親子
ノックして数分のち、ぎい、と重苦しい音を立てつつゆっくりと扉が開かれると、妙に冷たい空気が肌を刺し、アリスは身震いをした。
そして中から、ぼさぼさの髪に伸び放題の無精髭、病的に白い肌と光を失ったような瞳を持った男性がゆらりと顔を出した。実際死んでいるマールちゃんより死んでいるような顔をしているなと、不謹慎ながら感じてしまうアリスだった。
「もう、パパったらマールが言ってあげないとすぐそうなっちゃうんだから。ちゃんとしてればかっこいいんだから、身なりとか気にしてよ! 髭とか剃ってさ!」
アリスの口を借りて、彼の娘であるはずのマールは、まるで妻か母親のようにたしなめた。
「マール、ちゃん……?」
彼は娘の名を呟いただけで、扉を開けた姿勢のまま立ち尽くす。
「ほら、早く準備して! もう余り時間もないんだから!」
そんな父親を、マールは急かすようにまくし立てる。
「……時間?」
「スト様のお芝居に連れて行ってくれるって約束したでしょ! 忘れたの?」
「……そう、だったね。すぐ支度するから、中でちょっとだけ待っててね」
彼は夢見心地の表情になり、そう答えた。
家の中は完全に遮光されていた。その上、扉が開いたときに感じた冷気は、明確な寒気として、マールと共有しているアリスの身体を襲った。この外との異常なまでの温度差は、何らかの設備がないと作り出せない。
マールの父親は、毛皮のコートを身に纏っていた。
外は半袖でも薄手の長袖でも快適に過ごせる気温だというのに、わざわざ雪国の人々がするような格好をしなければならない環境を作り出すなんて、どう考えても不自然だ。間違いなく何らかの意図が存在する。
「ねえ、どうしてこんなに寒いの?」
これはアリスの意思でなされた質問だった。
「時をね、止めるためだよ」
ランタンの光を元に髭を剃りながら返ってきたマールの父親の言葉は的を射ないものだったが、目星は付いている。
この寒さの理由は――。
「ふふ、やっぱりパパって詩人だね」
自分自身の口から出た嬉しそうな声を聞き、アリスはそれを考えるのを止めた。今のあたしは、楽しみにしていた父親との芝居鑑賞に向かう女の子、マール。探偵とか斥候じみた思考は、野暮ってものだろう。
あたしは今はただ、あらゆる感覚が直接マールという役者につながっている舞台を楽しむことに集中すればいい。
「馬の尻尾みたい」
マールは父親の髪を引っ張った。顔は髭を剃ってさっぱりしたが、伸びきった髪は櫛で梳いて後ろで束ねておくだけの処置となった。服も外気に合ったものに着替えている。
「でも、ま、合格! かっこいいパパに戻ったよ!」
父親は愛する娘からお褒めの言葉をいただき、照れくさそうに顔を撫でた。
「さてと、それじゃ出発!」
家を出ると、マールは矢のように駆け出した。父親もそれに合わせてやや駆け足になるが、マールを追い越さないように速度を調整しているのが傍目ならわかるだろう。
「わーい、マールの勝ち!」
競争ともどこがゴールとも言ってないのに、マールは急に足を止めてそう宣言した。
「はぁはぁ、負けちゃった。マールちゃんは足が速いなあ」
それを受けて、父親はわざとらしく肩で息をするような動きを見せ、敗北を認める。
「じゃあ、ご褒美に、あれ」
マールは、道端にある屋台を指差す。もちろん、この場をゴールとした理由がそれだった。
並んでいるのは、色とりどりの飴。形も星型、三日月型、音符型など様々だった。綿のように白くてふわふわしたものもある。ここの屋台の飴のほとんどを口にしたことがあるマールは、綿みたいなのが一番好きだった。
「はい。買ってきたよ」
「ありがとうパパ」
受け取ったマールは、まずちぎって自分の口に入れ、
「ありがとうマールちゃん」
二回目は父親の口に入れた。父親と一緒に食べられるから、一番好きだったのだ。
わたあめに舌鼓を打ちながら歩いていると、劇場に到着した。父親はもぎりに大人と子供、一枚ずつを手渡し、親子で入場する。
薄暗いホールに、真紅の緞帳だけが照らされている。さながらそれは、異世界に通じる門のように神秘的な雰囲気をかもし出していた。観客たちは、あるものは静かに、ある者は語り合いながら、それが開くのを待つ。
「わくわくするね」
「そうだね。でもこのお話、ちょっと難しいかも。マールちゃんでも楽しめるかな?」
「パパにたくさんお話読んでもらったから大丈夫だよ。もしわからなかったら……」
「わからなかったら?」
「パパを見てるよ」
会話を楽しむ二人の視界が一瞬暗黒に包まれる。そして、ゆっくりと緞帳が上げられ、そこから強い光がホールに差し込んできた。
舞台が、始まる。