神と悪魔
「ああ! もはや、神でも、悪魔でもかまわない! 私に救いを!」
劇場に男の嘆きの声が響き渡った。
「私たちを呼んでるわよ。お姉ちゃん」
「私たちを呼んでるわね。メフィちゃん」
舞台上では、双子のように似通った妖艶な女性二人が、テーブルを挟んで向かい合い、優雅にティーカップを傾けながら、親しげに話している。姉と呼ばれた方は、純白の衣装に身を包み、メフィと呼ばれた方は、漆黒に身を染めていた。どちらが神でどちらが悪魔かは瞭然だった。
「救いって何かしらね。お姉ちゃん」
「救いって何でしょうね。メフィちゃん」
「せーの、で言い合ってみましょうか、お姉ちゃん」
「せーの、で言い合ってみましょう。メフィちゃん」
同時に発せられたせーの、の掛け声に続いて、『肯定』と『否定』という答えが挙げられた。そして、困ったように笑いあう二人。
「あらあら、まあまあ、真逆だわ。お姉ちゃん」
「あらあら、まあまあ、真逆ね。メフィちゃん」
「どうしてそう思うのかしら。お姉ちゃん」
「だって、人は生きていくでしょう。時は流れていくでしょう。そのことを肯定しなければ、人生に救いを見出すことなんてできないわ。メフィちゃん」
「いいえ、お姉ちゃん。生きていることも、時が流れることも否定して、ただ自分の内にのみ篭もる。それこそが救いだと思うわ。お姉ちゃん」
「うむむ、私たちこんなにも似ているのに、意見が噛み合わないことが、稀にだけどよくあるわね。メフィちゃん」
「そうね。これで何回目かしら? でもそんなお姉ちゃんが大好きよ」
「私もメフィちゃんが大好きよ」
二人はティーカップの取っ手から手を離し、互いに指を絡ませあい、なぞりあった。顔も二人とも同じ程度にやや紅潮している。微妙に肩も上下に動いていた。荒くなっていく息遣いが、客席にも届いてきそうなほどであった。
「それにしても、この件はどうしましょうか。メフィちゃん」
「そうだわ、賭けをしましょう。お姉ちゃん」
「それは面白そうね。メフィちゃん」
「これは面白いでしょう。お姉ちゃん」
「じゃあ、あの男が現実を肯定したら私の勝ちね。メフィちゃん」
「じゃあ、あの男が現実を否定したら私の勝ちね。お姉ちゃん」
「とは言っても、どう判断するか難しいわね。メフィちゃん」
「そうね。どうやって判断しましょうか。お姉ちゃん」
二人はしばし、肘をテーブルに付け、顎を手に乗せて考え込むような姿勢になった。劇場は静寂に包まれる。
しばらく経った後、二人は同時にティーカップに手を伸ばし、紅茶を口にした。
「あらあら、随分長い時間考え込んでいたみたい。紅茶が冷めちゃったわ」
「あらあら、随分長い時間考え込んでいたわね。でも冷めた紅茶もおいしいわ」
そして、何かを思いついたように、同時に片方の手を握って、もう片方の手のひらに打ち付けた。その様はまるで、鏡のようであった。
「時間、これにしましょう。お姉ちゃん」
「時間、これにしましょう。メフィちゃん」
「なら、時間に対して、止まったり戻ったりするよう呼びかけたなら、私の勝ちね。お姉ちゃん」
「なら、時間に対して、進むことを認める呼びかけをしたのなら、私の勝ちね。メフィちゃん」、
「もし私が勝ったら、姉の座をもらうわ。お姉ちゃん」
「それは大変。でももし私が勝ったら、妹から召し使いに格下げね。メフィちゃん」
「それは大変。そうと決まれば、早速、あの男のところにいってくるわね。お姉ちゃん」
メフィは、椅子にかけたままの状態で、迫下げで退場していった。
「うふふ、困った子ね。まあ、いってらっしゃい。おみやげ期待してるわよ」
残された姉は、にやにやと怪しげな笑みを浮かべながらひとりごちた。
「あの子、砂糖あんまり入れないのよね。でも美味しい。メフィちゃんのだからかしら。きっとそうね」
そして、メフィが残していったティーカップにおもむろに口を付けた後、言った。
随分と大胆なアレンジだ、でもこういう挑戦的なのも面白い、とアリスは感じた。『ファース』原作の冒頭の、神と悪魔が賭けをするシーンを、同性愛の気すら感じさせるほど仲の良い姉妹の他愛ないお遊びとして演出するなんて。脚本家の趣味すら垣間見える。
もともと背徳的な描写が多く、表紙に注意書きが載せられている作品なだけに、親子で見て大丈夫かな? との不安もあったが、入場制限もかけられてないし、そこまで露骨なのはないだろう。と野暮な考えを頭の片隅に追いやる。
マールは、純粋に神と悪魔の双子芸じみたやりとりを面白がっている様子だった。確かに、動きが見事にシンクロしていて、子供でも楽しめるようにと工夫がなされているのが見受けられた。
そして、父親は食い入るように真剣に、舞台を凝視していた。どうやら、今の会話の内容自体に思うところがあるようだった。
救いはどこにあるのだろうか。肯定と否定、どちらにあるのだろうか。きっとそう考えているのだろう。
アリスの目星が正しければ、彼は今まで、否定に救いを求めていた。異様に寒い部屋といい、『時を止める』なんて表現を用いたことといい、それはほぼ確信していた。