マール
その日の深夜、アリスたちが祝福の門に向かうと、その傍らでうずくまり泣き声をあげている四、五歳ぐらいの少女を発見した。
「どうしたの、お嬢ちゃん?」
アリスは少女に、優しく声をかけた。
「……マール」
「え?」
「お嬢ちゃんじゃなくて、マール」
彼女は質問には答えず、代わりに自分の名を告げた。その顔は、ちょっと拗ねたような表情であった。
「ごめんね、マールちゃん。それで、どうして泣いてるの?」
「……スト様のおうちがわからなくなっちゃった」
死者の魂を鎮める香の効果と、肉体を失った魂が行くべき場所である天国の名が載った部屋のプレートを外したことにより、マールは毎夜通っていた場所を見失ってしまったようであるが、ブレストに対する興味をいまだ失っていなかった。
「……そこはマールちゃんの行くべきところじゃないのよ。あなたの帰るおうちは、あっち」
アリスは祝福の門の方角を指差した。深夜だが、それは淡く優しい光を発していた。恋愛がらみの妙な尾ひれがついているが、元来、祝福の門は神話にある天国への門をモチーフとして作られたものであったため、迷える魂を葬るにはうってつけの場所である。だからこそ逆に、マールのような死を自覚しない魂が迷い出てしまったのだろう。
「お姉ちゃんの嘘吐き」
しかし、少女は取り付く島もない様子で言い放った。
「どうして嘘だって思うの?」
「だって、パパがスト様に会わせてくれるって言ってたもん。パパは絶対に嘘つかないもん。だから嘘吐きはお姉ちゃん」
どうやら彼女は、父親を心から信頼するあまりに、自分の死すら気づいてない様子であった。強制的にあの世に送る手段がなくはなかったが、この無垢な少女にそのような仕打ちをするのは気が引けるアリスだった。
「ごめんね。お姉ちゃんが間違ってたよ。パパってどんな人?」
穏便にことを進めるには、マール自身の協力が必要だと判断したアリスは、何とか彼女の信頼を得ようと、話題を変える。
「うんとね、お仕事で絵を描いてるの」
「そうなんだね。どんな絵?」
「似顔絵! 凄く上手なんだよ! マールのお顔も描いてくれるし、すごく優しいパパ。お菓子が食べたいって言えば買ってきてくれるし、本を読んで欲しいって頼んだらマールが寝るまで読んでくれるの。スト様に会わせてくれるって約束もしたよ! ママがいなかったけど、マール寂しくなかった」
すると、態度を一転させ、楽しそうに父親について語りだした。
「あ、ちょうど今も読んでくれてる」
「今も?」
「そう、マール長いこと起きてないんだけど、それでもパパはお話をしてくれてるの。あと、マールの似顔絵もたくさん描いてくれてるよ! でも最近ちょっと似てないかな。スランプってやつなのかな?」
どうやら、マールの父親も、娘の死を受け止めきれない部分があるようだった。
「スランプなんて、難しい言葉知ってるじゃない」
「パパが本を読んでくれるから、マールは博識なのだ」
博識という部分を強調して、マールは自慢げに胸を張った。
「で、どんなお話が好きなの?」
「ケンカをはじめそうな人達の前に神様が来て、一緒にお祭りを始めるの!」
以前自分が憑依させた神、クレイグの話題が出て、アリスはちょっと気恥ずかしい気持ちになった。
「うん、あたしもそのお話、好きだよ」
「本当! マールと一緒なんだね!」
「うん。一緒」
そう言って、アリスは右手を差し出した。
「だから、握手」
ちょっと不思議そうな顔をしながらも、マールは握手に応じた。
「……この子に身体を預ける」
聖印籠のある左手に力を込めつつ、アリスはそう呟いた。
すると、マールの姿は掻き消え、アリスの身体は縮んでいき、マールと同じぐらいの年の頃の姿になっていった。神を降ろすことができる聖印籠を持ってすれば、人間の魂を乗り移らせることもできるのだ。
「あれ、どうなってるのこれ?」
アリスは自分の手足を確認するように動かしてそう言った。
「驚かせてごめんね。ちょっとあたしの身体の中に入ってもらった」
同じくアリスの口から、説明の言葉が発せられた。アリスはハテナマークを浮かべたような顔をしている。
「パパに会いに行こう。中々起きてこないから、きっと心配してるよ」
「うん!」
「きっとスト様のお芝居にも連れて行ってくれるよ」
「やったあ!」
アリスは両腕を上げて喜びを表現する。
「でも、ちょっと難しいかも。マールちゃんにわかるかなあ?」
「さっきも言ったでしょ! マールは博識だって!」
「ふふ、そうだったね」
「中身もちょっとだけ知ってるよ。神様と悪魔が、どっちの言ってることが正しいかってお話になって、賭けをするの」
「おお、予習ばっちりじゃん」
「えへへ、スト様のお部屋で読んじゃった。博識なマールでも難しかったから、ここまでしか知らないけど」
あのお芝居を見て、理解してくれれば、わかるはずだ。自分の行くべき場所が。少し寂しいけど、神でも、悪魔でも、死は覆せない。