつかれーっす」
いや運動部じゃないからだとしてもかなり緩いな……って部長? え、この人が?
私がまだ硬直していると、部員の視線が私に移った。そして綺麗にピタリと固まる部員一同。
ホールドされている私を見て、部長さんを見て、もう一度私とを行き来させて、
「部長、いつかやるとは思ってたけど……」
「……ついに犯罪に手を染めてしまったのですね。あ、自首する前に退部届だけお願いしますね? ウチとは無関係という事で一つ」
「君ら酷くね!?」
……なんだろう、このやり取りだけでこの人の立ち位置というかキャラが分かった気がする。
そんな事を考えていると、奥から部員の一人が近づいてきた。三つ編みおさげに黒フレームの眼鏡で化粧っ気がないという、地味だが顔が綺麗なので余計に堅物そうに見える人だ。委員会ならば風紀とかやってそうなイメージである。
私を未だロックしている人が部長なら、この人は副部長だろうか?
副部長さん(暫定)は私を見て怪訝な顔をした後、少し強めの語気で言葉を出した。
「本当にその子、無理やり連れて来たとかじゃないでしょうね」
「信用なくない? いい加減泣くよ?」
「そうも思うでしょ。だってその子――」
もう一度私と部長さんを見た後、長いため息をつく。
「その子、あなたがさっき水泳の時に凝視してた子じゃない」
そして貴女は部長さんをプールに叩き込んでいた人ですね? 眼鏡とおさげじゃなかったので気づくのが遅れましたけど。
首を抱えられたまま、その腕の持ち主を見上げる。さっきから私を離さない部長さんは何故かドヤ顔だった。そして、プールで私をガン見していた顔で間違いない。そんな強烈なインパクトを残していた人が急に背後に立っていたら驚きで固まるのは仕方がないでしょうよ。
いや本当、最近なんだか前触れなく状況がぶっ飛ぶと言うか何と言うか。うん、あれだ。
……どうしてこうなった。
▼#33まで下記日程で投稿予定
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